山口仙二

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山口仙二(やまぐちせんじ、1930年 -)は、日本の反核平和運動家。自らも長崎市原子爆弾により重傷を負っている。

目次

[編集] 経歴

[編集] 被爆者として

1930年、長崎市に生まれる。1945年8月9日長崎県立長崎工業学校1年時の14歳の時に、学徒動員で通っていた三菱長崎兵器製作所大橋工場裏(長崎原爆の爆心地から1.4kmの地点)で、防空壕を掘る作業中に原子爆弾に被爆した。周囲で多くの学生が死亡し、自身も顔と全身に大火傷を負った[1]。大村海軍病院に搬送され40日間にわたる高熱等に苦しめられたが、奇跡的に回復して翌1946年3月9日に退院した[2]

しかしその後は顔から胸に残ったケロイド[3]に悩まされた。1951年に同校機械科を卒業したが、就職時には学徒動員先だった三菱造船[4]をはじめ多くの企業で体格検査に不合格となった。そのため五島の父親のもとで駄菓子屋と農業をして生活した。1953年には土地を売って長崎市に戻り、1957年まで饅頭屋を営んでいた。

[編集] 運動家として

1952年、ケロイド跡治療(植皮手術)のための入院先で患者会を結成した。その後平和運動に没頭した。1954年には、単身上京して被爆者救済を陳情するものの、成果はなかった[5]

1955年10月1日に長崎原爆青年乙女の会を結成して初代会長に就任。また長崎原爆被災者協議会会長、日本被爆者団体協議会代表理事、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員などを歴任した。

1982年に開かれた第2回国際連合軍縮特別総会の全体委員会で、NGOを代表して演説した。演説では以下の文言で締めくくった。

私の顔や手をよく見てください。よく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、 子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ1人たりとも許してはならないのであります。 核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約してくださるよう心からお願いをいたします。
私ども被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ、ありがとうございました。[6]

1990年代前半より喘息を患うなど体調が悪化。また1年のうち2、3ヶ月を病院で過ごす。被爆から50年以上を経ても、自分の顔にコンプレックスを持っている。2003年には長崎市を去り老人福祉施設への入居を考えていた。しかしいまなお周囲からの期待は大きく、活動を続けている。2007年現在、雲仙市内のケアハウスで暮らし、酸素吸入管を手放せない日々を送るが、取材には応じるなど非核平和への思いはなお衰えていない[7]。2007年4月に発足したノーモア・ヒバクシャ九条の会の呼びかけ人にも名を連ねている。

山口の活動は1986年5月22日NHK「被爆者 アメリカを行く」で、またその半生は1999年5月29日長崎放送「ゆるすまじ~山口仙二 その生の記憶」で紹介された。2005年にはアメリカの歴史学者アーウィン・エーブラムズによってノーベル平和賞候補に選出された[8]

[編集] 脚注

  1. ^ 被爆後の写真(No more NAGASAKI's HomePage)
  2. ^ 被爆から治療までの一連の体験は長崎平和宣言 被爆者の語り長崎放送 被爆者の証言に詳しい
  3. ^ 厳密には肥厚性瘢痕か。ケロイド#原子爆弾被爆によるものを参照
  4. ^ 現在の三菱重工業
  5. ^ そもそも国会は休会中で多くの代議士が不在だったという
  6. ^ 長崎放送のサイトより引用。この演説は中学生の社会科教材にも取り上げられた
  7. ^ たとえば毎日新聞(2007年11月8日)全日本民医連(2007年原水爆禁止世界大会報告)
  8. ^ 長崎新聞(2005年4月13日)


最終更新 2009年11月20日 (金) 04:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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