島田忠臣

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島田 忠臣(しまだ の ただおみ、天長5年(828年)- 寛平4年(892年))は、平安時代前期の貴族詩人菅原道真の師として知られ、娘宣来子はその正室となった。また、この時代を代表する漢詩詩人でもある。弟に島田良臣、子に島田仲平・仲方がいる。正五位下伊勢は田達音(でんたつおん)。

[編集] 出自

父母は不明だが、祖父の島田清田(斉衡2年(855年)9月18日、77歳で没)は、尾張の地方豪族[1]から、大学寮を出て学者・官僚として活躍、朝臣を与えられ、従五位上伊賀守に昇り、『日本後紀』の編纂者の1人に加えられた立志伝中の人物であった。

[編集] 経歴

斉衡元年(854年)に文章生となり、当時の文章博士菅原是善に師事する。是善はその漢詩を高く評価して、その才を愛した。その後、忠臣は是善の願いによって嫡男・道真の教育にあたるようになる。『菅家文集』に道真が11歳の時に忠臣に漢詩を習い、初めて漢詩を作ったと記されている。やがて、関白藤原基経に推挙されて従七位下越前権少大掾に任じられた。折りしも越前の海岸に渤海国の使者が漂着し、基経は忠臣にその応対を命じる。忠臣の官位が低すぎる事を危惧する声もある中、適切な対応を取って使者の接待の宴席で行われる慣例があった漢詩の作成も秀逸なものを書き上げた。以後大宰少弐兵部少輔などを歴任して元慶3年(879年)に従五位上となり、その後美濃典薬頭など京官と地方官を交互に務めながら能吏としての実績を発揮して最終的に正五位下伊勢介に昇った。また、元慶7年(883年)に渤海からの使者が再度派遣された折には、当時式部少輔として応対にあたった道真の推挙で急遽任国の美濃から呼び戻されて応対にあたっている。

門人であり、後に娘婿となる菅原道真との交際は生涯に渉って続き、どちらかが地方にある際にも手紙による遣り取りがしばしば行われた。その中には詩などだけではなく、「阿衡事件」などの政治問題に関する遣り取りなども遺されている。また、政界の実力者・藤原基経も忠臣の漢詩をこよなく愛し、藤原敏行に命じて忠臣の漢詩500首を屏風を作らせて自宅に飾ったと言われている。忠臣が65歳で病死すると、道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しみ、道真との縁で忠臣との交際を持った紀長谷雄も「当代の詩匠」と評してその死を惜しんだという。

忠臣の詩は始め『田達音集』10巻に収められ、他にも『百官唐名鈔』などの著作があったがほとんどが散逸し、後に弟の良臣らの詩と併せて『田氏全集』全3巻に纏められた。中国六朝時代の詩人や唐代白居易の影響を受けた平明で素直な述懐詩が多く、それらは今日でも高く評価されている。

[編集] 脚注

  1. ^ 島田臣は多氏の一族とする(『新撰姓氏録』右京皇別)。

最終更新 2009年9月17日 (木) 16:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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