島田洋七

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 島田洋七
本名 徳永 昭広(とくなが あきひろ)
生年月日 1950年2月10日(59歳)
出身地 広島市中区白島
血液型 O型
身長 164cm
方言 九州弁広島弁
最終学歴 広島広陵高等学校中退
師匠 島田洋之介・今喜多代
コンビ名 B&B
相方 島田洋八
芸風 漫才(ボケ)
立ち位置
事務所 島田オフィス
活動時期 1970年 - 現在
同期 間寛平
作品 著書 『佐賀のがばいばあちゃん
配偶者 既婚
  

島田 洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )は、広島市中区白島出身[1]漫才師タレント作家。漫才コンビB&Bのひとり。島田オフィス所属。本名、徳永 昭広(とくなが あきひろ)。

目次

[編集] 人物

1980年代、漫才ブームパイオニアとなり[2][3][4][5][6]、月給1億円の時代から、人気急降下、そして現在ベストセラー作家と、ジェットコースターの様な激動の人生を歩むお笑い芸人である。ビートたけしの親友としても知られる。なお、下の名前の読みは「ようひち」との表記説が多く言われているが、本人にいわく「どっちでもいいが分かりやすい『ようしち』が良い」との事。(大阪では質や七を「ひち」と読むため)

[編集] 来歴

[編集] 広島/佐賀

1950年広島市に生まれる。父親は被曝して、洋七が生まれた頃は病床にあり、洋七の幼少期に原爆症で亡くなる。母・兄・洋七の三人で極貧の生活を送る。

1957年、小学校2年生8歳の時、佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間、更に極貧の生活を送る。このときの体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された。

佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、1965年春、高校野球の名門・広島広陵高校に入学し、故郷・広島に戻る。本人は一週間ほど野球部に試しで参加しただけで入部はしなかった。当時の野球部監督は森岡栄司である(名将といわれた三原新二郎監督の就任は1966年)。一年生で退学(自主?)処分となっている。広島東洋カープの主力投手だった佐伯和司は3学年下となる。

広陵は卒業していないので大学進学は考えられない。その後八百屋で働いたのち再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻(りっちゃん)と知り合う。二人で東京へ駆け落ちを決意。間もなく妻の貯金も尽きて大阪に移る。

[編集] 大阪

1970年うめだ花月笑福亭仁鶴落語や、中田カウス・ボタン漫才を観たのがきっかけで芸人になろうと決意。仁鶴がベンツ中田カウスポルシェで帰るのを見て「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した理由という[7]吉本興業うめだ花月の進行係として採用され、当初仁鶴に弟子入りを志願したが言葉の訛りを理由に断られ、次に美人の今喜多代、優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入りを願う。しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く、毎日師匠の元に通い1ヶ月と4日目に弟子入りを許された。

現在放送作家として活動している団順一萩原芳樹)と1972年初代B&Bを結成、島田洋一名で漫才師としてデビュー。このときはツッコミ担当だった。洋七の漫才スタイル・原型は、団の影響を強く受けたと言われている。初舞台となった名古屋大須演芸場のお客は5人だった。

この初代B&Bは相方の団の失踪で消滅。1973年上方よしお(当時の芸名は上方真一)と二代目B&Bを結成。天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞[8][9]。この頃、当時18歳の島田紳助がTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、同門入りした話は今や伝説となっている[10]。紳助は「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と語るが、実際は二年間、金魚のふんのように洋七について回っていた[11]

1975年、洋七は東京進出を考えるが、真一(よしお)が「怖い」と尻込みし解散。漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の進行役をしていた洋八を、桂三枝が「あの人はどないや。」と決め、三代目B&Bを結成[12]。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。しかし1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる(詳細は後述[13]。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと[14]。他に星セント・ルイスが大阪のテレビ番組にやってきたが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと[15][16][17]。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀では殆ど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと[18][19]。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く。当時の吉本は東京に事務所がなかった。

