岩瀬仁紀

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岩瀬 仁紀
中日ドラゴンズ #13
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岩瀬仁紀(2009年)
基本情報
国籍 日本
出身地 愛知県西尾市
生年月日 1974年11月10日(35歳)
身長
体重
180cm
81kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 投手
プロ入り 1998年 ドラフト2位
初出場 1999年4月2日
年俸 4億3千万円(2009年)
※2009年からの4年契約中
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年2008年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

岩瀬 仁紀(いわせ ひとき、1974年11月10日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手投手)。球界屈指のスライダー使いとしても知られている。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

西尾東高では、県大会でノーヒットノーランを記録。最後の夏は地方大会4回戦で敗退。愛知大学野球部時代は外野手兼任。通算安打でリーグ歴代2位の124本(1位は現中日チームマネージャーの神野純一)を記録し、打者として注目された事もあった。卒業後は社会人野球NTT東海に入社。1998年のドラフト中日ドラゴンズを2位で逆指名して入団する。 大学4年生時にナゴヤ球場でのスピードガンコンテストに出場、記録は悪くなかったが、まともに投球練習をさせてもらえなかったことが響いて肩(肘?)を痛め、社会人1年目はまともに野球ができなかった(サンデードラゴンズで岩瀬本人が語った)[要出典]

[編集] プロ入り後

1999年、開幕戦で失点を許し1アウトも取れずに降板。しかしこれをバネにして以降の登板で首脳陣の信頼を勝ち取ると左のセットアッパーを任され持ち前のコントロールとスライダーを武器に落合英二李尚勲(サムソン・リー)・宣銅烈らと共に活躍し、この年の優勝に貢献。最優秀中継ぎ投手も受賞。防御率1.57、中継ぎながら10勝と好成績を残したが、同期の新人に20勝投手となった巨人の上原浩治がおり、新人王は逃した。

2000年10月8日の対広島戦で1試合のみ先発で登板し、7回7安打1失点で勝利投手となった。元々先発を希望していたこともあり、当時の星野仙一監督がテストも兼ねて起用した。 後に元チームメイトでもあり大親友でもある落合英二が『サンデードラゴンズ』で「岩瀬が投げた日はローテションの谷間で、本人が星野監督に先発させてくださいと直訴した」というエピソードを語った[要出典]

その後は中継ぎで起用され、特に2002年2003年は防御率1点台でシーズンを終えるなど、首脳陣の信頼を勝ち取っていく。2004年には、落合博満新監督より抑えに指名される。が、開幕直前に自宅の浴室で転倒して左足小指を骨折。その影響もあってか前半戦は不調が続いたが、2勝3敗22セーブの成績でチームの5年ぶりの優勝に貢献した。また、8月に行われたアテネオリンピック野球日本代表にも選出された。

2005年10月1日ナゴヤドームで行われた広島戦において46セーブ目を達成し佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録を更新。60試合に登板しながら被本塁打0だった。

2006年4月4日横浜戦で、9回裏に多村仁に同点となる2ランホームランを打たれ救援失敗。2004年9月25日の横浜戦の村田修一を最後に許していなかった本塁打を打たれ、被本塁打0の記録は対戦打者265人目にして途絶えた。7月30日、プロ入り通算100セーブを達成。10月8日、プロ野球史上初の2年連続40セーブを達成。2年ぶりのリーグ優勝を決めた10月10日巨人戦の11回裏、3対3の場面で登板し、2回を無失点に抑えて胴上げ投手となった。

2007年4月6日郭源治の持つ球団記録を更新する117セーブ目を挙げた。7月7日、通算500試合登板を達成(9年目での達成は史上8人目)。9月8日秋山登に並ぶ、9年連続50試合登板のプロ野球タイ記録を樹立。翌日の9月9日には、史上6人目の150セーブを達成。9月19日、プロ野球史上初の3年連続40セーブを達成。しかしシーズン中盤に極度の不振に陥った。ストレートの球速が140km/hを下回るケースや低めへの制球に苦しむ場面が目立つなど、全体としては球威、制球に苦しんだシーズンであった(年度別成績の比較で入団3、6、9年目の成績が低調であることから、「岩瀬の不調は3年周期」と評されることがある)。クライマックスシリーズでは、対阪神の第1ステージ第2戦から対巨人の第2ステージ第3戦まで、いずれも8回途中からの4連投でチームの日本シリーズ進出に貢献。3勝1敗で迎えた日本シリーズ第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えて史上初の継投による完全試合を達成し、胴上げ投手となった。なお、山井から岩瀬への継投を行った落合監督の采配については、スポーツマスコミ、野球評論家などを中心に賛否両論が巻き起った。

