山崎拓

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本来の表記は「山﨑拓」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
日本の政治家
山﨑 拓
やまさき ひらく
生年月日 1936年12月11日(72歳)
出生地 満州国 大連市
出身校 早稲田大学商学部卒業
前職 ブリヂストン従業員
現職 近未来政治研究会会長
所属政党 自由民主党
称号 商学士(早稲田大学)
公式サイト taku.net

日本の旗 内閣総理大臣補佐官
(内閣総理大臣の特命事項担当)
内閣 第2次小泉改造内閣
任期 2004年9月27日 - 2005年5月20日

日本の旗 第57代 建設大臣
内閣 宮澤内閣
任期 1991年11月5日 - 1992年12月12日

日本の旗 第47代 防衛庁長官
内閣 宇野内閣
任期 1989年6月3日 - 1989年8月10日

選挙区 (旧福岡県第1区→)
福岡県第2区
当選回数 12回
任期 1972年 - 2009年

当選回数 1回
任期 1967年 - 1969年
  

山﨑 拓(やまさき たく、1936年12月11日 ‐ )は、日本政治家近未来政治研究会会長。本名は山﨑 拓(やまさき ひらく)。報道等では山崎 拓(やまさき たく)と表記されることもある。

福岡県議会議員(1期)、衆議院議員(12期)、内閣官房副長官防衛庁長官第47代)、建設大臣第57代)、内閣総理大臣補佐官(内閣総理大臣の特命事項担当)などを歴任した。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

満鉄調査部員であり後に相模女子大学学長を務める山崎進の子として満州国大連市(現在は中華人民共和国の大連市)で生まれる。たまたま、同じ日に母方の祖父の山口慶八が福岡県三池郡開村(現在のみやま市の一部)で炭鉱開発に成功したため、父親に生まれてきた子の名を「開」とするよう電報を打った。父親は開拓の「拓」の字を名付け、読み仮名を炭鉱開発と満州開拓を掛けて「ひらく」とした。父方の祖父の山崎和三郎は飯塚炭鉱を経営し、玄洋社の幹部であった。

第二次世界大戦の終戦後に帰国し、福岡県福岡市で育つ。小学校3年生の時に片目を失明し、隻眼となる。福岡教育大学附属福岡中学校福岡県立修猷館高等学校早稲田大学商学部卒業。なお、朝日ジャーナル編集長、朝日新聞編集委員などを務めた伊藤正孝とは、中学・高校・大学での同期で親友であった。学位は商学士(早稲田大学)。大学卒業後は大手タイヤメーカーのブリヂストンで5年間のサラリーマン生活を送る。

1967年に福岡県議会議員に当選。この頃に中曽根康弘に見出され、1969年の総選挙に無所属で出馬するも落選。浪人生活[1]を経て、1972年に衆議院に初当選し、その後防衛庁長官建設大臣を歴任する。1990年ごろから、旧経世会主導の自民党の政治運営を批判し、小泉純一郎加藤紘一とともに、YKKを結成して活動していた。1998年に山崎派を結成し、自民党総裁の有力候補として注目されたが、2000年に森内閣の倒閣に失敗し、総裁候補から脱落した。2003年の衆議院選では自身のスキャンダルにより21年間保持していた衆員席を失い自民党副総裁を辞職するも、2005年の衆議院選では当選。だが、自民党大敗の2009年の衆議院選では再び落選した。

