岡田茂
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岡田 茂(おかだ しげる、1924年3月2日 - )は、日本の映画プロデューサー。元東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。また、2008年4月より東京急行電鉄取締役就任。
松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身。
長男は、映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『実録三億円事件 時効成立』などで知られる元俳優で現東映社長の岡田裕介。長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子。
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[編集] 経歴
中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた。旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)では柔道に熱中。卒業後は旧制広島高校(現・広島大学)に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のちシナリオを読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を首席で卒業、1944年東京帝国大学経済学部に入学するも待ち構えていたのは学徒出陣。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就いた。当地はグラマンに爆撃され古川町(現在の大崎市)に疎開。1945年8月15日、終戦を告げる昭和天皇による玉音放送を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した。
終戦後復学。東大経済学部の学友会である経友会を、日本共産党が牛耳ろうとするのを猛者を率いて大学の左傾化を阻止した[1]。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることを理不尽だから立ち上がったとしている。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した[2]。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなどして、右も左もないと言われている[3]。
木暮剛平らが同期の親友。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。最初は小学生からの幼馴染今田智憲の紹介で広島一中の先輩でもある東横映画社長黒川渉三に会い、永野護→桜田武を紹介してもらい日清紡績への就職を希望していた。しかし黒川に激しく説得され「鶏口となるも、牛後となるなかれ、だよ。岡田君」という一言で最後は決めた[4]。その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は旧満映系の映画人を中核として、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。
雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められたという[5]。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。1948年、進行主任に昇格。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎(のち日本テレビ社長)が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノの助け舟もあって1950年、映画は完成。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て大ヒット。瀬死の状態にあった東横映画を救ったが[6]、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京都撮影所製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった[7]。1952年、京都大学法学部卒ながら、全学連で暴れていて大川社長以下、全員が反対した山下耕作を入社させる。山下は入社するやすぐ組合運動を始めた。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。その甲斐あって東映の専門館が増え会社は大きく飛躍した。
当時のNHKのラジオドラマで人気だった新諸国物語の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太郎主演の「笛吹童子」シリーズ、東千代之介主演の「里見八犬伝」シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画の出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した。1956年には年間配給収入でトップとなった。
1955年、アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた。1956年には京都撮影所にアルバイトに来ていた鈴木則文を入社させた[8]。1960年京都撮影所長に就任。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。1962年取締役東京撮影所長に就任すると低迷していた東映現代劇をアクション路線で復活させる。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。ベテラン監督を切り深作欣二、佐藤純彌、降旗康男や新東宝から引き抜いた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治ら若い才能を抜擢した。その後、東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで「人生劇場 飛車角」を初めとする任侠映画路線に転換させる。日活など他社も追随した。この頃藤純子主演の『緋牡丹博徒』など、タイトルの大半は岡田が考えたもので『大奥○秘物語』の○の中に秘を書くマークは今は一般的に使われるがこれも岡田が考えたものである。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。大奥物は現在もテレビドラマに繋がっている。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた。東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で[9]、燻っていた高倉健を『網走番外地』で、そして「不良番長」シリーズで梅宮辰夫を売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。