1979年9月、29歳で東京行きを決行した。吉本興業の幹部・芸人仲間からの反対を押し切って、強行で反旗を翻したため、吉本興業には解雇を言い渡される。

[編集] 東京

東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍[20]。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた。このため吉本は円満退社だったという説がある。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため[21][22]浅草松竹演芸場など東京の寄席にノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ[23]。自身もこれを見たというラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している[24]。同業者にはウケないのが普通なのである。まったく売れてなかったツービートビートたけしもまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した、と著書『浅草キッド』に記している[25]。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので[26]借用元のB&Bの東上が「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、対抗上ツービートの過激度を一段と高めることになった[27]。こうして東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の内海桂子が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した[28]1980年1月、澤田隆治プロデュースによる「花王名人劇場」(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演。この番組はゴールデンタイムの1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし星セント・ルイスの三組が漫才のみをする、という現在のゴールデンでは見られない形態のものだった。当時のテレビでの漫才は、お昼の演芸番組(『大正テレビ寄席』など)や、正月の寄席中継、タレントのかくし芸等で5分とか3分にコマ切れして見せるもので[29][30]、この頃はコントが非常に人気があり、特に東京では漫才はコントや落語に比べて影が薄い、古臭いイメージだったのである[31][32]。大阪でも同様で、極端にいえば、漫才は年寄りの娯楽に過ぎないイメージで[33]、当時は演芸番組自体が激減していて、大阪でも漫才だけという番組はなく、ゴールデンではほとんど漫才は無かった[34][35]。ましてや若手漫才師が全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった[36][37]。また漫才と言えば、スーツや派手なタキシード蝶ネクタイ等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケの一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので[38]やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした[39][40][41][42][43][44][45]。こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイスと、大阪代表のやすしきよしの激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった[46]。この千載一遇のチャンスを洋七はモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった[47][48][49][50][51]。また漫才番組はドラマと違って、企画を立てて1週間後に放送できるというお手軽さもあった[52][53][54]。同年4月から始まった「お笑いスター誕生!![55]」(日本テレビ)でも、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす[56][57][58][59][60]。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCM(花王シャンプー)に起用され[61]、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人をアイドル化させた功績は計り知れない[62][63][64][65]。漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ!』のMCを務めたのも、B&Bが一番人気があったからである[66]。「お笑い」関係の多くの著書があり、漫才ブームにも係わった井上宏は、「B&Bが東京で大活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれない」と述べている[67]。また「笑点」のチーフ作家・遠藤佳三も「B&Bの東京進出がなかったら、若手漫才ブームは、もっと小さなもので終わっていただろうと思う。B&Bは東京人に上方漫才の面白さを改めて吹き込み、関西弁に違和感をおぼえる人々にも、こと漫才だけは抵抗なく受け入れてもらえる素地を作ったのである。その素地がなければ、大阪のニューウェーブ漫才は、そう簡単に東京に進出できなかったはずだ」と述べている[68]。関西弁(近畿方言)の全国普及は漫才ブーム以降の関西お笑いタレントの東京進出の活発化によってより広まったものだが、その嚆矢は非関西人のB&Bである。B&Bの漫才は、老若男女誰にもわかりやすく親しみやすかった。また非常に陽気で愛敬があり言葉の毒を中和して、若い視聴者を関西弁の笑いに馴染ませ素地作りに貢献したのである[69]放送作家西条昇も「漫才ブームの最大の功労者を挙げるとすれば、人によって異論はあるだろうが、僕は「B&B」と「ザ・ぼんち」を挙げることにしたい。彼ら二組の存在が無ければ、漫才があれほど全国的な大ブームになることなどあり得なかったと思うからである。「B&B」はブームの実質的火つけ役であり、「ザ・ぼんち」はブーム中期から後期にかけての象徴的存在だった」と述べている[70]。   

