山口高志
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| 阪神タイガース コーチ #85 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県神戸市長田区 |
| 生年月日 | 1950年5月15日(59歳) |
| 身長 体重 |
170cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1974年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1975年4月11日 |
| 最終出場 | 1982年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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山口 高志(やまぐち たかし、1950年5月15日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。現役時代は、時速150キロ以上と推定される剛速球を武器に、阪急ブレーブスの黄金時代を支えた。
目次 |
[編集] 経歴
父・達三、母・房の次男として生誕。3500gと大きな赤ん坊であった。高志という名前は山口が生まれる前から父が考えていた名前で、「男なら、志を高く持て」という意味を込められて付けられる。
野球を始めたのは小学4年生の頃で、地肩の強さを買われて投手と外野手を任された。
高取中では投手で3番。このとき甲子園で見た滝川高校のプレーに感動し、同校を目指そうとするも、学費が高いことから両親に遠慮して市立神港高校に進学する。
高校入学当初、骨の発育が体の発育に追いついておらず、肋間神経に激しい痛みが走り出すようになる。野球の練習などとても無理で、いつの間にか学校を不登校となり、須磨の海岸や自宅近くの高取山で時間潰しをするようになる。希望を見失っていた同年夏、高木太三朗が同校監督に就任、ここで転機が訪れる。高木が熱心に部活に誘ったことで、もう一度野球をやる気になった。治療の甲斐もあって、同年秋からは猛練習に耐えられるほどになる。
のち関西大学へ進学。関西大学では大学野球で以下のような伝説的記録を残す。
- 通算最多勝利:46勝
- 年間個人最多勝利:18勝
- リーグ戦 21連勝
- シーズン個人最多奪三振:100個
- 68イニング連続無失点
- 6試合連続完封
4年生次の第1回日米大学野球選手権大会においても、後のメジャーリーグMVP選手を含むアメリカ代表チームに対し3勝[1]を挙げ、最高殊勲選手賞を受賞。アメリカ代表監督に「ヤマグチ一人にやられた」と言わしめた。
大学卒業を前にした1972年10月、突然プロ入り拒否を宣言。理由は、「プロとしてやっていく自信がなかったから」。プロのスカウト達は皆言葉を失うほどショックを受ける。しかし、同年のドラフト会議でヤクルトアトムズが4位にて強行指名する。山口本人は「マナー違反」と入団拒否をするが、当時のヤクルト球団オーナー松園尚巳は熱心で「毎日口説くために東京からの新幹線の定期券買ってくる」、「毎日交渉するから隣の空き地にプレハブ建てて住む」と言うほど惚れ込んでいた。のちに、山口の父親によると、松園は山口がプロ入り拒否を翻意するかもしれないと思い、こっそりと白紙の小切手を渡したという。
ヤクルトからの指名を受けたが意志は変わらず入団拒否し、翌年春に松下電器産業に入社。同社野球部に入部した。「世界の一流企業・松下なら、プロに入らずとも定年までコツコツ働けて安定した収入が得られる」というのが入社理由だった。
1974年のドラフト会議で、阪急ブレーブスから1位指名され入団(背番号:14)。当時のドラフト制度は最初に12球団で指名順を抽選する方式であり、ここでは近鉄バファローズが1番クジを獲得するも、近鉄は山口の指名を回避する(近鉄の1位指名は、山口の同僚の福井保夫)。近鉄はクラレンス・ジョーンズがこの年本塁打王のタイトルを獲得しており、このジョーンズの年俸が翌年大幅アップすることを恐れて、指名前には6000万〜7000万円とも言われた山口の契約金にまで大枚をはたけないと判断した。この結果、2番クジだった阪急が指名することとなる。だが、近鉄の予想とは裏腹に、山口が阪急と契約を交わしたときの契約金は、それよりはるかに低い3600万円であった。
身長170cmと小柄ながら「三日前から振らないと打てない」とまで形容された豪速球で新人王を獲得。1978年にはリリーフに転向し、最優秀救援投手のタイトルを獲得する。しかし、その年の日本シリーズで打撃練習中[2]に腰を痛め、1979年以降は左アキレス腱の故障にも泣き、それでも速球にこだわり続けたために成績が低迷、1982年に引退した。
その後は1983年より阪急→オリックス、2003年からは阪神で投手コーチを務め、藤川球児らを育成した。2005年からは阪神の西日本地区のスカウトとして働いた。2009年から再び阪神の投手コーチを務めている。
[編集] プレースタイル・人物
現役の頃はまだスピードガンがなかったが、迫力のある投球フォームから投げる剛速球は160キロ近かったとも言われている。山田久志は山口について「最初に評判を聞いたときは『速いって言ってもアマチュアだろう。プロは違うんだよ』と思っていたが、実際に見てビックリした。彼を見てストレートではかなわないと思った」と語っている。また、山田は山口について「高志は終速150キロだ」と語っており、非常に伸びのある速球が、実際の速度以上にスピードを感じさせていた。
1976年、日本シリーズで山口のいた阪急と対戦することになった巨人軍は、山口の豪速球に対応するため、打撃投手にマウンドの定位置より2メートル程度前から投げさせ、打撃練習を行なった。1937年、巨人軍の沢村栄治投手の速球を打ち込むため、大阪タイガース(現・阪神タイガース)が行なった打撃練習を模倣したものであるが、全盛期の山口の速球が、いかに怖れられていたかを示すエピソードである。また対戦した巨人の高田繁は「山口は明らかに江夏よりも速かった」と漏らしている。
しかし、その豪速球は入団1年目がピークで2年目以降から下降線をたどるようになってしまった。それでも速球へのこだわりを捨て切れなかったために短命に終わり、選手としては実働20年284勝を挙げた山田とは対照的な野球人生だった。山口は山田について「山田さんはストレートが通用するうちに変化球投手としての道を模索していた。そこが僕と違っていた」と語っている。