[編集] 政歴

[編集] 政策

[編集] 北朝鮮政策

山崎は北朝鮮に対しては制裁よりも対話を重視し、北朝鮮の政府関係者とも頻繁に会談をおこなっており、北朝鮮への制裁を推進した安倍内閣と激しく対立した。

  • 2006年6月14日自民党総裁選挙で北朝鮮制裁派の安倍晋三が最有力候補になると、その対抗馬として「『ポスト小泉』の最重要課題は『日朝国交正常化だ』と福田康夫に出馬を託し、自らの出馬を見送ることを宣言したが、このときの総裁選挙に福田は立候補しなかった。
  • 2006年7月26日、米国ワシントンの講演で、「(北朝鮮による弾道ミサイル発射は)北朝鮮の(米国への)ラブコールであり、米国は寛大に受け止めるべき」と呼びかけ、安倍官房長官(当時)が北朝鮮のミサイル基地攻撃に言及していることについても、「北朝鮮のミサイル発射基地をたたくべしという勇ましい議論が日本国内で噴出している。政府要人がこの議論に参加することで、国民の喝采を得ている。そういう方向に動くとしたら政権交代を余儀なくされるだろう」と語った。同日、山崎はジョン・マケインと会談、持説の支持を取り付けようとしたが、「米国は長い間その努力(米朝協議)をしてきたが、結局北朝鮮は核開発を続けている。中国が影響力を発揮しないと、この問題は解決しない」と退けられた。
  • 2006年11月、北朝鮮の核問題について麻生太郎外務大臣が「隣の国が持つとなった時に検討も駄目、話もできない、意見交換も駄目というのは一つの考え方だが、いろいろ議論しておくことは大事だ」と発言したことに対して、「北朝鮮の核開発はけしからんと言っているときに、場合によってはわが国もやるぞ、という議論は成り立たない」と非難した。
  • 2007年1月9日北朝鮮を電撃訪朝する。安倍内閣の外交政策に対する牽制目的があるものと言われており、政府・与党内から強い不満が出た。蓮池透との面談で「安倍総理と話し合って、日本として一体になってはどうか」と求められたが、山崎は「できない」と回答した[2]
  • 2007年3月8日安倍晋三首相の北朝鮮への強硬姿勢に対して「核問題と拉致問題を上手に分けて対処すべきだ。日本政府の対応は拉致問題に偏りすぎている」と非難し、また従軍慰安婦問題で、安倍首相が「官憲が家に乗り込んで女性を強引に連れて行くといった“狭義の強制性”を裏付ける証拠はない」という見解を示していることに関して「従軍慰安婦が存在したのは事実であるし、それが強制によるものか間接的な強制であるかは弁解にすぎない。そのような議論をするより河野談話を認め、弁解がましいことは一切しないほうがいい」と持論を展開した。この発言は山崎の女性スキャンダルの多さから「この方に女性のことをどうのこうの言う資格があるのか」「自らの性癖を暴かれた時は裁判にまで訴えたのに自分の父祖の世代が『(いわれなき)性犯罪者』呼ばわりされても平気らしい」と黄文雄小林よしのりなど反発を買った。
  • 2007年9月18日の「内外情勢調査会」における講演で、北朝鮮の核実験を「核保有がはっきりしたという意味でやらせてよかった」と発言し、物議をかもした(後日、山崎は「北朝鮮の核実験を肯定するものではない」と釈明している)。
  • 2008年6月12日、安倍が山崎が会長を勤める日朝国交正常化推進議員連盟が北朝鮮への制裁解除と対話路線への転換を主張していることについて、「国会議員が、交渉を行っている政府よりも甘いことを言ってしまったのでは、政府の外交交渉能力を大きく損なう。百害あって一利なしだ」と批判をすると、「圧力一辺倒は幼稚な考えで、何ら前進がなかった」と反論した。
  • 2008年6月17日、山崎の「反対派は幼稚」発言を受けて、安倍が「百害あって利権ありと言いたくなる。国会議員は国益を考えて行動すべきだ」と再批判をすると、山崎は「私は利権政治家ではない。取り消しと謝罪を求める」と述べ、安倍に発言の撤回と謝罪を要求した。
  • 2008年6月20日、安倍は「対話路線で拉致問題が進展しなかったことを学習してもらいたい」と発言の撤回と謝罪を拒否した。翌日、山崎は「国民感情として“拉致問題が完全解決しないと後のことはどうでもいい”というような感覚がありすぎる」と拉致問題を重視する日本国の世論を非難し、「北朝鮮の核問題で重要な展開がある。足の引っ張り合いをやっている時ではない」と主張した。
  • 2008年6月28日、「安倍前首相の対北朝鮮外交は犬の遠吠え。小泉元首相のように直接乗り込んで交渉しないとダメだ」とテレビ西日本の報道番組で発言。
  • 2008年7月24日、拉致問題の進展がなければ北朝鮮への経済・エネルギー支援に参加しないとの日本政府の方針に対して『中国や韓国などとの関係で日本が窮地に陥る。6カ国協議での朝鮮半島の非核化実現ほど重要なものはない』と発言した。
  • 2009年3月18日、北朝鮮が日本に向けた核ミサイル発射実験を行うことを表明すると、麻生太郎はミサイルを迎撃することを宣言した。これに対して山崎は「阻止するためには対話しかない。北朝鮮の金英逸首相が北京に行ったこの機会が現時点では一番いい機会だ。制裁を強化しても構わないが、今まで効果がほとんどなかった。国際社会と足並みをそろえてやっていくべきだ」と、中国と連携した対話路線を行うことを求めた。