[編集] 漫才ブーム

同年4月、フジテレビプロデューサー横沢彪が穴埋め企画として、失敗覚悟でゴールデンタイム1時間半という画期的なお笑い番組を敢行。「THE MANZAI」と題したこの番組は、B&Bをはじめとした若手芸人を中心に起用、笑い屋のおばさんを廃止し、客席には落研やプロレス研究会などの大学生だけを入れる、ディスコ調の派手なセット、ナレーションにアメリカナイズされた小林克也の起用、服装は自由、ネタを編集する、CMネタを認めるという、当時としてはタブーだった事をすべて許容した斬新なものだった[71][72]。これらの大半を提案したのは、何と洋七という[73]。若手芸人といってもそれなりのキャリアを持った彼らは、大いにその実力を発揮し漫才は爆発的な人気を得て社会現象ともなる。中でもB&Bは若い女性に大人気となり[74]ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となる。漫才コンビの売れ行きが順位の上位をしめたのは、マルベニ堂の歴史で初めてのことだった[75]。この人気で、月~金の帯番組を5本と計算すると週に実に26本もの番組に出演する殺人的スケジュールとなる。同年10月、「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)の総合MCに抜擢される。関西芸人が全国ネットのお昼の番組の司会というのも画期的だった[76]、当時は漫才が司会をやって当たったためしがない、といわれていたのである[77]。この年、時間が取れない中、深夜0時、2時、3時、と3回のクリスマスディナーショーをこなす。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した。そのため給料は3人で分けて紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った[78]。女は常に八角関係、たけしと一千万で銀座のクラブを貸し切ったり、現金持参でベンツを買いに行ったりするなどの豪遊をした。

[編集] 急降下

しかし、1981年から始まった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)ではたけしと明石家さんまがメインで洋七は完全に脇にまわる。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年にB&Bを解散。その後、国分健二(浮世亭ケンジ)と新コンビ「スティング」を結成したり、間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成したりするも、いずれも長続きしなかった。間寛平の絡みで萩本欽一欽ちゃんファミリー入りしたこともある。またかねてより事業欲も旺盛で、最盛期には新宿渋谷原宿などの一等地に広島風お好み焼き店“モミジハウス”を6店舗展開するが、後に母親の要求に応じて全て閉店してしまう。この頃、「たかじんnoばぁ~」のイレギュラー出演以外は仕事が無かったので、たけしの仕事場に付いて回る。また、竜雷太と土地がらみの問題で裁判になり、勝訴するも結局借金しか残らなかった。1995年第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬。洋八やぼんちおさむら昔の仲間が応援してくれたが、高速道路で演説したり他県で演説したりで落選。このため新潟県で2票入ったという逸話が残る。芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる。一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなす[79]

[編集] カムバック

たけしに「出ろよ」と言われ出演した『平成教育委員会』も、いつまでも頼ってはマズいと辞める[80]。この頃、レギュラーを持っていたラジオのゲストに学者野球選手が来ると「これから講演に行く」と聞かされ興味を持ち講演をはじめる[81]。祖母との思い出は、恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかった。しかし講演で祖母の話をすると非常に受け、またたけしと寿司屋で飲んだとき、たけしの母親自慢に対抗して、ばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスされたことから、話をまとめて出版社に持ち込む。しかし、「お笑いの人にしては話が地味」として請けてもらえず、40社まわったが出版できなかった。やむなくNGKの楽屋やNHKロビーにカンパ箱を置き、お笑い仲間、佐賀や広島の人達からもカンパを募り、東京の小出版社から1987年12月、自費出版で単行本にし、当初3000部を出版。この時のタイトルは、たけしに付けてもらった「振り向けば哀しくもなく」だった[82][83]。さほど評判になることもなく廃刊となっていたが、二度目の自費出版をした2002年には、自費出版では珍しい2万部を売上げ少々話題となる。

徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し、文庫化されると口コミで評判が広がる。さらに2003年「徹子の部屋」(テレビ朝日)で祖母の話をしたところ、大きな反響を呼ぶ。

その後、増刷を重ね“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び時の人となった。2007年に入って『スマステ』(テレビ朝日)など、テレビで特集が組まれ更に部数を伸ばしている。“がばいばあちゃん”シリーズ全作では、日本国内だけで2007年7月に540万部を越えている。

最近は多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は3500回を越え、現在人気ナンバーワンらしい。常人には決して経験することのない波瀾万丈の人生を歩むお笑い芸人と言える。

現在は妻の母親の介護のため、佐賀市東与賀町に居を構え活動中。

2007年8月末をもって吉本興業を再度離籍することが発表された(2007年4月10日)。その原因としては、「がばい」関連の収益について吉本側と対立したためとされた。なお、完全に吉本との契約関係が終了したのは2007年12月9日である[84]。現在は、個人事務所を立ち上げて、島田オフィス所属としている。

