岩谷堂城
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岩谷堂城 (岩手県) |
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|---|---|
| 通称 | 岩谷堂館、江刺城、柄杓城、岩谷堂要害 |
| 城郭構造 | 連郭式山城 |
| 築城主 | 江刺氏 |
| 築城年 | 鎌倉時代末期 |
| 主な改修者 | 岩城氏 |
| 主な城主 | 江刺氏、伊達氏、岩城氏 |
| 廃城年 | 不明 |
| 遺構 | なし |
| 指定文化財 | 史跡 |
| 位置 | 北緯39度11分12.5秒 東経141度11分12.5秒 |
岩谷堂城(いわやどうじょう)は、岩手県奥州市江刺区にあった連郭式の山城。。岩谷堂館、江刺城、柄杓城ともいい、江戸時代の正式呼称は岩谷堂要害である。この城は、安倍貞任の鶴脛柵、または、奥州藤原氏の始祖清衡が平泉に移る前に住んだ豊田館と同一とする説がある。
現在、跡地は公園と岩手県立岩谷堂高等学校になっている。
目次 |
[編集] 歴史・沿革
中世に江刺一帯を治めたのは、鎌倉幕府の御家人・葛西氏であった。室町時代には葛西氏から分れた江刺氏が領していたとされ、葛西信詮の次男・江刺信満が岩谷堂城主だったという記録がある[1]。信満以降、数代にわたって城主を務めて葛西氏に属し[2]、250人の武士を従えていた[3]。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めに出陣しなかったため奥州仕置で葛西氏が取り潰さたのち、江刺氏は南部氏を頼って岩谷堂城を去って閉伊郡に蟄居した[4]。この後は木村吉清・清久父子が領主となり、岩谷堂城には佐瀬伯耆・粟野九左衛門が城代として派遣された。しかし翌年にかけての葛西大崎一揆の際に城主は討ち死にし、木村氏は除封となり、伊達政宗が領主となった。
同年桑折政長が当城に配置され[5]、以降は近世には藩境の下門岡村、上口内村などに置かれた館とともに仙台藩の北辺守備の要とされ、これらの要害同士を結ぶ盛街道などの交通網が整備されて江刺郡統治の拠点となった。。政長は文禄の役に従軍して釜山で病死し、息子の石母田景頼が文禄3年(1594年)に着任した[6]。景頼は人首川に郡堰を設け、農地の灌漑を進めている。この後は慶長7年(1602年)から元和4年(1618年)まで古田重直、元和5年(1619年)から同7年(1621年)まで増田宗繁、元和7年から藤田但馬が城主を務めた。元和8年(1622年)からは伊達忠宗の御部屋領となり、寛永20年(1643年)まで城代が置かれている。その後、古内義実が領主となり、息子・古内義如が万治元年(1658年)まで在城した。万治2年(1659年)から仙台藩2代藩主忠宗の7男伊達氏一門の岩城宗規(伊達宗規)が当地を領し、以降は岩城氏(岩谷堂伊達氏)が継承して明治時代まで続いた。廃城年代は不明。
[編集] 構造
近世以前の構造・規模は不明。正保年間の記録では本丸とその東の城主館、二の丸と家臣屋敷があった[7]。岩城氏の入封後に大規模な改修が行なわれたと考えられており、これによって北から本丸、西の郭、中の郭、二の丸が並び、二の丸に城主居館と大手門が建てられた[8]。二の丸を含む外周には土塁と堀がめぐらされている。
[編集] 地理
江刺平野の北に位置する標高115メートル前後の丘陵の南端・館山の頂上に築かれていた。北以外の三方は急斜面で、東から南東辺は人首川に面した断崖である。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年~2002年 を基にしたデータベース)
- 日本城郭史学会・西ヶ谷恭弘編『国別城郭・陣屋・要害・台場事典』東京堂出版 2002年より加筆
最終更新 2008年7月30日 (水) 03:32 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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