山本小鉄
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| 山本 小鉄 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | 山本 小鉄 |
| 本名 | 山本勝 |
| ニックネーム | 鬼軍曹 |
| 身長 | 170cm |
| 体重 | 100kg |
| 誕生日 | 1941年10月30日(68歳) |
| 出身地 | 神奈川県横浜市南区 |
| デビュー | 1963年7月19日 |
| 引退 | 1980年4月4日 |
山本 小鉄(やまもと こてつ、1941年10月30日 - )は、新日本プロレスに所属していたヘビー級の元プロレスラー。本名は山本勝(やまもと まさる)。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。現在はタレントととしても活動、芸能事務所、インターテイク所属。
公称身長170cm、体重100kg。現役引退後は、解説者・レフェリーとして活躍した。
目次 |
[編集] 来歴
横浜市立横浜商業高等学校卒業後、東海金属工業株式会社に勤務しながらYMCAでボディビルに打ち込み、1963年日本プロレスに入門、力道山最後の弟子となる。同年7月19日に北沢幹之戦でデビューを飾った。
1967年1月、星野勘太郎とともにアメリカ遠征に出る。テキサス州ダラスなどで力強いファイトを展開し、小型でもパワフルであると評判だったヤマハのオートバイにあやかって名付けられた「ヤマハブラザーズ」のタッグチーム名で名を上げた。また、ダラスではフリッツ・フォン・エリックの家に住み込み、身の回りの世話をしていた時期がある。ワールドリーグ戦でゴリラ・モンスーンを破ったのは日本プロレス史上に残る番狂わせとして有名である。
1971年12月、アントニオ猪木が日本プロレスを追放されると猪木に協力し、翌年の新日本プロレス旗揚げを実現させた。この頃から現場責任者・コーチとして活動している。
1979年1月、「ヤマハ・ブラザーズ」として国際プロレスに乗り込み、グレート草津・マイティ井上組を破ってIWA世界タッグ王座を獲得した。この時期の異名として人間爆弾が存在する。
1980年4月4日の引退後は、レフェリー(後に審判部長)を務める傍ら同団体道場のコーチや新日本プロレス学校の校長を歴任し、鬼コーチ、鬼軍曹と呼ばれながら若手レスラーを育てた。 「ワールドプロレスリング」のレギュラー解説者として、古舘伊知郎、桜井康雄と組んだことでも知られており、わかりやすく的確な解説は評価が高い。一方で、審判部長として試合を見守る役目も負っており、試合を止めるべく席を立つ前の「あっ、ちょっと待ってください」という一言は、一時期ファンの間で流行した(著書のタイトルにもなっている)。また、ビッグ・バン・ベイダー日本初登場の解説で”インベーダー”と間違えたことがある。
その後永田裕志、中西学ら「TJ軍」後見人のほか、J sports ESPNで放送されている新日本プロレス中継「S.X.W」の解説を務める。
新日本プロレスは、カール・ゴッチの「ゴッチイズム」と、それに山本の考えを加えた「小鉄イズム」も存在する。
[編集] 人物
山本小鉄は一度は日本プロレスに入門を申し入れたものの、力道山から「お前の様なチビがレスラーになれるか!」と門前払いで拒まれた。しかしプロレスラーへの夢を諦めきれない山本は1年間徹底的に体を鍛え、再度力道山に直談判した。このときも「何度来てもダメなものはダメだ!」と断られたが、力道山をハッシと睨み付け、固く握った拳をブルブルと震わせる山本を見て「こいつの意思は本物だ」と確認した力道山は入門を許可したと言う。
非常に真面目な人物であり、度を超えた下ネタを極度に嫌っている。あるTV番組に出演中「自分はアダルトビデオなんか一度も見たことはないし、見たいとも思わない」と言ってのけた。共演者が『冗談でしょう?』というニュアンスを含めて「本当ですか?それ」と質問したのに対し「絶対に見ない!」といって睨みつけたというエピソードがある。
スキンヘッドで強面の外見とは裏腹に、(礼儀をわきまえた上で接すれば)物腰は柔らかく、また愛妻家としても知られる。また現在もそうであるかは不明であるが、山本が割と後年に誕生した娘を非常に可愛がる子煩悩で、娘の出生日から現在に至る日にちを言えるほどの可愛がりようである。
情に厚く律儀なことで知られ、『S.X.W.』番組内サプライズで、ファンからもらった誕生日プレゼントのマスク(新日本のライオンマークを模ったデザイン)に感激し、「これは僕の宝物にします」と言っていた
元来口下手だった山本は、ワールドプロレスリング』解説者としての任が決まった際、TV局に迷惑をかけまいと「話し方教室」に通ったという。解説者当初は、放送中に自分のことを「オレ」と言ってしまったりで、実況の古舘伊知郎を困惑させたこともあった。
道場での若手指導には厳格であり、その厳しさから、前田日明は「キャデラック(山本の愛車)の音が聞こえるだけで震えが止まらなかった」と語っている。だが、練習が終わって食事の時間となると、選手と一緒にちゃんこを囲んで歓談するなど、硬軟を使い分けていたこともあり、新日本プロレスを離れて総合格闘技方面に行った前田日明、あるいは船木誠勝などからも敬われている。
引退後も現役時並みのトレーニングを怠らず、「インディーには引退した僕より首の細いレスラーがいる」と嘆いている。新日本の東京ドーム大会で行われたOBバトルロイヤルに飛び入り参加した時には、年齢を感じさせないほどに引き締まった肉体を披露している。
現役時代の肩の負傷のため今も右腕が水平以上に上がらない。
アントニオ猪木と行動を共にすることが多かったが、猪木の海外遠征の時にはボディーガード的な役割を果たし、「いきなり銃口を向けられた時には、オレが楯になって猪木さんを守るしかないだろう」と当然の様に話していた。
猪木の日本プロレス追放発表の記者会見で、星野が坂口、小鹿らと乾杯(ちなみに木戸と藤波は会場にいたが乾杯の写真撮影時に消えた)していたことに大激怒する。後に坂口らの新日合流後、猪木と坂口はわざわざ山本に許可を採ってから、メキシコに遠征していた星野を新日本プロレスへ誘った。
ミスター高橋とは幼なじみだが、高橋が暴露本を出して以降は「リングの魂を金に換えた奴を友人とは思わない」と絶縁状態である。
プロレス界の発展のために女子レスラーの指導を行ったり、バラエティ番組などでレフェリー役を務めるなど、プロレス以外の分野でもそのキャラクターは重宝されており活躍の幅が広い。筋肉番付のめんこスタジアムのレフェリーをしたこともある。
[編集] 得意技
[編集] 著書
- 『ザ・ストロング・スタイル』1983年
- 『小鉄・古舘の愛してるぜプロレス』1984年
- 『あっ、ちょっと待ってください』1984年
- 『闘魂プロレス 決定版 小鉄の選んだベストバウト!』実業之日本社 、1985年、ISBN 4-408-39314-2
- 『いちばん強いのは誰だ』講談社、1997年、ISBN 4-06-208890-8
- 『人間爆弾発言』勁文社 、2000年、ISBN 4-7669-3628-0
- 『プロレス金曜8時の黄金伝説』講談社、2005年、ISBN 4-06-213059-9
- 『山本小鉄の人生大学プロレス学部』実業之日本社 2008年 ISBN 4-408-45188-6
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月18日 (水) 16:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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