島田紳助は「漫才ブームで新しいことをやったのは、B&Bとツービート紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの[85]」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタ振りがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、突っ込みボケという新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能のケンケン・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している[86][87]。 初対面でビートたけしが、とっさに年をごまかした人物[88][89][90]、たけしに「漫才だけは洋七に勝てなかった」と言わせた人物でもある[91][92]

1993年7月2日にテレビ朝日系で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむの眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。

[編集] 逸話

  • B&Bのギャグの代表格と言えば「漫才ブーム」を代表するギャグでもある「モミジまんじゅうー!」である。実はこれが流行るまでは、広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「宮島に行きゃぁ売っとるよ」という程度の存在だった。このギャグのブームでメーカーが15社から一気に300社にまで増えた。最大手のにしき堂は売上が10倍に跳ね上がったといわれ、最盛期には修学旅行のコースにもなって生産が追いつかず、深夜にまで工場を稼動させていた。ブームが終わった後も完全に広島名物として定着し、現在でもメーカーは200社ある。広島のおみやげ物屋では今でも1/3のスペースがもみじ饅頭で占められる。洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は逆に「われわれももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった。しかし、大谷会長が感謝の気持ちを表すため、広島の飲食店に対して「B&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せ」と指示している説があり、洋七は今でも広島へ行くと、店がお金を受け取らないため飲食費は無料との事[93][94][95]
  • 広島県民にとってあまり馴染みが無かった「モミジまんじゅう」を、洋七が広島名物のギャグとして使った理由は、洋七が佐賀に預けられていた時代に、たまたま母親がにしき堂の近くの食堂で働いていて、毎月の仕送りと一緒にもみじ饅頭を入れて佐賀に送っていたため。「もみじ饅頭」は、遠く離れた母親を思い出す味であり、洋七にとって故郷・広島の味として強烈に記憶に刷り込まれた物だったのである。洋七は今でも「もみじ饅頭」を見ると涙が出るという[96][97]
  • テレビドラマ西部警察 PART-II』第18話「広島市街パニック!!」(1982年10月17日放送)は、広島電鉄路面電車を爆破するなど、大がかりなアクションシーンで、同ドラマの傑作選として今もよく再放送され有名だが、B&Bはこの回のゲストとして出演している。役柄は洋七がにしき堂の従業員という設定で、実際ににしき堂の本社・工場でロケが行われた。一方、洋八は同じく地元企業であるヨーグルトチチヤスの従業員という設定であった。(詳細→広島電鉄#その他
  • 「モミジまんじゅうー!」以外のギャグとしては、洋八のアフロヘアーをジャングルに見立て髪を掴んで頭の中に「小野田さーん!」と叫ぶ、クイズ「リンゴとミカン、どっちがバナナ」などがある。B&Bは洋七が一人でしゃべって、洋八がタイミングよくツッコむという形態なので「練習・打ち合わせはしない。したのは消防署のネタだけ」(洋七談)と言う。消防署のネタというのは、セリフをアクションを交えて洋七が少しずつ見せて洋八に復唱させる、というもので、最初は短いので出来るが段々長くなり出来なくなるというネタである。正式題名は"消防士の生きざま"という[98]
  • ネタは全て洋七の自作[99]。ほとんど洋七が喋るためネタ合わせもしない。ネタ合わせをしたのは上記の"消防士ネタ"だけという。こうしたB&Bら若手の漫才を古川嘉一郎は当時、「自作自演、台本なし。仲間うちのシャレをそのまま出してきた。わたしら、感性の漫才てなこというとるんですが」と嘆いた[100]