詳細は「2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投」を参照

北京五輪で投球する岩瀬

2008年6月14日アレックス・カブレラに557試合目にしてプロ入り初のサヨナラホームランを被弾した。8月、北京オリンピックに日本代表として出場したが韓国代表のイ・スンヨプに逆転ホームランを打たれるなど大会を通じて10点を失い、3試合で敗戦投手となった。帰国後はプロ野球史上初となる10年連続の50試合登板を達成。また、ポストシーズンの無失点記録を22回1/3まで伸ばしている。12月、年俸4億3000万円(現状維持)で4年契約の契約更改を行った。

2009年4月21日鈴木孝政の持つ球団記録を更新する通算登板587試合を記録。4月30日の対ヤクルト戦で青木宣親の後頭部に死球を当て、自身初の危険球による退場となった。5月12日、プロ野球史上4人目、左腕投手としては史上初の通算200セーブを達成。7月30日、プロ野球史上初となる5年連続30セーブを達成。8月15日、歴代単独3位となる通算228セーブを記録。8月18日、20試合連続セーブを達成。

[編集] プレイスタイル

岩瀬の最大の武器といえる球種は高速スライダーで、全投球の5割近くを占める。この高速スライダーは切れ味鋭く大きく曲がるため、特に左打者にとっては「魔球」とも言われる。しかも直球とスライダーの軌道も途中までほぼ同じで、投球フォームも見分けがつきにくい。

そのほかには、シュート、ムービングファストボール、スプリットも武器としている。また、ムービングファストはキャッチボールの時でも動いている。しかし自分では普通のストレートを投げているつもりなのだという。このムービングボールは入団して初めての春季キャンプで当時正捕手だった中村武志が取り損ねて突き指してしまったほどであった[1]

[編集] バッティング

前述の通り、バッティング面で大学時代にリーグ歴代2位を誇る成績を残しているほど素質は高い。中継ぎ及びストッパーというポジション上、打席に立つことは少ないが、たまにチャンスが巡ってくると、それを知らない相手投手の甘い球をクリーンヒットすることがある。ただし同じくバッティングが得意とされる川上のようなスラッガータイプではなく、外野前に上手く狙う巧打が多い。

[編集] 人物

家族は妻と2子。

あだ名は「満太朗」(元同僚の野口茂樹が命名。由来は不明)。同じく中継ぎで活躍した先輩の落合英二はまんちゃんと呼んでいる。また公私ともに仲の良い川上憲伸は、岩瀬の「岩」の字から「ガンさん」と呼んでいる(岩本勉の「岩」の字から「ガンちゃん」と呼んでいることもある)。

前人未到の入団以来10年連続50試合以上登板、シーズン46セーブの日本記録(藤川球児とタイ記録)などの記録を保持する上に、入団以来10年連続で50試合以上登板を続けており、日本球界史上でも屈指のリリーフ投手と言えよう。ハードな起用にも関わらず、致命的な故障もなく、防御率も常に高いレベルで維持しているのは、1日のうち数時間費やすほどの丹念な体のケアと自己管理によるらしい[要出典]

「どんな形でもチームが勝てばいい」という気持ちでマウンドにあがっており、自身の記録にはあまりこだわりがないようである[1]

中日ドラゴンズにおいて、入団以後リリーフ投手としてチームを支え続けている、チームの大黒柱的存在。入団当初は中継ぎ、2004年からは抑えを任されている。その抑えに任命した落合監督からは絶大の信頼を寄せられており、あまり人を褒めることをしない監督が手放しで認める数少ない選手の一人。岩瀬が打たれ敗戦した際には、「岩瀬でやられたら仕方がない」というのが合言葉のようになっている。 初めて最優秀中継ぎ投手最多セーブ投手の両方を受賞した投手でもある。彼を初めとする現代野球における中継ぎ投手の活躍は、旧来評価の低かった中継ぎ投手の地位を向上させ、オールスターゲームファン投票における中継ぎ部門の創設に繋がったといわれている。

