川上哲治
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川上 哲治
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| 基本情報 | |
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| 出身地 | |
| 生年月日 | 1920年3月23日(89歳) |
| 身長 体重 |
174cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 一塁手、投手 |
| プロ入り | 1938年 |
| 初出場 | 1938年 |
| 最終出場 | 1958年10月21日 1975年3月23日(引退試合) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1965年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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川上 哲治(かわかみ てつはる、1920年3月23日 - )は、熊本県出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
現役時代から「打撃の神様」と言われ、また監督としては読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、V9(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成した。愛称は「打撃の神様」、「哲」、「ドン川上」。現役では最高齢のプロ野球解説者(NHK)である。
妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 - 1944年)。子はノンフィクション作家の川上貴光。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入りまで
元々は右利きであったが、5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。経過が悪く完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていた。その後しばらくは左投げ右打ち。
熊本県立工業学校(現・熊本工業高等学校)2年生の4月から左打ちに転向した。熊本工の投手として吉原正喜(捕手)とのバッテリーが評判となり、1934年・1937年夏の全国中等学校野球選手権大会へ2度出場し、いずれも準優勝する。また選抜中等学校野球大会にも1936年春に1回出場している。
[編集] 現役時代
1938年に東京巨人軍に入団。阪神、阪急、新球団の南海との争奪戦の末の獲得だった。契約金300円、月給110円。300円という金額は「東京では分からないが、熊本の田舎ならなんとか家一軒建てられ」るものだったという(『川上哲治 もっこす人生』)。同期入団には熊本工業学校の同級生・吉原正喜をはじめ、千葉茂、内海五十雄、野村高義、岩本章、三田政夫がおり、「花の昭和13年組」として注目を集めた。巨人の狙いは強打の捕手の吉原で、投手・川上はそのついでという扱いだったという。川上は、巨人と契約した1週間後に南海の契約金500円、月給150円という好条件を聞き、巨人と契約したことを悔やんだという(同『もっこす人生』)。また異説として、大和球士『プロ野球三国志 第四巻』(ベースボールマガジン社)によれば、南海への入団が決まりかけていたが、巨人は南海の加入に既存球団の反対が強かった状況を利用した。巨人の鈴木惣太郎は南海の高須一雄監督を呼び出し、南海の加入に反対しない代わりに川上と吉原の獲得から手を引かせる取引をしたという。
入団当時は投手として登録されていたが、球威に乏しく自他共に認める「軟投派」タイプであった。監督の藤本定義は川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。熊本工でバッテリーを組んでいた吉原が開幕試合で新人ながらスタメン出場し、やはり同期の千葉が二塁手として活躍しているのを見て「早く打撃に専念すればいいが…」とこぼしていた。春シーズン(当時のプロ野球は春・秋の2シーズン制が採られていた)は川上は投手と打者の両方で起用されたが、いずれも成績は芳しくなかった。
川上が野手に転向したのは春シーズンが終わり、秋シーズンに入る前に行われた夏のオープン戦だった。当時の正一塁手だった永沢富士雄が怪我でスタメン落ち急遽一塁手として出場したゲームで3安打の活躍を見せると、藤本定義監督から「ファーストミットを用意せよ」と言い渡され、川上は大喜びした[1]。この年の秋シーズンから一塁手として定着する。翌1939年から内野手として登録されるが、1941年までは投手も兼業していた。
1939年から1シーズン制に戻り、川上はこの年の首位打者を獲得した。以後1941年にも首位打者に輝いた。「投手で4番」の先発出場を3回記録しており、1939年4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。
その後徴兵され出征し、内地で敗戦を迎える。
川上は郷里の人吉に帰り、家族を養うために農業に専念していた。プロ野球は早速1946年4月からペナントレースが再開され、巨人は川上に対して選手復帰を申し立てた。しかし、川上は人吉の家族を扶養することを考え、「もし3万円貰えるなら巨人に復帰する用意がある」と伝えた。これは、プロ野球で初めて選手が球団に対して契約金を要求したことになり「三万円ホールドアウト事件」とも言われる。1946年6月から巨人に復帰し、その年3割をマーク。
翌1947年、運動具メーカーと契約を交わし赤色に染めたバットを使ってプレーし、この「赤バット」は、青バットを使用した大下弘とともに鮮烈な印象を与えた。この運動具メーカーとの契約は、プロ野球選手のCM出演第1号ともいわれる。しかし、バットの塗料がボールに塗り移って使い物にならなくなるとの理由で、赤バット、青バットはこの年限りで使用を禁止されたが、ファンには強烈な印象を残した。