  • うめだ花月の進行係をしていた時、当時吉本新喜劇の新入りで同学年の間寛平と仲良くなり、程なく寛平が、新婚の洋七夫婦のアパートに転がり込み三人の共同生活が始まった。仕事から帰ると冷蔵庫にマヨネーズケチャップしか無いので二人でそれを啜った。うさぎに食べさせると八百屋からもらってきた野菜の芯、パン屋の食パンの耳、花月のお客様が置いていったお弁当などが貴重な食料となった。
  • 6年間に二度も相方に逃げられた失意の洋七に洋八を紹介したのは桂三枝とされる。その後洋七自身が「俺と一緒に漫才で勝負しよう」と役者志望の洋八を口説いた。三枝は舞台の袖で進行係をしていた洋八を「あいつ、どうや?」と指さしただけだが、「あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ」と言ったという。
  • 1970年代後半、吉本はやすしきよしコメディNo.1Wヤング等、実力者が揃って層が厚く、洋七らの喰い込む余地はなく、吉本に相談したら「ザ・ドリフターズみたいなんをやれ」と言われ1978年、リーダーが洋七でB&Bとザ・ぼんちのりお・よしおに、明石家さんまを加えて『ビールス7』(後にチンチラチン)を結成した。「ヤングおー!おー!」(毎日放送)の林プロデューサーに、「番組でウケたらコーナーを持たせてやる」と言われたがコントの練習中、キャラの被る西川のりおと度々殴り合いの大ゲンカを繰り返し、当時まだ20歳そこそこだったさんまが仲裁に走った。二人の機嫌をとるため代わりに殴られ「初めて大人の汚い世界を見た」という。結局このグループからB&Bが外され、紳助・竜介が代わりに起用され大きな人気を得た。外された理由をプロデューサーに聞いたら「若い方がええ」と言われたというが、洋七は「ヤングおー!おー!」のレギュラーだった桂きん枝が以前、飲み屋で洋七と間寛平に引き摺り回されたことを恨み「あいつら若いのに生意気」とプロデューサーに口添えしたのが、外された本当の理由と話している。弟弟子にレギュラーの座を奪われた洋七の、吉本への不信は決定的となり、東京行きを決意するに至った[101][102][103][104]
  • 西川のりおとは犬猿の仲で有名。B&B再結成時の劇場の前座でのりお・よしおが漫才をしたが、「客を温めて」おくのでなく客を「疲れさせ」たのでB&Bが登場してもウケず、洋七が激怒。のりおの泊まっているホテルへ乗り込むも不在で、鍵を開けさせ中に入り衣装を破き、薬を捨てた逸話がある。その後のりおから「請求書」が届いたというオチもある。
  • 初めてのゴールデン1980年1月20日に放映された「花王名人劇場」“激突!漫才新幹線”に出たら、文字通り一夜明けたら大スターで、翌日には番組スポンサーだった花王石鹸からトニックシャンプーのCM出演依頼がきて、15万円だった給料が歩合制になって、いきなり500万円となり、その後は毎月倍々ゲームになっていったという[105][106][107]
  • この番組の出演にあたり、プロデューサーからキチッとしたスーツの着用を強要されたが、金が無い事もあり拒否。自らがデザインしたB&Bとロゴの入ったTシャツ着用で舞台に立った。このTシャツがよく売れて、これも数千万の利益が出た。ロゴのデザインは当時流行っていたABBAのロゴをパクったと言われている[108]。この手法はタカアンドトシが真似ている。
  • 本人の語るところによると、最盛期、毎月数千万円が入った段ボールを妻に渡していたにもかかわらず「こんなに売れてるのに、何で給料がこんなに安いのか」と真顔で言われ、顔面蒼白となった。聞き返すと、段ボールの中はファンレターかと思い開けず、別に封筒で渡された端数の数十万円だけが給料と勘違いしたとのこと。段ボールは押入れの中に保管してあり約3億円の現金は無事だった。その日は1月1日、銀行も休みで預ける事が出来ず、こういう時に限って来客も多く、夫婦揃って押入れの前から微動だにしなかった。1月4日になって銀行が開き電話をかけ金額が大きいから取りに来てくれと頼んでも「3億」と言うと、「イタズラ電話はやめて下さい」とどこも信用してくれなかった。仕方なく自ら銀行に出向き、自宅に支店長を連れてきて現金を見せると、「どうしたんだ貴様!!、この金!!」と言われた[109]