抑えに回って以降は、毎年ナゴヤドームでのオープン戦の初戦の先発を務めるのが恒例となっている。これは首脳陣の「たまには岩瀬に『誰も踏みならしていないマウンド』で投げさせてやりたい」という配慮である。

2009年長良川球場で通算200セーブを達成した際、通常中日の地方球場主催試合ではヒーローインタビューは行われないが、プロ野球記録達成という事情もあり、特別に行われた。

普段はオーラがないと同僚によく言われている。落合英二いわく『グランドの外では何処でも居そうな普通の人! ひとたびグランドに立てばスーパーサイヤ人になる!!!』。サンドラの番組内コーナーでの、200セーブ記念お祝いインタビューでも、落合英二とCBCのアナ若狭がスーツでインタビューに臨んだのに対し、岩瀬本人はラフな格好で登場、ON/OFFの切り替えがものすごい選手だと落合が絶賛していた。2007年1月31日の中日スポーツの記事で沖縄で川上と一緒にタクシーに乗った時には、「(川上の)マネージャーさんですか?」と言われてしまったほど[2]


[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1999 中日 65 0 0 0 0 10 2 1 -- .833 307 74.1 67 3 22 2 2 73 4 0 16 13 1.57 1.20
2000 58 1 0 0 0 10 5 1 -- .667 323 80.1 66 3 28 4 1 65 1 0 20 17 1.90 1.17
2001 61 0 0 0 0 8 3 0 -- .727 252 62.2 51 3 16 0 3 62 0 0 23 23 3.30 1.07
2002 52 0 0 0 0 4 2 0 -- .667 231 59.2 38 2 15 4 3 66 1 0 8 7 1.06 0.89
2003 58 0 0 0 0 5 2 4 -- .714 244 63.2 47 3 12 6 1 69 1 1 10 10 1.41 0.93
2004 60 0 0 0 0 2 3 22 -- .400 259 64.1 53 4 14 2 3 53 1 0 20 20 2.80 1.04
2005 60 0 0 0 0 1 2 46 2 .333 229 57.1 51 0 8 2 2 52 1 0 12 12 1.88 1.03
2006 56 0 0 0 0 2 2 40 5 .500 214 55.1 40 3 8 3 0 44 0 0 8 8 1.30 0.87
2007 61 0 0 0 0 2 4 43 3 .333 233 59.0 53 3 9 4 0 50 0 0 18 16 2.44 1.05
2008 51 0 0 0 0 3 3 36 5 .500 212 49.0 55 2 10 2 0 41 0 0 16 16 2.94 1.33
2009 54 0 0 0 0 2 3 41 1 .400 196 46.2 41 2 13 2 2 34 2 0 11 11 2.12 1.16
通算:11年 636 1 0 0 0 49 31 234 16 .613 2700 672.1 562 28 155 31 17 609 11 1 162 153 2.05 1.07
  • 2009年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

[編集] 背番号

  • 13 (1999年 - )

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

  • 初登板:1999年4月2日広島戦(ナゴヤD)4-3 6回2死より登板、3連続安打を許し降板
  • 初勝利:1999年4月18日巨人戦(東京D)9-7 5回より登板、3回2/3無失点
  • 初セーブ:1999年6月23日巨人戦(ナゴヤD)8-5 9回1死より登板、2/3回無失点

[編集] CM出演

[編集] コラム

  • 岩瀬仁紀の人生勝負(題字は恐らく本人直筆)
 ?年‐。不定期更新。同僚の井端弘和(井端弘和の一の野球)とともに携帯サイトのドラゴンズ情報内で、「現状報告」とファンからの質問に答える「お答えします!」(質問は同じページで受付中)で構成されている。

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ


最終更新 2009年11月28日 (土) 07:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【岩瀬仁紀】変更履歴

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