1964年、大川の命で時代劇の衰退した京都撮影所長に再び戻る。大川に全権委任され、揉めに揉めたものの大リストラを断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行。時代劇はテレビで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった。さらに東京撮影所に配置転換したり、助監督を東映動画へ異動させるなどして、会社の危機を乗り切った。大監督や大スターも受け入れてくれた事でテレビ映画の地位は高まった。ここからは大川橋蔵の『銭形平次』や『水戸黄門』などを生んだ。子供向けでは時代劇に特撮をプラスした『仮面の忍者 赤影』などを生んだ。当時他の映画会社はテレビに消極的で、おかげで東映のシェアは50%超を占め現在も40%台を確保し大きな柱となっている。東映はこの年、東急グループを離脱した。京都でも任侠路線に転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年常務、1968年映画本部長、1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅がボウリング、タクシー、ホテルなどの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた。これに労組が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地をロックアウトを決行し何とか乗り切った。大川社長からは涙を流して感謝されたが、後継は毅というのは既定路線だったし、今田智憲も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周りに「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が逝去。毅が「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ社長に就任する。東映動画(現・東映アニメーション)会長兼任。不採算の東映フライヤーズを日拓ホームに譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営し全国32あった東映ボウリングセンターの大半を売り合理化をさらに推進した[10]。
一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜[11][12]。菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「エログロ映画」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した。抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉を移植、池玲子の売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった[13]。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子、谷ナオミ、賀川雪絵ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした[14]。これを皮切りに日活の「野良猫ロック」シリーズに対抗して池玲子、杉本美樹、大信田礼子らの「女番長・ずべ公番長」シリーズ、梶芽衣子、多岐川裕美、夏樹陽子らの「女囚さそり」シリーズなどを編み出し[15] エロ映画を量産した。「女囚さそり」シリーズの成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって劇画原作を実写化するきっかけとなった[16]。タランティーノの影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた。しかしこの後、カンフーブームが来て併映作品として始めた千葉真一、志穂美悦子らの空手映画が受けると、ポルノ映画の主流が日活、大蔵映画などに移ったこともあってポルノ路線をアッサリ切り捨てた。この他、「トラック野郎」シリーズや角川春樹と組んで『人間の証明』、『野生の証明』、『蘇える金狼』、『セーラー服と機関銃』、『スローなブギにしてくれ』、『魔界転生』、『麻雀放浪記』など、フランスで大ヒットした『新幹線大爆破』、今村昌平の今村プロダクションと共同製作してカンヌ国際映画祭でグランプリを獲った『楢山節考』など、フジテレビを退社した五社英雄を起用し『鬼龍院花子の生涯』、「極道の妻たち」シリーズなど"女性文芸大作路線"を生み出し、『バトル・ロワイアル』などの問題作を生んだ。洋画部は『ドラゴンへの道』や『風の谷のナウシカ』、後藤久美子主演の『ラブ・ストーリーを君に』『ガラスの中の少女』等の配給で知られるが、ポルノ史上最高の大ヒットとなった『ディープ・スロート』やポーランド映画の名作『灰とダイヤモンド』、アル・パチーノ主演『クルージング』などの配給でも知られる。また労組問題で混乱していた系列の東映動画に親友の今田智憲を社長に据えて建て直し『キャンディ・キャンディ』や『UFOロボ グレンダイザー』、『銀河鉄道999』、『ドラゴンボール』、『キン肉マン』、『北斗の拳』、『聖闘士星矢』、『美少女戦士セーラームーン』、『スラムダンク』などの作品を生み、日本アニメ海外進出の大きな推進役となった。その他、西崎義展が持ち込んだ劇場版『宇宙戦艦ヤマト』は大ヒットした。
テレビ映画に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』などの時代劇、『さすらい刑事旅情編』に始まる「刑事」シリーズ、初の2時間ドラマとして特筆される『土曜ワイド劇場』、一世を風靡した『ジャイアントロボ』、『仮面ライダー』(仮面ライダーシリーズ)、『人造人間キカイダー』、『超人バロム・1』などの特撮変身ヒーローもの、『秘密戦隊ゴレンジャー』などのスーパー戦隊シリーズ、『宇宙刑事ギャバン』から始まるメタルヒーローシリーズ、『柔道一直線』、『スケバン刑事』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため、日活から黒澤満を引きぬき、少数予算で映画を制作する東映ビデオの前身である東映セントラルフィルム(現・セントラルアーツ)を設立[17][18]。ここからはカラオケビデオや『Vシネマ』、松田優作の「遊戯」シリーズ、『ドラマ探偵物語』、「あぶない刑事」シリーズ、『革ジャン反抗族』、『下落合焼とりムービー』、『狂い咲きサンダーロード』、『純』、『泥の河』、『竜二』、『ビーバップハイスクール』などを生んだ。自主上映で人気を得ていた『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を買い取り大ヒットさせた。東映製作では『柳生一族の陰謀』、『動乱』、『二百三高地』などの大作を生んだ。正面から日露戦争を描きたいと笠原和夫に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた[19]。新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」など文化事業にも乗り出した。1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村をオープンした[20]。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。
