山崎芳樹
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| 山崎 芳樹 | ||
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| 名前 | ||
| カタカナ | ヤマサキ ヨシキ | |
| ラテン文字 | YAMASAKI Yoshiki | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1914年4月8日(95歳) | |
| 出身地 | 広島県広島市 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1938-? | 東洋工業 | |
| 監督歴 | ||
| 1938-1942 1947-1950 |
東洋工業監督 東洋工業監督 |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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山崎 芳樹(やまさき よしき、1914年4月8日 - )は、広島県広島市出身の実業家。
マツダ5代目社長、現マツダ名誉会長名誉相談役。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現・サンフレッチェ広島)初代監督。
目次 |
[編集] 来歴・人物
広島県のサッカー御三家であった広島県立第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)[1]を経て、広島高等工業学校(現・広島大学工学部)卒業。
1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社[2]。同年、東洋工業蹴球部を同好会形式で創設[3]、監督兼選手として銭村健次・小畑実らとともに活躍した[4]。1949年(昭和24年)には、実業団チームとして初の日本選手権(現在の天皇杯)に出場した。
1965年(昭和40年)取締役自動車製造部長、1973年(昭和48年)常務取締役、1975年(昭和50年)専務取締役を経験。
1977年(昭和52年)12月、松田耕平社長の退陣および会長就任に伴い東洋工業社長に就任した。これはオイルショックによる経営危機を打開するため、徳田博美の大蔵省銀行局・小松勇五郎の通産省の介入及びメインバンクの住友銀行の指導によるもので、創業家一族である松田家以外の初の社長就任だった。常務会[5]新設による合議制の導入したり、住友銀行からの村井勉副社長を迎え入れた[1]。
1978年(昭和53年)3月、サバンナRX-7発売。翌1979年(昭和54年)、一時決裂していたフォードとの資本提携交渉を再開し、同年11月に資本提携、これにより就任3年で東洋工業をほぼ立て直した[6]。1984年(昭和59年)5月、東洋工業からマツダへ社名変更。
日本自動車工業会理事の他、広島県商工会議所連合会頭、広島県経済同友会理事、広島県サッカー協会会長など、多くの要職を務めた。
[編集] 所属クラブ
[編集] 関連項目
[編集] 脚注・出典
- ^ い ろ 提携合意 外電が伝えた(01年6月6日付け中国新聞マツダ特集)
- ^ テレコム対談(テレコムニュース1999年7月号)
- ^ サッカーマガジン1966年06月01日号より。
- ^ 戦後の混乱と復興期に(5)(賀川サッカーライブラリー)
- ^ 現在の経営会議
- ^ ロータリー生みの親 山本健一相談役 半世紀を語る<上>(98年1月22日付け中国新聞)
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年9月21日 (月) 18:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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