  • 洋七を可愛がっていた“ミスター赤ヘル”山本浩二とイベントで一緒に出演。その年大活躍した山本は、王貞治を抜き年俸が球界一となった。司会が「王選手を抜いて球界一の8千~万円になりましたね!おめでとうございます!」と言ったあと、山本に「漫才師はどれくらいもらうんだ?」と聞かれた。あやうく「8億です」と言いそうになったが「いや、3000万くらいです」と答えると、「漫才師はもらい過ぎだな」と言われた。洋七は「そのとき8億と言っていたらバットでノックされてたろう」と語る[110]
  • 「モミジまんじゅうー!」のギャグが流行った時、広島の県菓に選ばれ宮島で表彰された。二千人位の参列者の前で、一枚板の3メートルもある巨大しゃもじを渡された。「このしゃもじは由緒あるなにがし寺に奉納されたもので…」と言われたため、「いらん」とは言えず、半分にして持って帰るわけにもいかず。結局梱包して宅急便で送ったら5万円かかった。しかし大きすぎて家に入らず、仕方なく物置を70万円かけて作って斜めに入れた。やはり使い道もないので処分することになり、高野山まで運んで奉納して拝んでもらって燃やしたら100万円かかったという[111][112]
  • 洋七を可愛がっていた横山やすしと東京での仕事が一緒になったとき、「東京で一番面白い若手」と紹介してもらったのが、ビートたけしとの最初の出会いである[113][114]。千葉の飯やで「成功して大金を掴んだら何が欲しいか」の質問に対して洋七は「を腹一杯食べたい」と言ったが、同じ質問に対してたけしは「俺は芸が買いたい」と言ったという。また親友になったのは1986年、たけしがフライデー事件を起こした時である。当時謹慎中で誰も面会に来なかった中、唯一洋七だけが会いに来たため、たけしは感謝で一日中泣いた、という。
  • 浅草キッドは、「漫才師」という一見愚にもつかない職業をあの80年代初頭の空前の“漫才ブーム”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると話し、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている[115]
  • 洋七とビートたけしが“漫才ブーム”で儲けて、憧れの「銀座で飲む!」と初めて銀座に繰り出したが、どこの店に入ったらいいか分からないので、高橋慶彦に紹介してもらった店に行ったという。銀座で一晩飲むと200万と噂で聞いていたので、お互い2000万ずつボストンバッグに詰めて行った。その店の会計は14万円だった。200万という金額は銀座でナンバーワンのホステスの給料だった[116]
  • 横澤彪は、ビートたけしが超人気者になっても、絶えず自己啓発に時間を割くのは、横澤がプロデュースした「笑ってる場合ですよ!」で司会をしたB&Bが、連日のギャグの連発で、とうとう才能を枯渇させてしまったのを見ているから。人気が出て有頂天になっていると、アッという間に地獄に滑り落ちる怖さを知ったからだと思う、と述べている[117]。なお横澤は「笑ってる場合ですよ!」は「笑っていいとも!」のプロトタイプともいえる番組で、「THE MANZAI」が巻き起こした漫才ブームを「笑ってる場合ですよ!」が広げたと話している[118]
  • 人気が急降下し、仕事が全くなくなった時期に睡眠薬自殺を図ったことがある。しかし薬を飲もうとしたそのとき、たけしから電話があり「一緒に飲もう」と誘われ、一晩中飲み明かしているうちに自殺のことなど忘れてしまったという。
  • また、仕事がまったく無かった時期は、蓄えがあったのもあり、通訳付で海外旅行を何度かしたりしていたと本人は語る。
  • 2006年2月7日放送の『ズバリ言うわよ!』(TBS)にゲスト出演。細木数子は「これぞ一流の漫才」「今までの生き方を全て芸にしている」「素晴らしい」と洋七を大絶賛した。
  • 2007年8月19日、日本テレビ系『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』に出演した際、同番組のエンディング曲「サライ」が全く歌えなかった。
  • 山本浩二らと付き合いがあり一時は広島カープファンと言っていたが、西武ライオンズのエースだった東尾修に「空気がいいから」と勧められ、佐賀に転居するまで西武ライオンズ球場の近くに住んでいた。それが縁で、その後は長年にわたる西武ライオンズのファンとなっている。
  • 『佐賀のがばいばあちゃん』が有名になるにつれて、ビートたけし島田紳助から「がばいばあちゃんはいなかった」と言われる事がある(もちろんギャグとしての発言である)。
  • 紳助は「漫才に関してめっちゃ知ってる、今でも尊敬している」と発言している。

