岡田武史
岡田武史の最新ニュースをまとめて検索!
| 岡田 武史 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | 岡ちゃん | |
| カタカナ | オカダ タケシ | |
| ラテン文字 | OKADA Takeshi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1956年8月25日(53歳) | |
| 出身地 | 大阪府大阪市 | |
| 身長 | 175cm | |
| 体重 | 70kg | |
| 血液型 | A型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | DF | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1980-1990 | 古河電工 | 189 (9) |
| 代表歴2 | ||
| 1980-1985 | 24 (1) | |
| 監督歴 | ||
| 1997-1998 1999-2001 2003-2006 2007- |
日本代表 コンサドーレ札幌 横浜F・マリノス 日本代表 |
|
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年4月12日現在。 2. 2008年4月12日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||
岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は、日本の元サッカー選手、指導者。現在はサッカー日本代表監督、日本サッカー協会特任理事、2007年8月24日より日本エンタープライズの社外取締役。「岡ちゃん」の愛称で知られる。メガネがトレードマークで、現役時代にはメガネを外さずプレーしていたほどである。
また、監督としては以前はジャージ姿で指揮を執っていたことでも知られていたが、2008年に日本代表監督に復帰してからはスーツ姿で指揮を執るようになっている。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 幼年期〜躍進のユース時代、大学での「復活」
大阪府大阪市(香川県となっていることもある)出身。父は産婦人科医。帝塚山学院小学校時代は野球に明け暮れ、南海ホークスを応援しに大阪球場へ通う野球少年だった。しかし中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして「自分には向いていない」と考え、当時メキシコオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。天王寺高校入学後もサッカーを続け、その才能を嘱望されるプレーヤーとして名を馳せるようになる。3年生の時にはユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)、クウェートで開かれたAFCユース選手権に出場を果たした。
高校卒業後は1浪の末、一般入試で早稲田大学政治経済学部経済学科に合格(法、政経、商の受験で政経のみ成功)。当初は同大学の同好会である稲穂キッカーズに入部し、本格的な競技サッカーから離れた学生生活を送っていたが、彼が本格的な競技生活に復帰するに当たっては以下のエピソードが特筆されるであろう。
岡田が早慶戦の1週間前、西が丘で行われた試合を観戦に訪れた際、出くわしたサッカー協会の人物に「アジアユース選手権へ行かせたのは将来への投資だったのに」と嘆かれた上、翌日にはサッカー協会に呼び出されて長沼健や平木隆三など幹部からサッカーを続けていないことを直接詰問されたのである。岡田はその場で早稲田大学ア式蹴球部に電話を掛け、入部することとなった。その後は頭脳的なディフェンスを売りとするDFとして活躍。
[編集] 古河電工への就職、日本代表選出
岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年、大学卒業と同時に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍し、1986年のアジアクラブ選手権優勝にも貢献した。
また1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会にA代表として出場。当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1次リーグの対韓国代表では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている。その後も日本代表に選出され続け、ロサンゼルス五輪予選、メキシコワールドカップ予選などに出場。最終的に国際Aマッチのキャップは21を数えた。
1990年の時には34歳と、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった試合が古河電工がバイエルン・ミュンヘンと行った親善試合である。その向上心の強さ、現役続行への固い意志は衰えることなく、この試合でも活躍した彼だったが試合は善戦の末1-2で破れる。「海外トップチームとの対戦」を通じてその埋めがたい差を身を以て実感した岡田は現役引退を決意。指導者として、「日本人がこのような海外のチームを相手にどうしたら勝てるようになるのか」と模索し続ける現在の彼のスタートラインともなった。
[編集] 指導者としての再出発、代表監督へのスクランブル登板