親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本の笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った。早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家と呼ばれたりした。最近は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評である。
日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く。1978年日本アカデミー賞の創設にも尽力。会長・名誉会長を歴任し、第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する。
その他、1982年5月、地方自治体で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー(広島市立中央図書館隣)の開館にも尽力した。1990年、岡田を主人公にした「小説東映 映画三国志」という小説が、岡田を師匠と挙げる大下英治作で徳間書店から出ている。これを原作とした2時間ドラマが日本テレビで同年6月1日放送され中村雅俊が岡田を、妻の役は黒木瞳が演じた。1984年藍綬褒章、1995年勲二等瑞宝章受賞。
2006年7月、三代目社長だった高岩淡が取締役相談役に退き、岡田茂82歳で名誉会長として再登板。いつの間にか、サラリーマン社長の企業が、世襲社長・岡田裕介と岡田家のワンツー体制となっている。
[編集] 人物・逸話
- 『仁義なき戦い』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に山口組三代目の田岡一雄組長が訪れて鑑賞した。深作欣二監督は田岡が来ることを知って席を外した。後に間に人を立てて親分が岡田茂に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる。このシシャの意味は岡田本人も聞かなかった[21][22]。
- 『仁義なき戦い』が製作された1970年代の始めは広島抗争はまだ燻っていて、いささか危険な状況であり、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫していたという、折り紙付きの難物だった。東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声も多く、多くの困難が伴ったが広島出身の岡田がやる気満々で製作実現までに至った[23]。
- 『仁義なき戦い』は笠原和夫の脚本中の"血風ヤクザオペラ"[24]とも"広島弁のシェークスピア"[要出典]とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々も大きな魅力。笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂された[要出典]が、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、菅原文太や金子信雄のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという[25][26]。
- 『仁義なき戦い』の中で重要な役である山守義雄役には当初監督の深作欣二は三国連太郎を希望していた。しかし岡田は映画の舞台である広島弁のイントネーションのうまさを買って「金子信雄にしろ!」と鶴の一声で配役を変更。結果的にこれが大成功を収める[27][28]。
- 『県警対組織暴力』というタイトルは岡田が便所で浮かんだもの。その頃、岡田が直接、田岡一雄組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した『山口組三代目』『三代目襲名』という二部作が、山口組の宣伝映画だと警察に睨まれた。裏金取引があるのではないか、と東映は家宅捜索も受けた。裏取引はないが前売券を組に売ったため、これを今度は共通券は商品法違反とか警察から何かと嫌がらせを受けた。岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだのが『県警対組織暴力』というタイトル[29]。なおこのシリーズは当初、三部作の予定だったが上記の理由で二部作に短縮になった。
- 『きけ、わだつみの声』製作時の氏家齊一郎ら東大の左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳でその一人が富本荘吉。富本はこれが縁で映画界入り、後に『家政婦は見た!』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという。この映画のスタッフには脚本に八木保太郎、舟橋和郎ら、監督に関川秀雄、音楽・伊福部昭と、レッドパージで他の映画会社を追われた人たちを起用。またキャスティングは俳優座の佐藤正之に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が新劇の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの。当時は無名だった沼田曜一、信欣三、佐野浅夫、大森義夫ら俳優座、民芸、文学座の俳優を起用、やはり感銘を受けた杉村春子も出演した。スターシステムが各社当然だった時代では異色のキャスティングだった[30]。こうした新劇の役者も当時パージにあって金に困っていて、山城新伍には「いま、金に困ってるから、20~30万出しゃホイホイ来よるぞ」と言っていたという[31]。
- 『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の五島慶太は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。上映後、岡田に対し「これとっとけ」と言ってポンと5万円を渡したという。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの金を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった[32]。
- マキノ光雄とともに美空ひばりを引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった山口組の田岡一雄組長。田岡は「ひばりをタイトル・ロールの常に一番右におく(書き出し)事」を条件の一つに付けた。岡田は「いつも右だと他のスターが共演しません。中村錦之助や大川橋蔵は、なにしろ歌舞伎界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と言うと田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」 その時、ひばりが「いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから」と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという[33]。
