岩国藩

岩国藩の最新ニュースをまとめて検索!

岩国城天守閣

岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部鳴門村・神代村及び玖珂郡南部を領地とした。吉川家が藩主だったため吉川藩という通称もある。藩庁は岩国陣屋(岩国城破却以前は岩国城だったが、この当時は藩と認められていなかったため藩庁ということは間違いである)(山口県岩国市)。しかし後述のごとく本藩からは支藩と認められず 、諸侯に列せられていなかったため、永らく岩国藩ではなく、岩国領と称された。正式に諸侯に列せられ,岩国藩となったのは、大政奉還後、廃藩置県直前の慶応4年(1868年)3月のことであった。

目次

[編集] 概要

毛利元就の2男・吉川元春の3男である吉川広家を祖とする。長州藩の支藩のひとつであるとされるが、本家からは支藩として届け出られておらず、正式な諸侯ではない。すなわち陪臣である。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで広家は東軍方に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の戦いに参加させなかった。当初、黒田長政を通じて徳川家康より所領安堵の密約を取りつけていたが、戦後、毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとする幕府の動きに際し、自身の過ちを悟り欺かれた失態の後始末に奔走する。これにより毛利氏は改易は免れたものの、長門国周防国2カ国に大幅に減封された。広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していたが、毛利宗家が120万5000石から36万9411石余に減封されたのに伴い、毛利輝元より東の守りとして、岩国に3万石(長州藩の内高に含まれる)を与えられた(同年(1600年)、岩国へ着任)。

しかし、毛利秀元をはじめとした毛利家中では、広家の内通を毛利宗家へ対する裏切り行為と見なした。元々の毛利の両川たる小早川秀秋の裏切りと、この吉川広家の内通がなければ、関ヶ原は西軍の圧勝であったはず、と家臣に至るまでのほとんどの者が考えたからである。また毛利氏存続の広家の尽力すら一顧だにされることはなかった。そもそも西軍の勝利であれば、毛利氏は八箇国120万5000石の領地を減封される事なく(父祖伝来の安芸国、1599年に天守閣が完成したばかりの広島城を失うこともなかった)、加増および豊臣政権における輝元の「執政」就任が約束されていたからである。そのために長州藩内部での処遇は低く、歴代当主は吉川家当主を陪臣として扱い[1]将軍に直接目通りすることを許さなかった。しかし一方で徳川幕府からは外様大名として扱われ、参勤交代の義務や、の築城許可が与えられていたという江戸時代を通じて、極めて異例な状態が続くこととなった。

初代当主・吉川広家によって当家の基礎は固められた。第2代当主・吉川広正は父・広家の死後に親政を行ない、寛永11年(1634年)には本家の長州藩主・毛利秀就と不仲になった長府藩主・毛利秀元と共に本家から独立しようとしたが失敗する。なお、広正は製紙業を起こし、寛永17年(1640年)には紙を専売化した。

第3代当主・吉川広嘉は文化事業に尽力し、延宝元年(1673年)、有名な錦帯橋が完成している。第4代当主・吉川広紀も藩営による干拓事業の拡張を行なうなど、岩国領は全盛期を迎えていた。しかしこのような全盛期は財政で苦しむ本家の長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになる。

第5代当主・吉川広逵と第6代当主・吉川経永時代には家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっている。第7代当主・吉川経倫時代は財政悪化により、製紙業の生産は半減し、倹約を行なうことになった。なお、和紙を専売とし江戸中期までは財政は好調であったが、中期以降、諸侯に列するための運動や凶作により悪化した。寛政年間(1789年 - 1801年)より財政再建に着手し天保年間(1830年 - 1844年)には再建の成功をみた。

第8代当主・吉川経忠は財政改革に失敗。第10代当主・吉川経礼は干拓事業などを行なって財政改革に成功を収めた。

独立した藩として正式に認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、第12代当主・経幹の代になってである。

石高は当初、表高3万石であったが、寛永11年(1634年)、実高である6万石を公称し、幕府からも認められた。

幕末にあっては、三士と呼ばれる東沢瀉栗栖天山南部五竹の尊王活動はあったが、藩自体は佐幕的態度を示していた。元治元年(1864年)~慶応元年(1865年)の幕長戦争に際して、経幹は長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けているが、高杉晋作などのように、宗家である長州藩への背信行為と見なした長州藩士もいた。しかし四境戦争においては芸州口で幕府軍と戦い、撃破することに貢献した。

第12代当主・吉川経幹は慶応3年(1867年)3月20日没するが、毛利敬親の命令でその死が隠され、生存しているものとして慶応4年(1868年)3月13日に新政府により城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。その上で明治元年(1868年)12月28日に長男・経健に家督を譲って隠居した形となった。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により岩国県となり、同年11月15日、山口県に編入された。吉川氏は明治17年(1884年)には子爵となり、華族に列した。

[編集] 歴代当主

「土居」跡に建つ錦雲閣と水堀

吉川(きっかわ)家

  1. 広家(ひろいえ)〔従四位下・民部少輔、侍従〕
  2. 広正(ひろまさ)
  3. 広嘉(ひろよし)
  4. 広紀(ひろのり)
  5. 広逵(ひろみち)
  6. 経永(つねなが)
  7. 経倫(つねとも)
  8. 経忠(つねただ)
  9. 経賢(つねかた)
  10. 経礼(つねひろ)    
  11. 経章(つねあきら)    
  12. (初代藩主)経幹(つねもと)〔従五位下・駿河守〕
  13. (2代藩主)経健(つねたけ)〔正四位・駿河守〕

[編集] 岩国城

錦帯橋と岩国城山

岩国城周防国に存在する唯一の城であったが、幕府からの一国一城令により破却されている(岩国は長州藩領であり、すでに萩城が築城されていたという理由で、宗藩より破却の命があったと言われている。毛利輝元の養嗣子であった毛利秀元長府藩が陣屋であったため、宗藩が秀元に配慮し岩国城の存続を認めなかったという説もある)。現在の天守は、昭和37年(1962年)に復元されたものである。

[編集] 脚注

  1. ^ ただし元々毛利輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての資格を得ており、宗家継承権も有していた毛利秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆徳山藩の両藩と輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と庶家の1つでしかない岩国の間に処遇が違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切との見方もある。

[編集] 関連人物

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月26日 (月) 01:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【岩国藩】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!