[編集] 主な受賞歴

[編集] 書籍

  • 佐賀のがばいばあちゃん/自著、1993年、徳間書店、(2004年1月文庫化)
  • がばいばあちゃん佐賀から広島へ めざせ甲子園/自著、徳間書店
  • がばいばあちゃんの笑顔で生きんしゃい/自著、徳間書店
  • がばいばあちゃんの幸せのトランク/自著、徳間書店
  • がばいばあちゃんの贈る言葉/自著、徳間書店
  • 佐賀のがばいばあちゃんのレシピ/ソニー・マガジンズ、2006年5月
  • がばいばあちゃんの贈る言葉 POST CARD BOOK/自著、徳間書店、2006年4月
  • 文句あっか!!/自著、文藝春秋、2005年11月
  • 島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承/自著、イースト・プレス、2006年7月
  • かあちゃんに会いたい/自著、徳間書店
  • 俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場/自著、徳間書店、2007年9月

 

  • B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻/KKベストセラーズ、1980年9月
  • B&Bの愛しかた愛されかた/KKベストセラーズ、1980年12月
  • B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>/KKベストセラーズ、1982年1月

[編集] 脚注

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  1. ^ 中国新聞、2008年10月5日、7面
  2. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 459、460頁
  3. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83
  4. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』青蛙房、2002年6月、p218-219、224
  5. ^ ぴいぷる:ZAKZAK
  6. ^ あっと九州/島田洋七インタビュー
  7. ^ 「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、1981年、p166
  8. ^ 新野新著『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』青心社、1981年4月、p157
  9. ^ 「漫才ブームなのです」、中田明成、作品社、1981年、p18、19
  10. ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』幻冬舎、2003年3月、30-34頁
    島田紳助著『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56
  11. ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、63、64、239―241頁
  12. ^ 「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、1981年、p167
  13. ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで角川SSコミュニケーションズ、2008年2月、p30―31
  14. ^ 「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、p170
  15. ^ [1]
  16. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p221―222
  17. ^ 浅草キッド著『お笑い 男の星座』 文藝春秋、2001年、p74-75、[2]
  18. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
  19. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p220-222
  20. ^ ツカサネット新聞
  21. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p219
  22. ^ 井上宏著『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p19
  23. ^ 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p39-40、徳間書店、2007年9月
  24. ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで角川SSコミュニケーションズ、2008年2月、p30―31
  25. ^ ビートたけし著『浅草キッド』太田出版、1988年、206頁
  26. ^ ビートたけし著『浅草キッド』、206頁
  27. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p227―228
  28. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p220
  29. ^ 小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、19頁
  30. ^ 小林信彦著「笑学百科」、新潮社、1982年、p22
  31. ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』東京堂出版、2001年6月、p116
  32. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p252
  33. ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、29、242頁
  34. ^ 「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治、東阪企画、p44
  35. ^ 新野新著『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』、p157
  36. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、252
  37. ^ 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』 イーストプレス、p2
  38. ^ 漫才ブームが爆発した1980年8月、週刊朝日は“MANZAIはどこかた来たか“というB&Bら当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。やすしきよしが登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。「ヤングおー!おー!」の浜本忠義は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビの有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。古川嘉一郎は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。今はギャグの時代。ジャリ文化はギャグ漬けになっている(週刊朝日、1980年8月22日号、29、30頁)。
  39. ^ [3]
  40. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p222
  41. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年、459-461頁
  42. ^ 芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p16
  43. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、161、368
  44. ^ ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」
  45. ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、256、257頁
  46. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125