- 1953年、深作欣二は入社間もない頃、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと "お○○こ" する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の工藤栄一に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという[34]。
- 東映が1954年から二本立て体制を始めたのは前年、大川とマキノがアメリカに行ったら二本立てをやっていて「わしらも帰ってやろう」と考えた単純な動機から。「どうやるんですか」と岡田が聞いたら「何でもええ、子供向けのチャラチャラしたもんを1週間に1本やれ(作れ)」と言われたという[35]。
- 東映任侠路線の幕開けとなった『人生劇場 飛車角』で、そのタイトルをめぐって、『人生劇場』の作者である尾崎士郎が「飛車角を入れたらヤクザ映画だ」と主張したが一歩も譲らず押し通した[36]。『人生劇場』は元々、青成瓢吉を主人公とする青春映画で過去何度も映画化されたものだが、今までと同じでは当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据え侠客映画に変えたもの[37]。「飛車角」路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた。新しいチャンバラ映画の開発に賭けた岡田の目論見通りにいったのである[38]。映画が大ヒットした理由は、非常に展開がスピーディであったこと、それから当時、鶴田浩二と佐久間良子が恋人関係にあって、二人が琴瑟相和すという名演技を見せたこと、ラストの斬新な点など[39]。大ヒットしたことで『続・飛車角』、『新飛車角』なるものまで作られたが、『新飛車角』の脚本を書かされたのが笠原和夫だった。笠原は言うまでも無く後年、数多くのヤクザ映画の傑作で名声を高めるが、当時はまだヤクザの"ヤ"の字も分からないとき。これを岡田は「原作は使わなくていい(!?)」というとんでもな注文を出したため、笠原は好き勝手なプロットを作って尾崎士郎にお伺いを立てに行った。既に病床に身で、声を出すのも辛そうな尾崎は説明が終わると、嗄れた声で「いいよ」と一言だけ、あとは黙ってしまったという。「オレの小説をメチャクチャにしやがって!」と腹中は煮えくり返る思いがあったに違いないが、もしもあの時、尾崎が元気で突っぱねたら〈東映任侠路線〉の隆盛は無かったのでないか、つまり〈東映任侠路線〉は、尾崎の病気に便乗して芽吹いたものと笠原は話している[40]。
- また藤純子の当たり役『緋牡丹博徒』は、「緋牡丹」と「博徒」という一見つながりのない言葉を紡いで勢いのある題名を考え付いた。この映画は鈴木則文に女剣劇物を書け、と命じ始めたもので当初考えていたタイトルは『女狼』だった[41]。
- 佐久間良子は、いわゆるお嬢様役から180度異なる娼婦役に抜擢され代表作とした『人生劇場 飛車角』や『五番町夕霧楼』について、岡田や厳しい教えを受けた田坂具隆監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている[42]。
- 1964年に東映が東急グループから離脱する際、東急社長の五島昇から「ウチ(=東急)に来い」と誘われるが、「子分達(=撮影所の連中)を見捨てるわけにはいかない」とこれを固辞した。五島は岡田を弟分として何かと目を掛け、相当高く評価していた。なお東急との関係は、1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している[43]。
- 丹波哲郎から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている。また丹波が親しかった元東宝副社長・藤本真澄と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこのポルノの国から来たの」などと言い非常に嫌われた[44]。
- 1964年、石井輝男に撮らせた『御金蔵破り』は、フィルム・ノワール『地下室のメロディー』からアイデアを頂いた時代劇。ジャン・ギャバンを片岡千恵蔵、アラン・ドロンを大川橋蔵のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・朝丘雪路のスキャンダルをのせた[45]。
- 1964年、京都撮影所長時代の大リストラではかなり手荒い事をした。"一つの映画のブームは10年"という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断し片岡千恵蔵や市川右太衛門以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた[46][47]。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、平山亨らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという。こういった事などで結局時代劇に終止符が打たれた[48]。その後1965年に東映本社テレビ事業部に移動した平山は『仮面の忍者 赤影』、『ジャイアントロボ』、『キャプテンウルトラ』を始めとする特撮テレビ番組を手掛け、その後も「仮面ライダー」シリーズ、「スーパー戦隊」シリーズ・『秘密戦隊ゴレンジャー』、『人造人間キカイダー』、『超人バロム・1』、『柔道一直線』等、数え切れないほどの子供向け番組をプロデュース、ことごとくヒットを飛ばしテレビ部門で歴史的偉業を残した[49]。
- 1967年、東映でも喜劇路線を敷こうと、当時東宝にいた渥美清を引き抜いた。その頃東宝には森繁久弥や伴淳三郎、三木のり平ら大御所がいて、渥美はほとんど売れてなかった。瀬川昌治監督の「喜劇・列車」シリーズほか数本主演し、いい映画ではあったがまったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは松竹が一番水に合うと思うよ」と助言。松竹入りした渥美はほどなく『男はつらいよ』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる若山富三郎の「極道」シリーズ、1975年から始まる菅原文太の「トラック野郎」シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった。
- 1969年、こむら返りの病気で苦しむマキノ雅弘を日活に売り飛ばす(マキノ談[50])。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている[51]。小沢茂弘を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後易者や山伏などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている[52]。