[編集] 主な役職

[編集] その他

  • 2004年 第44回衆議院議員総選挙で神道政治連盟に”戦没者追悼のための新施設構想に断固反対し、靖国神社公式参拝を含め、靖国神社をめぐる問題の早期解決に向けて積極的に努力します”と公約書を交わして支持を取り付けるが、2ヵ月後に新たな追悼施設の建設を目指す議員連盟「国立追悼施設を考える会」を発足させ、会長に就任した。
  • 2009年6月4日に、公明党太田昭宏代表と国会内で会談し、「私は政策的に公明党に極めて近い。入党したいぐらいだ」「私が入りたくても、公明党の方が『要らない』と言うかもしれない」とヨイショを連発した。[3]
  • 第45回衆議院議員総選挙において落選したが、以前から地元の福岡市では落選運動も展開されて、落選した翌日には主宰する市民団体「山崎拓を落選させる福岡市民の会」からは声明が発表された。[1]

[編集] 趣味

  • 柔道野球囲碁が好きで、特に柔道は臆病な自分の心を奮起させるため中学から始め、最終的には六段になった。ソフトボールは地元事務所でチーム(拓サンデーズ)を組み定期的に試合をしている。また、日本ソフトボール協会の会長を務めている。囲碁は5段。

[編集] 著書

  • 『転換期の光芒―厚生政務次官日記』り-ぶる出版企画、1980年5月
  • 『転機に立つ日本の防衛』り-ぶる出版企画、1982年5月
  • 『アジア太平洋時代と日米安保 : 寄稿・講演・対談集』サンドケー出版局、1996年9月、ISBN 4914938987
  • 『2010年日本実現』ダイヤモンド社、1999年7月、ISBN 4478180245
  • 『憲法改正―道義国家をめざして』生産性出版、2001年5月、ISBN 4820117106

[編集] 参考文献

  • 『山崎拓・全人像』黒田京平著、行研出版局、1993年2月
  • 『せんせい : わたくし山崎拓自民党幹事長の愛人でございました』山田かな子著、飛鳥新社、2003年4月、ISBN 4870315564

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ 一時期、シュウマイ屋を開き、シュウマイを「駅弁」として売り歩いたこともあるが、上手く行かずに畳んでいる
  2. ^ 増元照明からのメッセージ 2007年1月18日
  3. ^ ZAKZAK 2009/06/05

[編集] 外部リンク


官職
先代:
大塚雄司
日本の旗 建設大臣
第57代:1991年 - 1992年
次代:
中村喜四郎
先代:
田沢吉郎
日本の旗 防衛庁長官
第49代:1989年
次代:
松本十郎
党職
先代:
小渕恵三
自由民主党副総裁
2003年
次代:
先代:
古賀誠
自由民主党幹事長
第36代 : 2001年 - 2003年
次代:
安倍晋三
先代:
加藤紘一
自由民主党政務調査会長
第41代 : 1995年 - 1998年
次代:
池田行彦
先代:
島村宜伸
自由民主党国会対策委員長
第41代 : 1995年
次代:
村岡兼造
先代:
政策科学研究所より分裂
近未来政治研究会会長
初代 : 1998年 -
次代:
現職

最終更新 2009年11月8日 (日) 18:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【山崎拓】変更履歴

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