岡田勝

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おかだ まさる
岡田 勝
生年月日 1950年5月8日(59歳)
出生地 日本の旗日本埼玉県
民族 日本人
ジャンル 俳優殺陣師・アクションコーディネーター・スーツアクター
主な作品
仮面ライダーシリーズ』

岡田 勝(おかだ まさる、1950年5月8日 - )は日本俳優殺陣師・アクションコーディネイター。大野剣友会代表。埼玉県出身。左利き

目次

[編集] 来歴・エピソード

1966年(昭和41年)、16歳。「日本テレビタレント養成所」を経て、「大野剣友会」創設と同時に同会に入門。代表の大野幸太郎に師事。

1969年(昭和44年)、19歳。『柔道一直線』(TBS)で役回りがつき、スタントでも活躍する。

1971年(昭和46年)、21歳。『仮面ライダー』(毎日放送)で剣友会がアクションを担当、岡田は第1話の怪人「蜘蛛男」のスーツアクターを務め、同作のテーマである「怪奇アクション」を見事に表現してみせる。

『仮面ライダー』では、1号・2号の仮面ライダーも演じ、危険なスタントをこなしている。大野剣友会と長く仕事をした佐々木剛は「岡田がライダーに入ると足が短くなる」と冗談めかしく語っていて、本人も「ぼくが入るとライダーの脚が短くなるからすぐにわかっちゃうんだよ」と語っている。

1972年(昭和47年)、22歳。『仮面ライダー』の殺陣担当の高橋一俊がショー実演で両足を捻挫したため、第46話の草津温泉ロケの殺陣を代行、これが殺陣師デビューとなる。この草津ロケは、同僚の中屋敷鉄也が初めて仮面ライダーを演じた回でもあった。

この作品では、「変わったアクションをしよう」と、ライダーが首に縄をかけられスノーモービルで引かれるアイディアを出したが、雪のためロケが中断。日を変えての撮影となり、高橋が復帰。結局この危険なスタントは岡田自身が演じることとなったそうである。

4月からは、多忙な高橋に代わって、1号復帰後の『仮面ライダー』で殺陣を担当。以後、「仮面ライダーシリーズ」では高橋とともに殺陣師としても活躍する。

この時期、『プレイガール』(東京12チャンネル)でもスタントを担当。大信田礼子吹き替えで素肌の多いスカート姿で松の木に登ったときは、松の葉針が刺さって体中が腫れ上がり、発熱して寝込んだが、これを押して翌日も撮影に挑んだという。

1976年(昭和51年)、26歳。『秘密戦隊ゴレンジャー』(NET)途中で高橋一俊が剣友会を退会。代わって剣友会の殺陣全般を以後、担当する。

1979年(昭和54年)、29歳。大野剣友会創始者の大野幸太郎が引退、会長に退き、これに伴い大野剣友会2代目代表の座を譲り受ける。

同年、『仮面ライダー(新)』(毎日放送)で殺陣を担当。

同作は当初、「初期のライダーに戻そう」との取り決めがあり、少し惑うところもあったという。

1980年(昭和55年)、30歳。『仮面ライダースーパー1』(毎日放送)で殺陣を担当。

この「スーパー1」は中国拳法がアクションに採り入れられており、制作に入る前に、スーパー1役の中屋敷鉄也、主演の高杉俊介の三人で「赤心少林寺拳法」指導者の龍明広の下に通い、中国拳法の指導を受けている。

同作では、長年のコンビである中屋敷鉄也のアクションも脂の乗り切った時期にあり、立ち回りの指示をしただけで即本番に入れたというほど、殺陣・演出と併せて円熟したものだったといい、「代表作」と本人も自負するものとなった。

1985年(昭和60年)、35歳。『スケバン刑事』(フジテレビ)で技斗を担当。以後『スケバン刑事シリーズ』全般を受け持つ。

同作で斉藤由貴がヨーヨーを操る一連のポーズは評判となり、シリーズは三部作、映画化に繋がるヒットとなった。

以後、殺陣師、アクションコーディネイターとしてテレビ、バラエティ、映画、各種アトラクションなどで活躍中。また、ヒロイン系ビデオメーカーである「禅ピクチャーズ」に役員として参加し、監督も手がけるほか、新宿ロフトプラスワンや各種イベントの舞台演出も行う。

仮面ライダー』などで、怪人が手を口に当ててから前へ伸ばし、炎などを吐く仕草のものは、全て岡田が演じたものだそうである。かなづちで泳げないので、2号ライダー時期のエンディングで多摩川に飛び込むシーンでは「死ぬかと思った」という。

会員時代から「凸凹コンビ」として知られる中屋敷鉄也や、岡田自身が剣友会に勧誘した新堀和男とは、現在も仕事を共にすることが多い。

[編集] 参加作品

[編集] 出演

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[編集] スタッフ

その他多数

最終更新 2009年8月16日 (日) 13:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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