- 岡田が社長に就任した当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時通産大臣だった田中角栄を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは住友ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて五島昇の所に行ったところ「三菱にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行頭取の伊部恭之助に会うと慌てて「それは違う。堀田庄三さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった[53]。
- 渡辺プロダクション社長・渡辺晋がクレイジーキャッツを東映に売り込んできた際、岡田は谷啓を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払うギャラの三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、ハナ肇→松竹、谷啓→東映、犬塚弘→大映、植木等→東宝、とそれぞれバラで売り出す青写真を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという[54]。
- 1966年当時、ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めた。ソロバンをはじいてみると松竹の年間配給よりも総体で上回ることが分かったため、プロデューサーの天尾完次を呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが石井輝男に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と始まったのが「東映ポルノ映画」の誕生「エログロ路線」のスタートである。当時は独立プロがこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があった。撮影ではヌード女優が大挙出演したため、素っ裸の女優が撮影所内を飛び回る状況となり、こっそり覗きにくるスターもいたが、若山富三郎や鶴田浩二ら大スターや、前貼りを扱う羽目になったスタッフらが、冒涜したと声明文を発する事態となった。佐藤忠男ら評論家は酷評しマスコミが面白がって取り上げたが、宣伝効果抜群でいずれも大ヒットした[55][56]。
- 『徳川女系図』の大ヒットで、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くした。この影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした。ポスターに裸を載せて当ったこともあって、三朝れい子ら続々とレコードジャケットでヌードを披露する歌手が登場。それまでフレンチ歌謡を歌って燻っていた奥村チヨが、愛欲路線『恋の奴隷』(1969年)の宣伝でセミヌードを公開したり、1970年代に入ると渥美マリらによる露骨なエロ歌謡が量産され、エロ化の流れは『23時ショー』などの深夜番組にも及ぼし、更に山本リンダや夏木マリらによる"セクシーアクション歌謡"やピンク・レディーなど、その後の音楽界にも影響を及ぼした[57]。石井のエロ映画は「異常性愛路線」としてさらに量産され、中でも『徳川いれずみ師 責め地獄』、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』などは今なお稀代のカルト映画として名画座で喝采を浴び続けている[58]。
- 1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名は岡田自身が命名したものが多い[59]。『大奥まるひ(○に秘)物語』、『現代ポルノ伝 先天性淫婦』、『残酷異常虐待物語』、『元禄女系図』、『色情大名』、『恐怖女子高校』、『尼寺(秘)物語』、『温泉みみず芸者』、『温泉あんま芸者』、『温泉こんにゃく芸者』、『(秘)女子大寮』、『にっぽん’69セックス猟奇地帯』、『好色妻』、『色罠』、『変態魔』、『後家ごろし』、『多情な乳液』、『悶絶』、『エロ将軍と二十一人の女妾』など、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。『エロ将軍と二十一人の女妾』は最初"エロ"はタイトルに付いてなく、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった[60]。"エロ○○"のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、天尾完次プロデューサーや監督の鈴木則文をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた[61]。また映画の「クライマックスは"セックス対決"で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で"勝負したら締まる"」という岡田理論であった[62]。この映画は17歳だった(撮影時16歳)池玲子のデビュー作[63]。
- 『エロ将軍と二十一人の女妾』を作ったきっかけは、『徳川セックス禁止令』という映画の冒頭のナレーション「徳川家斉に二十一人の愛妾あり」を聞いて「次は『二十一人の女妾』でやろう」と簡単に決めたもの[64]。この映画は後に91分が30分に編集され、タイトルを『将軍と二十一人の愛妾』に変更された版が、地方の温泉宿など有料テレビ用に流された[65]。
- 内藤誠は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・小野竜之助ともども心底、恐怖した。黒岩重吾原作の「背徳の伝道者」を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『11PM』で大橋巨泉が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった[66]。
- これら「ポルノ路線」がエスカレートして、外国から人気ポルノ女優を呼び寄せ製作した。外国のポルノは本番が当たり前なので、今考えたら不思議なアダ名を付けられていた“本番女優”ことシャロン・ケリーをアメリカから呼んで“夜の帝王”と呼ばれた梅宮辰夫と共演させたり、“フリーセックス”の国として有名だったスウェーデンからクリスチーナ・リンドバーグ、イタリアからサンドラ・ジュリアンを呼び寄せ、果ては女優ではなく『ディープ・スロート』で、30センチ巨根が話題となった男優・ハリー・リームスまで呼んだ。
- 企画を通す際には、岡田社長の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があり、面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫んだ。途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという[67]。脚本家・掛札昌裕が『セックス十番勝負』というタイトルを思いつき、天尾完次プロデューサーに「とんでもない」と言われたが、岡田の前で本読みすると「面白い!」とOKとなった[68]。脚本家の倉本聰が東京大学時代の同窓生中島貞夫監督と『くの一忍法帖』の脚本を書いた際、岡田の本読みに立会い集中力と批評眼に感嘆した[69]。最初に出来た倉本脚本は、ただ助平なだけだったので、もっと女の魔性を描く内容に書き換えさせた[70]。