古河電工のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせた彼は1992年にドイツへとコーチ留学する。1993年に帰国後はJリーグ発足に沸く日本サッカー界に戻り(岡田は後に「浦島太郎になったようだった」と述懐している)、古巣・古河が母体となったジェフ市原でコーチを務めた。清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる。この年に行われたアメリカワールドカップ・アジア最終予選イラク戦の、NHK BS1でのスタジオ解説を田嶋幸三とともに務める。(ちなみに地上波(テレビ東京系列)のスタジオ解説は、釜本邦茂、柱谷幸一、森孝慈。)
1995年にはサッカー日本代表コーチに抜擢される。1994年に加茂周が日本代表チーム監督に就任した際、加茂は前任のファルカンのチーム計画を一旦白紙に戻し、前々任であるハンス・オフトが行ったチーム作りを継承すべく人材を集めていた。オフトの下でコーチをしていた経験のある清雲にもコーチの話があったが清雲は断り、その代わりに岡田を推薦。しかし加茂と岡田はほぼ面識がなく、また岡田は指導者としての経験が浅いので、やりがいを感じていたジェフでのコーチ業を優先すべくこの話を当初固辞していたが、清雲に熱心に薦められて代表のコーチに就任した。
彼の一大転機は1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周監督が更迭された事から始まる。岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名される。最初の1試合を乗り切った彼は監督へと昇格を果たしたものの、当初は急場凌ぎとの見方が大勢を占めていた。しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。
1998年の本戦直前に不振だった三浦知良をメンバーから外した事では当時その是非が議論を呼んだ。本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。大会終了後のテクニカルリポート作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。
[編集] Jクラブの監督、そして解説者として
監督退任後、半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユベントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受ける。また後に横浜FMにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなった。
1999年にJ2に降格したコンサドーレ札幌の監督に就任。自身初となるJリーグの監督として、さらに前・日本代表監督ということもあり注目度・期待度が高かったが、就任1年目は5位に終わった。しかし自身の発想の転換以外にもチームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。スカウティングも自分で行った。
2年目の2000年にはこれらの努力が結実し、圧倒的な強さでJ2優勝を果たす。チームとしても初のJ1、自らも監督として初のJ1となった2001年は年間11位[1]の成績を収めてJ1残留に成功。ここを区切りに監督を辞任し、解説者の視点からサッカーを見つめなおすこととなる。札幌を指揮した期間にエメルソンや播戸竜二[2]、山瀬功治[3]、今野泰幸[4]など若く有能な選手を発掘・起用した。さらにこの年の得点王に、当時J2だった大分トリニータから獲得したウィル(24得点)が得点王に輝くなど、監督としての才能を十分発揮させた。2002年はサッカー解説者として活動。FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、フィリップ・トルシエ退任後の次期日本代表監督候補にも噂された。
2003年、横浜F・マリノス監督に就任。Jリーグで常勝チームとなりえる規模を持つクラブの監督就任は彼の念願だった。充実した戦力を率いた1年目の1stステージからいきなり優勝を飾り、その余勢を駆って2ndステージも優勝。就任1年目にして完全優勝の栄冠を手にした。2004年も1stステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げる。浦和レッドダイヤモンズと争ったサントリーチャンピオンシップでは1勝1敗で迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝く。
2005年も優勝候補の一角に挙げられていたが、アジアチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。結局、9位という期待外れの成績に終わる。成績低迷の責任を取り監督を辞任するとの観測も流れる中、2006年以降も横浜FMで監督を続投することが公式に発表された。
復活を期して臨んだ2006年は開幕4連勝を飾ったものの、その後急激にチームコンディションが悪化。再浮上の切っ掛けが掴めないまま18節終了時点で自力優勝が消滅し、19節の大宮戦終了後に辞意を表明。翌8月24日に辞任し、3年半に渡った横浜での指揮にピリオドを打った。表面上は成績不振によるものとされているが、真の理由は強化方針を巡るフロントとの確執にあるとも言われている。
[編集] 再びのスクランブル、日本代表監督への復帰
日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっていた中、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院し、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になり、サッカー協会から後継監督として打診を受ける。2007年12月7日、日本代表監督再就任が正式に発表され、2008年から指揮を執るようになった。前回の在任時はコーチ陣と同じジャージ姿での采配が話題となっていたが、再就任後は犬飼基昭会長の指示でスーツ姿で指揮を執るようになっている(ちなみに、岡田自身は以前と同じジャージ姿での指揮を希望しており、犬飼会長に何度かジャージの着用を願い出ているが「みんなから見られる仕事だから」という理由で却下されている)。