  47. ^ らくごくら::吉本興業、大崎洋新社長
  48. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p34-37、54、55、60、61、96-98、125、370他
  49. ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p32―35
  50. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p230―233
  51. ^ 「漫才ブームなのです」、中田明成、p16、17
  52. ^ 「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治、東阪企画、p44
  53. ^ 「花王名人大賞 にっぽんの芸人392」、澤田隆治、東阪企画、p82、258、388
  54. ^ 小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、162、198、199、201頁
  55. ^ 『お笑いスター誕生!!』の世界を漂う
  56. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 461、462頁
  57. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83-85、369
  58. ^ 『昭和ヒーロー事典』講談社、1989年7月、p582-583
  59. ^ ツカサネット新聞
  60. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p222―223
  61. ^ B&Bの抜擢は単なるお笑いのイメージとは違う、新しいタイプのタレントとして見た当時の花王副社長・佐川幸三郎によるもの(「漫才ブームメモリアル」p228-231)。
  62. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p82、101-103
  63. ^ 「昭和ヒーロー事典 芸能編」講談社、1989年7月、p582―583
  64. ^ 『昭和ヒーロー事典』講談社、p582-583
  65. ^ 「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、p176
  66. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p104
  67. ^ 井上宏著『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p19
  68. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』青蛙房、2002年6月、p218-219、224
  69. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p220、224
  70. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 460頁
  71. ^ 横沢彪『犬も歩けばプロデューサー』 日本放送出版協会、1994年10月、p85-87
  72. ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p35―36
  73. ^ 芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p12
  74. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 p462
  75. ^ 『マルベニ堂のブロマイド』、マルベニ堂、文藝春秋、p64、212
  76. ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、243頁
  77. ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p104
  78. ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p35―36
  79. ^ 芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p16
  80. ^ アサヒ芸能徳間書店、2007年10月11日号、p215
  81. ^ 『BIG tomorrow』324、2007年6月1日号、p85、青春出版社
  82. ^ 決定版「一発屋」大全、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p152
  83. ^ あっと九州/島田洋七インタビュー
  84. ^ 吉本と再び決別!島田洋七の契約終了
  85. ^メントレ」スーパーG秋の2時間大放出スペシャル、フジテレビ、2006年10月9日
  86. ^クイズ!紳助くん」、朝日放送、2008年6月23日
  87. ^ 似た内容が、島田紳助の著書『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56に記述。
  88. ^ 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』 p16、イーストプレス
  89. ^ [4]
  90. ^ アサヒ芸能徳間書店、2007年10月11日号、p214
  91. ^誰でもピカソ」、TV東京、2008年4月4日
  92. ^愛のエプロン」、テレビ朝日、2007年8月8日(東国原英夫談)
  93. ^ 社団法人宮島観光協会 |お土産|もみじ饅頭|
  94. ^ 生誕100周年もみじ饅頭物語 :西広島タイムス
  95. ^ 「Eタウン」中国放送(RCC)2006年6月3日
  96. ^ 47CLUB スペシャルインタビュー
  97. ^ 広島eマガジン VOL.1880 10.28
  98. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
  99. ^ 『年刊 人物情報事典'83』 Ⅲ芸能・スポーツ・世相編、日外アソシエーツ、1983年、453頁
  100. ^ 週刊朝日、1980年8月22日号、29頁
  101. ^ [5]
  102. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
  103. ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p30―31
  104. ^ 井上宏著 『まんざいー大阪の笑いー』 世界思想社 1981年 156、157頁
  105. ^ 『BIG tomorrow』324、p83
  106. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
  107. ^ 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p42、徳間書店、2007年9月
  108. ^ 『BIG tomorrow』324、p82
  109. ^ 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p21-23
  110. ^ 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p24、25
  111. ^ 浅草キッド『お笑い 男の星座』 p79-80、文藝春秋、2001年
  112. ^ 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p32-35
  113. ^ 浅草キッド『お笑い 男の星座』 p72-74、文藝春秋、2001年[6]
  114. ^ スポーツ報知、2009年2月24日、24面
  115. ^ 浅草キッド『お笑い 男の星座』p71、文藝春秋、2001年
  116. ^ 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p54-61、徳間書店、2007年
  117. ^ 横澤彪『犬も歩けばプロデューサー』 p26-27、日本放送出版協会、1994年
  118. ^ 横澤彪『犬も歩けばプロデューサー』 p87-94

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月19日 (木) 14:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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