- 組合活動で会社批判をやっていた中島貞夫は、岡田に呼び出され「オイ能書きばっかりたれとらんと、何ぞ企画出さんかい」と言われ、どうせこちらの企画が通るなずもないと、コケオドシで「『くの一忍法帖』なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。当時、山田風太郎の同作はベストセラーになっていたが、男女の忍者が"アレ"と"ソレ"を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった。ところが数日後、岡田にまた呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われさらに数日後、「監督やるもんがおらん。お前やってみい」「裸、バンバン入れたなァ」「自分で言い出した企画が一本撮れるなんで、幸せやでえ」と言われた。脳天割りのようなショックを受け、土下座してお許しこうとしたが、30歳前に一本映画を撮りたいという気持ちとの葛藤で揺れ、やむなく承諾。助っ人を同窓生・倉本聰に頼み、これが自身の監督デビュー作となった。女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航したが、この映画には、深作欣二夫人・中原早苗や芳村真理などが出ている。映画はヒットしたため、また岡田から「裸が少ない。もっと盛大に女優を脱がせろ」と、第二弾製作指令が出て二作目『くノ一化粧』を製作。今度は男忍者が普通では面白くないと、当時は怪優と呼ばれた西村晃や小沢昭一を起用した。中島はその後も小川知子や大原麗子ら、女優を脱がせる仕事が増え、女の裸を見ると胃が痛むようになり以来、治っていないという[71]。
- 高田宏治は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、そのプロットは、ガリレオという主人公が、伴天連の妖術師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけがウジ虫だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から小便をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという[72]。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している[73]。小沢茂弘も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している[74]。
- 映画の撮影前には監督がスタッフ・キャストを集めて、岡田がダメ出しする何ヵ条を読み上げる。「岡田社長から言われました。面白いけど、こういうところは気を付けろっていう8ヵ条ありますから読み上げます」ってどもりながら。「ああ、おう。だから?」って聞くと、「いや、別にみんなは気にしてもらわなくていいです」と言ったという[76]。
- 「イナズマンF」の20話「蝶とギロチン花地獄作戦」の初号試写を見た時「学生映画なんか作ってるんじゃない!」と怒ったという。
- 1968年、山下耕作監督、笠原和夫脚本、鶴田浩二主演の「博奕打ち 総長賭博」は、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。岡田は山下と笠原を呼びつけ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらあかんで!」と一喝した。ところが1年ほどして三島由紀夫が『映画芸術』同年3月号誌上で絶賛の一文を発表し、急に世間の風向きが変わりその後、多くの文化人がこの映画を賞賛し、今日では東映ヤクザ映画の傑作と評価されている[77]。
- 25歳まで広告代理店でサラリーマンをやっていた渡瀬恒彦が、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという[78]。
- 岡田は他の会社でパージされた家城已代治や今井正にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが[79]、どちらかというと右寄りの映画が多いため、『日本共産党』という映画を作ろうとしたら社内から、一体うちのポリシーは何なの?と批判が出た。これを「代々木(日本共産党)が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか「赤旗」の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。ところが制作は中止された。山城新伍はやはり東映は右寄りだから、おおかた宮本顕治委員長からクレームがきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説もある[80]。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された[81]。岡田は1976年、解放同盟と組んで松本治一郎の伝記映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという[82]。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『いつかギラギラする日』の原案という。
- この頃の東映をパロディにしたくて山城新伍が作ったのが1980年の『ミスターどん兵衛』という映画。原作料の話をしたら岡田は「そんなもん、パクれ!」「東映の作品見てみろ!『網走番外地』は『手錠のままの脱獄』(1958年)のパクりだ!原作料もヘッタクレもねぇ、パクれ!」と言った。このネタを使ったのが『ミスターどん兵衛』の中の会議のシーンで「『ラムの大通り』(1971年)っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンという[84]。
- このシリーズのプロデューサー・吉田達は、東京撮影所の作品が全然当らないので、岡田が京都からテコ入れに来ると、朝早くから岡田が撮影所の玄関前で演説を始めて、アジテーターで演説が上手く、“みんなで作ろうヒット作”と全員が乗せられ元気になったという。「あの人に扱き使われてもまったく疲れなかった。僕は現在でも尊敬してます」と話している[86]。なお「不良番長」シリーズは、岡田には「よう出来た、オモロイなー!」と手を叩いて喜んでもらえたが、他の重役や良識を持ったスタッフからは嫌がられ、俊藤浩滋には「“不良番長”なんか作ってたらロクなプロデューサーにならないぞ!」と言われたという[87]。
- 1971年から始まる「女番長」シリーズは、ヤクザ映画以外にもう1本、若者のラインがないと興行が弱いとシリーズ化させたもの。この「女番長」と書いて「スケバン」と読ませるのは鈴木則文監督の発想。当時から「スケバン」という言葉はあったが、あまり出版物には出ておらず、たいていカタカナ表記であった[88]。