また、山田によれば、山口の現役時代のフォームは、いつも振り切った右腕が左太ももにあたったほどであったという。その大きなフォームのため、走者にモーションを盗まれる事が多く、1977年のオールスター戦では、1塁ランナーの河埜和正に二盗、三盗を立て続けに許している。さらにマウンドでの投球動作により突き指までしている。
山口と同時代に阪急で活躍した河村健一郎捕手は 「自分が受けた投手の中で、ボールを捕るのが怖いと思ったのは山口だけだった」と証言している。
日本プロ野球史上最高のスイッチヒッタ-と言われる松永浩美は平成19年に鳥取県伯耆町に野球教室の講師として訪れた際、地元の少年野球指導者からの「今まで対戦した中で一番速かった投手は誰ですか」の質問に対して次のように語った。1978年当時阪急の練習生だった松永は、公式戦のときには、バックネット裏に陣取るスコアラーの補佐をする仕事をしていた。ある試合で自軍の攻撃が終わり、いつものようにベンチにスコアラーの記した相手投手の配球メモを届けた。上田利治監督にメモを渡しネット裏に戻ろうとした時、その回からリリーフしてマウンドで投球練習を行う山口の、凄まじいばかりの球速とボールの伸びに目を奪われた。しばし唖然として山口の投球を見ていたが、上田監督に「マツっ。さっさと戻らんかい!」と一喝されようやく我に返った。「現役時代にどんなピッチャーと対戦しても速いとは思わなかったけど、山口さんのボールはねぇ・・・あれは人間の投げる球じゃない」。江川卓・槙原寛己・郭泰源・伊良部秀輝らの全盛期と現役時代が重なる松永の言葉が、山口の速球の秀逸さをよく物語っている。
ドラゴンズHOTスタジオで鈴木孝政が「山口は肩が弱く遠投でも90mそこそこしか投げられなかった」と発言した事があるが、遠投能力が低いからといって「肩が弱い」と決め付けることは出来ない。「遠投能力と投手としての球速が単純に比例しない」理由として、各々の投球動作・技術が違う事[3]やゴルフにおけるボール初速と打ち出し角度およびバックスピン量の関係[4]などが挙げられる。
フィクションではあるが、漫画あぶさんの中で、(松坂大輔との初対決を前に)王貞治に「いままで対戦した投手の中で一番速かった投手は誰か」と聞かれた景浦安武が、「1975年、阪急ブレーブスの山口高志です。」と答えている描写がある。数十年にわたって日本のプロ野球を見続けている水島新司がこういった記載をしているのは興味深い。
阪神2軍投手コーチ時代に当時、期待されながらもなかなか成績を残せないでいた藤川球児に対し、右膝を折って沈み込みながら投球する悪癖を指摘し、投球の際に、右膝を伸ばすようフォーム改造を指導した。その結果、リリースポイントがより高い位置になったことにより、ストレートの伸び・角度が格段に良くなり、藤川は球界を代表するリリーフ投手に成長した。
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 死 球 |
奪 三 振 |
自 責 点 |
防 御 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1975 | 阪急 | 32 | 18 | 4 | 1 | 12 | 13 | 1 | 203.0 | 169 | 14 | 78 | 149 | 66 | 2.93 |
| 1976 | 35 | 15 | 2 | 0 | 12 | 10 | 9 | 197.2 | 156 | 18 | 97 | 152 | 62 | 2.82 | |
| 1977 | 42 | 10 | 2 | 0 | 10 | 12 | 11 | 179.2 | 141 | 16 | 90 | 151 | 61 | 3.05 | |
| 1978 | 42 | 1 | 0 | 0 | 13 | 4 | 14 | 122.2 | 90 | 11 | 67 | 95 | 38 | 2.78 | |
| 1979 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 6 | 32.0 | 19 | 4 | 26 | 26 | 7 | 1.97 | |
| 1980 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 3 | 28.0 | 27 | 5 | 31 | 12 | 16 | 5.14 | |
| 1981 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9.0 | 13 | 2 | 5 | 4 | 11 | 11.00 | |
| 1982 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 15.0 | 24 | 2 | 15 | 11 | 17 | 10.20 | |
| 通算:8年 | 195 | 44 | 8 | 1 | 50 | 43 | 44 | 787.0 | 639 | 72 | 409 | 600 | 278 | 3.18 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰
[編集] 脚注
- ^ 初戦はウォーレン・クロマティを5打数無安打に抑え、13奪三振で完投勝利。後のMVP選手とはフレッド・リン
- ^ 実際は同年10月末に有馬温泉で行われた祝勝会の翌日、チームメイトとのゴルフ中に足を踏み外したときによるもの。本人が後年日刊スポーツ連載コラム「伝説」で初めて明かした。第1戦・第2戦はカモフラージュのため素振りだけ行っていたが、第3戦以降はベンチ入りメンバーから外れた。
- ^ 筑波大学大学院体育学研究40:89-103 1995「大学野球選手における速投および遠投動作の3次元的比較研究」
- ^ ゴルフダイジェスト社発行ゴルフダイジェストチョイス誌2002年5月号43ページ
[編集] 参考文献
- 伝説〜剛速球に賭けた男 山口高志〜
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月19日 (木) 10:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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