2009年6月6日、W杯アジア最終予選の第6戦。アウェーでのウズベキスタン戦を1-0で勝利。日本を4大会連続4度目の本大会出場決定に導くが、この試合の終了直前に審判に異議を唱えたとして監督生活初の退席処分を受けた。
[編集] 所属クラブ
[編集] 代表歴
- 国際Aマッチ 24試合 1得点(1980-1985)
- アジア競技大会(1982)
- ロサンゼルスオリンピック予選
- ワールドカップメキシコ大会予選
| 日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| 1980 | 3 | 0 | 5 | 0 | 8 | 0 |
| 1981 | 5 | 0 | 7 | 0 | 12 | 0 |
| 1982 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 |
| 1983 | 7 | 0 | 10 | 0 | 17 | 0 |
| 1984 | 4 | 0 | 6 | 0 | 10 | 0 |
| 1985 | 3 | 0 | 6 | 0 | 9 | 0 |
| 通算 | 24 | 1 | 34 | 0 | 58 | 1 |
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1980 | 古河 | JSL1部 | 14 | 0 | |||||||
| 1981 | 古河 | JSL1部 | 17 | 0 | |||||||
| 1982 | 古河 | JSL1部 | 18 | 0 | |||||||
| 1983 | 古河 | JSL1部 | 15 | 1 | |||||||
| 1984 | 古河 | JSL1部 | 17 | 0 | |||||||
| 1985 | 古河 | JSL1部 | 22 | 4 | |||||||
| 1986-87 | 古河 | JSL1部 | 21 | 1 | |||||||
| 1987-88 | 古河 | JSL1部 | 22 | 1 | |||||||
| 1988-89 | 古河 | JSL1部 | 21 | 1 | |||||||
| 1989-90 | 古河 | JSL1部 | 22 | 1 | |||||||
| 通算 | 日本 | JSL1部 | 189 | 9 | |||||||
| 総通算 | 189 | 9 | |||||||||
[編集] 指導経歴
- 1990年-1994年 - 古河電工/ジェフユナイテッド市原:コーチ
- 1995年-1998年7月 - 日本代表
- 1999年-2001年 - コンサドーレ札幌:監督
- 2003年-2006年8月 - 横浜F・マリノス:監督
- 2007年12月- - 日本代表:監督
[編集] 関連項目
- ジョホールバルの歓喜(1997年 ワールドカップフランス大会アジア地区最終予選)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
[編集] 監督成績
| 年度 | リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 勝ち点 | 順位 | チーム |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | J2 | - | 36 | 17 | 6 | 13 | 57 | 5位 | コンサドーレ札幌 |
| 2000 | J2 | - | 40 | 31 | 5 | 4 | 96 | 優勝 | |
| 2001 | J1 | 1st | 15 | 6 | 3 | 6 | 21 | 8位 | |
| 2nd | 15 | 4 | 2 | 9 | 14 | 14位 | |||
| 年間 | 30 | 10 | 5 | 15 | 35 | 11位 | |||
| 2003 | J1 | 1st | 15 | 10 | 2 | 3 | 32 | 優勝 | 横浜F・マリノス |
| 2nd | 15 | 7 | 5 | 3 | 26 | 優勝 | |||
| 年間 | 30 | 17 | 7 | 6 | 58 | 完全優勝 | |||
| 2004 | J1 | 1st | 15 | 11 | 3 | 1 | 36 | 優勝 | |
| 2nd | 15 | 6 | 4 | 5 | 22 | 6位 | |||
| 年間 | 30 | 17 | 7 | 6 | 59 | 優勝 | |||
| 2005 | J1 | - | 34 | 12 | 12 | 10 | 48 | 9位 | |
| 2006途 | J1 | - | 19 | 6 | 5 | 8 | 23 | 12位 |
※2005年シーズンより、1st,2ndステージ制を廃止し、1ステージ制を採用している。
※2006年は成績不振で引責辞任。順位は辞任当時のもの。
[編集] 指導者としてのスタイル・エピソード
- フランスW杯予選中に更迭された加茂監督の後を受け、急遽監督に抜擢された岡田はその心境を翌朝のインタビューで「ホテルがスイートルームになっただけ」、後日も「別に大したことは無かった」とひょうひょうと答えている。だが加茂更迭・岡田代理の決まった当夜に、岡田から日本代表アシスタントコーチ就任を依頼された小野剛がそれを二つ返事で快諾すると、岡田は逆に「そんなに簡単に受けて良いの? 例え話じゃないんだ、もし失敗したら本当に日本にいられなくなるかも知れないんだぞ!」と叱りとばしたという。マスコミをかわしながら、強烈なプレッシャーと戦うことになった、その覚悟の一面を見て取れる。岡田はその後のジョホールバルの歓喜となった日の前夜にも、日本の家族に電話をかけて、負けたら日本に住めなくなるから海外に移住しようという会話を夫人としている。自身だけではなく家族にまでも巨大な圧力が国民から加えられた経験から、「代表監督は外国人に限る」という発言をことあるごとにしている。