- 後期の「女番長」シリーズを監督した関本郁夫は、初監督作[89]「女番長 玉突き遊び」(1974年)で、主演の叶優子を撮影中の事故で脚を骨折させ、撮影が丸一年中断、「これで監督生命も終わり」と意気消沈していたが、たまたま岡田が京都撮影所に来たので制作部長と謝りに行ったら、夜飲みに行くまで暇だった岡田が、「どこまで撮ったんだ、見せてみろ」と、仮つなぎもしてないバラバラのフィルムを見てくれた。岡田が「なかなかよう撮ってる。面白かったぞ」と言ったため、制作部長もその場にいたおかげで、その後も引き続き映画が撮れるようになったという[90]。
- 1972年秋、経営窮状の西鉄ライオンズ、東映フライヤーズ両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げてパ・リーグは崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄をロッテ・オーナー中村長芳が太平洋クラブの支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌1973年1月、PR効果だけが目的と思われる不動産会社・日拓ホームにフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「今里広記を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝に球団経営を勧めたもの。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた[91]。
- テレビドラマ「長谷川伸シリーズ」をやってた頃、俊藤浩滋の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の山下耕作に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と高岩淡にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下"さん"」と言われたという大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している[92]。
- 俊藤浩滋が東映に関わるようになるのは内縁の妻・上羽秀が経営していた銀座のバー「おそめ」に顔を出していて、この「おそめ」の、みな常連客だった鶴田浩二の東映移籍や、水原茂の東映フライヤーズ監督招聘の仲介などで大川博と縁を深めていったものだが、東映の「映画」をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に「なにかいい企画をないか」と歓誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった[93]。
- 山下耕作が撮った1974年の『あゝ決戦航空隊』は、児玉誉士夫が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなくロッキード事件でペシャンコになった[94]。
- 1974年『激突!殺人拳』から千葉真一主演で始まるカンフー映画も、岡田がブルース・リー映画を真似て始めたもので、任侠ものが下火になっていた東映にとってもエポックメーキングな作品となった。当時は何をやってもうまくいかず、久々の大当たりがよっぽど嬉しかったらしく、祝電をいっぱい打っていたという[95]。
- 荒川博の養子で、暴漢事件で有名な荒川尭が1975年、ヤクルトスワローズを引退すると荒川を銀座に連れて行き、契約金3000万円で俳優にスカウト。岡田茉莉子や宮園純子など綺麗どころの女優を同席させ口説いたが、興行師の息子で美空ひばりにも可愛がられ、芸能人の友達も一杯いた荒川にはあまり効かず、断られてしまった。[96]。
- 1975年の『実録三億円事件 時効成立』という映画は、岡田が時効が迫った三億円事件を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。この映画の主演・犯人役は俳優時代の岡田裕介で、現在の東映社長・岡田の息子である[97]。
- 深作欣二の傑作の一つ『暴走パニック 大激突』(1976年)は『新・仁義なき戦い 組長の首』(1975年)のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『バニシングin60″』をミックスして作れと号令したもの[98]。1979年、田中健・岡田奈々主演の『暴力戦士』は、ウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの[99]。
- 1978年から始まった日本アカデミー賞は当時、電通開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの。岡田が東宝専務だった藤本真澄、日活社長・村上覚、松竹専務・奥山融に協力を求め創設に至った[100]。名称を始め色々物議があるイベントだが、第4回(1981年)の黒澤明の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『影武者』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。<いつか必ず、黒澤が頭を下げてくるような、権威ある日本アカデミー賞にしてやる>と心に誓ったという[101]。
- 『柳生一族の陰謀』は、千葉真一が「裏柳生」というタイトルで深作欣二に提出した企画。それを岡田が『柳生一族の陰謀』という、まんまのタイトルに変えた[1]。岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』、『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや右翼が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという[102]。
- 角川春樹が、独立プロのプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだったと述べている。『悪魔が来りて笛を吹く』はそうした一本だが、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川映画は『人間の証明』など東映と多くの提携作品を製作しキャッチフレーズは流行語となるなど話題を呼び[103]観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。
- 五社英雄は1980年に銃刀法違反容疑での逮捕や、会社の労組問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。そこへ岡田が「一度会社に顔を出せよ」と電話してきた。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は"お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな"と言った。意地でも負けを認めたくなかったところに"負けっぷりがいい"と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。「どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ」と言われ、持って行った企画が宮尾登美子の小説「櫂」だった。しかし「櫂」は話が地味過ぎるということで『鬼龍院花子の生涯』を映画化することになった。同作で五社の映画界復帰が決まった。この作品がヒットしたら「櫂」も「陽暉楼」も撮らして下さい、と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り「陽暉楼」「櫂」と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。これらは東映に新たな"女性文芸大作路線"を確立させた[104][105]。
- 『二百三高地』を始めとする大作路線の一連の仕上げとして、笠原和夫に太平洋戦争の脚本執筆を指示。『大日本帝国』『零戦燃ゆ』の後、岡田は瀬島龍三から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。脚本は書き上がったが宮内庁の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという[106][107]。
- 笠原はこの後、アイドル映画(中森明菜、近藤真彦共演の『愛・旅立ち』)や、他社脚本も手掛けるが、1989年に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、奥山和由)はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している[108]。
- 奥山和由は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、田中角栄のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も勝新、裕次郎、松田優作と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた[109]。
- つかこうへいの戯曲を映画化した『蒲田行進曲』は、角川春樹が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな楽屋落ちの話なんか当たるわけない」と断り[110][111]松竹に話を持って行ったもの。しかし深作欣二が、松竹大船撮影所の雰囲気は違う。撮るのは東映京都撮影所じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の角川映画は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった[112]。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、配給収入も17億6千万円という大ヒットを記録した[113]。
- 『修羅の群れ』は映画制作にクレジットはないが、岡田が稲川聖城の半生を映画化しようと懇意の大下英治に原作を書かせたもの[114]。また1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌「経済界」の主幹・佐藤正忠が「東映が福沢諭吉を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった[115][116]。
- 吉田拓郎と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ニューミュージック的映画作り という意味不明の題名を付け、東映の社内誌「東映」に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席もリクライニングのいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明[117]。
- 1994年、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は田部文一郎)会員が急に増え、現在4000人と在京県人会の中で一番多いともいわれる。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため[120]。毎年1月にある総会には出席者が1200~1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」とぶった。2008年から名誉会長となり、現在の会長(八代目)は林有厚(東京ドーム社長)。
- 出身地の東広島市西条のフジグラン西条店内に東映系初のシネコン「Tジョイ」開業の時、オープニングセレモニーに出席している。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、東映の役者がみんな来た、という話がある。
[編集] 脚注
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[編集] 著書
- 悔いなきわが映画人生/自著 財界研究所
- 波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝/自著 角川書店
[編集] 参考文献
- 東映十年史/東映(1962年)
- 東映映画三十年/東映(1981年)
- 鎧を着ている男たち/笠原和夫著 徳間書店(1987年)
- 小説東映 映画三国志/大下英治著 徳間書店(1990年)
- 一言いうたろか/山城新伍著 広済堂出版(1993年)
- 現代・河原乞食考~役者の世界って何やねん?/山城新伍著 解放出版社(1997年)
- 仁義なき戦い 浪漫アルバム/杉作J太郎、植地毅著 徳間書店(1998年)
- 丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ/丹波哲郎著 キネマ旬報社(1999年)
- 東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム/杉作J太郎・植地毅著 徳間書店(1999年)
- 僕らはそれでも生きていく!/小石原昭著 財界研究所(2000年)
- 男気万字固め/吉田豪著 エンターブレイン(2001年)
- 楽天楽観 映画監督 佐々木康/円尾敏郎著 ワイズ出版(2003年)
- 映画はやくざなり/笠原和夫著 新潮社(2003年)
- 濃厚民族/浅草キッド著 スコラマガジン(2003年)
- 私の履歴書 経済人38/日本経済新聞社(2004年)
- 新潮45 新潮社(2004年9月号)
- 「仁義なき戦い」調査・取材録集成/笠原和夫著 太田出版(2005年)
- Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2(2005年)、3(2005年)、7(2007年)、8(2007年)/シンコーミュージック・エンタテイメント
- Hotwax presents 和モノ事典 1970's 人名編/シンコーミュージック・エンタテイメント(2006年)
- 映画秘宝、洋泉社(2007年10月号、2008年9月号)
- 日本の映画人 -日本映画の創造者たち-/佐藤忠男著 日外アソシエーツ(2007年)
- 別冊宝島 1499号 流行り歌に隠されたタブー事件史/宝島社(2008年)
- 昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫/笠原和夫・荒井晴彦・絓秀実著 太田出版(2002年)