- 堅実な戦術で数々のタイトルを勝ち取った反面、若手を好み、あまりベテランを重用しない采配から試合の盛り上がりに欠けるとも言われ、評価の分かれる監督である。
- コンサドーレ札幌時代の教え子に山瀬功治、今野泰幸、播戸竜二らがおり、現在日本代表で活躍している他、かつて札幌で指導した元浦和レッズのエメルソンは岡田を父親のように慕っていた。
- 自らの弱点として「監督として長期に渡り指揮していると、特定の選手に情が移ってしまう」と述べている。
- 1998年フランスW杯最終選考時にて幾度にも渡り戦術を推敲した結果、三浦知良、北澤豪、市川大祐の3人が戦術上、起用が無い事になり代表から外された。この時、岡田が直接三浦に落選を告げており、三浦は当時の事を「他選手に落選を告げる代理として呼び出されたと思ったら、ドアを開けて顔を見た瞬間に『代表から外されるのは自分』と分かった」と回想している。この選考は結果的に三浦を代表から外したという面が強調され、賛否が分かれる論議の的となった。
- 2009年TBSのスポーツ番組「S☆1」出演時にこの事を訊ねられた際に再出演の拒否を仄めかす発言をし、直後にTBSで生中継された日本代表戦で試合後インタビューをボイコット。契約上、試合後の取材込みでの契約となっているが「選手選考は監督に権限がある」とし、TBS側も「質問が不適切であった」とし謝罪をしている。
[編集] その他のエピソード
- プロ野球・阪神タイガースの大ファンであるが、小学生の頃は南海ホークス子供の会に入っており、そこで少年野球をしていた。阪神の岡田彰布前監督とは同姓、同郷、早稲田大学の同期生(1浪しているため)、優勝経験監督と共通点がある。2009年5月にスポーツ雑誌『Number』の早稲田大学特集で対談が実現し初対面している。
- 神奈川県逗子市に在住している。
- 高校在学時ドイツへサッカー留学しようと決意、留学の仕方が分からず電話で日本サッカー協会に訊ねるものの協会から「学校は卒業しておくべき」と諭される。
- 青年時代、五木寛之の『青春の門』等、数冊の早稲田大学の出てくる小説を読んだことにインスパイアされ、早稲田大学入学を目指した。
- その早稲田大学時代には学生結婚もしている。代表監督就任中は家族共々激甚なプレッシャーに曝され続けていたが、岡田は「家族だけは 「ご苦労さま」 って迎えてくれるという自信があったんです。そうした帰る場所がなかったら、あれだけのプレッシャーには耐えられなかったかもしれません」と家族の支えを述懐している。娘は現在、日本サッカー協会とつながりの深い、大手広告代理店の電通に勤務している。
- 就職活動で東京放送の入社試験を受けたことがあるが、不合格になったのは有名。本人曰く、「面接で『『TBS』は何の略か』と聞かれ、トウキョウなんたらだったっけ」と答えて落とされたそうだ。
- 現役時代、なかなか時間を守れずに練習の時間を間違えることは多かったという。ひどい時には試合の時間を間違えることもあり、古河電工のキャプテンだったにもかかわらず、チームがJSLリーグの連勝記録をかけて挑んだ最下位の住友金属(現鹿島アントラーズ)戦では夫人と出かけていて試合開始に間に合わず、遅れて途中から出場するものの敗れた。
- 市原のコーチを務めていた時、日本代表コーチの招聘を受け、清雲も岡田の代表コーチ就任を強く勧める。しかし市原のコーチが楽しくて辞めたくなかった岡田は「清雲さんは、俺を追い出したいに違いない」と疑う。
- アメリカワールドカップ・アジア最終予選イラク戦の、NHK BS1でのスタジオ解説を努めるが試合の中継が終わりカメラがスタジオに切り替わり暗い雰囲気の中、岡田は耐え切れず嗚咽する。
[編集] 関連項目
[編集] 書籍
- 岡田武史 逆境をチャンスに変えよ 強いリーダーになる15の実践 (著)生島ヒロシ コスミックインターナショナル 1998年5月 ISBN 4885328233
- 岡田武史の考えるサッカー 小学館 1998年12月 ISBN 4092041101
- 指揮官 岡田武史 アルマトイ、フランス、そして札幌 (著)潮 智史 朝日新聞社 2001年4月 ISBN-10: 4022575867
- 蹴球日記 (著)岡田武史 講談社 2002年12月 ISBN 4063086518
- 岡田武史監督と考えた「スポーツと感性」 (著)志岐 幸子 日本経済新聞出版社 2008年2月 ISBN 4532166519
- 勝利のチームメイク 日本経済新聞出版社 2008年3月 ISBN 4532194415
- 岡田監督 信念のリーダーシップ 勝てる組織をどうつくるか (著)児玉 光雄 ダイヤモンド社 2008年5月16日 ISBN 4478005680
[編集] 脚注
- ^ 1stステージ:8位(勝ち点21、6勝3分6敗)、2ndステージ:14位(勝ち点13、4勝2分9敗)の成績だった。
- ^ 翌年に、ヴィッセル神戸へ移籍し、現在はガンバ大阪に在籍。
- ^ 特に、この年のJリーグ新人王に選ばれるなど大活躍を果たす。その後2003年から浦和レッズへ移籍し、現在は横浜F・マリノスに在籍。
- ^ 現在はFC東京に在籍。
[編集] 外部サイト
|
|||||||||||||||||||
|
||||||||
|
||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||
最終更新 2009年11月16日 (月) 09:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【岡田武史】変更履歴