1947年シーズン途中から巨人の監督は三原脩が就いた。三原はスターを重用し川上も三原を慕っていたが、一方で若手や他球団から移籍した選手は自分たちの扱いに不満を持ち、1949年シーズン終了後一部の「反三原」らの選手たちが決起して監督の三原を排斥して水原茂を擁立しようした「三原監督排斥騒動」が持ち上がる。川上はこの動きに反対していたが、球団は選手たちの圧力に屈して三原を更迭して水原を監督に据えた。川上は水原に対していい感情を持っておらず、また水原はチームの主力選手になっていた川上を叱責するなどの確執が見られた。
当時の川上は試合終了後に宿舎で深夜まで素振りをするなど、チーム内では練習熱心で知られていた。そして、1950年のシーズン途中に、多摩川のグラウンドで打撃投手を個人的に雇って打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるという感覚に襲われた。これが「ボールが止まって見えた」というエピソードである(実際は当時松竹ロビンスの小鶴誠の発言、不人気球団を渡り歩いた小鶴では記事にならないと、報知新聞記者が川上の言葉に捏造したものである)[要出典]。低く鋭い打球を飛ばす打撃スタイルから、大和球士は川上の鋭い打球を「弾丸ライナー」と名付けた。これが、弾丸ライナーという言葉の起こりである。
1950年、シーズン2度の1試合3本塁打を記録(3月14日、4月16日)。これは1989年にラルフ・ブライアントがシーズン4度記録するまで最多記録だった。
打撃では超一流の実力を示したが守備は苦手であり、千葉茂は「一塁のすぐ横のゴロまでワシが取らなきゃならなかった」「ほんのちょっと送球が高いと、奴(川上)はもう背中を向けているんよ。『これは捕れない』と悪送球を拾いに行くのさ。ジャンプして捕ろうという気がないんだね」と発言していた。
「重戦車」とあだ名されるほど足が遅かったが、1947年からは投手のクセを盗んだりバッテリーの隙を突いたりという努力で足の遅さを補い、以前とは別人のように、スキあらば盗塁を仕掛けるようになった。通算220盗塁は今も巨人軍歴代3位の記録である。また足についてはあくまでも「加速が遅かった」ということか、走力が必要とされる三塁打は現役当初から多く、通算99三塁打はプロ野球歴代4位の記録である。
1951年、サンフランシスコ・シールズの監督フランク・オドールから、自チームのスプリングキャンプに日本球界から数名を招待したいと申し入れがあった。監督の水原は川上を推薦したが、自分が選ばれることはないと思っていたためこの決定に驚いた。さらに、渡米してスプリングキャンプに参加したところ、監督は練習メニューをコーチに任せたきりであとは地元の名士たちとの交流に費やしていることに驚いた。ここで川上は、アメリカ球界ではチームは監督が絶大な権力者であり、選手が監督に従うものであると学んだ。当時の日本球界では、「三原監督排斥騒動」で選手が監督を突き上げたりしたように「選手は監督と対等である」との風潮が一般的だったが、川上はこれが間違いであると実感した。キャンプを終えて帰国してから川上は水原に対する態度を変えて、水原に対して極めて協力的になった。
1951年には打率.377を記録。これは1986年にランディ・バース(阪神)が.3885を記録して塗り替えるまでセ・リーグ記録であり続け、1989年にウォーレン・クロマティが更新(.378)するまで球団記録だった。また同年シーズンは規定打席到達者による年間三振6の最少三振タイ記録も達成した。
1956年5月31日の中日戦、中山俊丈投手から日本初の2000本安打を達成した。この到達試合数は日本プロ野球最速記録(1646試合)。なお、1500本安打の到達試合数は1241試合で、レロン・リーの1237試合に次ぐ速さであり、日本人では最速記録である(日米通算ではいずれもイチローが上回る)。1957年には1949年以来の打率3割未満に終わり、翌1958年は「この年3割打てなかったら引退しよう」と決意するもさらなる打撃不振に喘ぎ、4番の座も新人の長嶋茂雄に奪われシーズン後半から6番に下がった。日本シリーズは西鉄ライオンズに3勝4敗で破れ、第7戦終了後に現役引退を表明した。
引退後は1959年からコーチに就任。1960年の10月には監督の水原茂がカメラマンを暴行する事件を起こして球団から謹慎処分を受け、川上が代理監督を務めた。
[編集] 監督時代
1961年、水原監督が監督を辞任し、監督に昇格。当時巨人は1955年以来日本一を逃しており、1960年はリーグ優勝さえ逃していた。戦力的には打撃は長嶋茂雄1人だけが頼りになる状態で、投手陣では藤田元司が肩痛を抱えるなど絶対的な柱が不在であった。
就任直後、戦力に乏しいロサンゼルス・ドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目し、ドジャースのコーチのアル・キャンパニスが著した『ドジャースの戦法』をその教科書として、春季キャンプからその実践に入った。コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。また、コーチとして招聘した牧野茂が中心となってサインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入していった。こうした野球が功を奏して1961年にはチーム打率リーグ最低に加えて当時では珍しい20勝投手なしという戦力でありながらリーグ優勝、さらに日本シリーズでは南海ホークスを倒して日本一に輝いた。先述の藤本定義が阪神タイガースの監督に就任すると、阪神ベンチ前に呼び出され、万座の前で采配を非難されたという。吉田義男など阪神の選手は試合中に藤本のマネをして「おい哲、しっかりせえ」と野次を飛ばした。
川上は監督就任後の1961年の春季キャンプから、グラウンドから報道陣を追い出して取材規制を敷いた。当初は記者たちからこの規制に対して反発が上がったが、1962年からさらに徹底していった。この報道管制をマスコミは「哲のカーテン」と呼んだ。川上は日本球界で初めて専属広報をおき、坂本幸夫が初めてその役を担った。川上はグラウンドの権限のみならずスカウト部長を兼任するなどチーム編成の面でも権限を掌握しており、栄養学、ランニングコーチ制の導入など新機軸を次々と打ち出していった。
- V9時代のユニフォームは1961年、川上の監督就任とともに登場し、川上が勇退する1974年までの14年間の長きにわたり使用された[2]。
選手時代のサンフランスシスコ・シールズのキャンプに参加した経験から、選手には監督・コーチに対して絶対服従を要求したが、コーチ兼任の広岡達朗は歯に衣着せぬ性格であり、川上の「体で覚えろ」的な練習方針に反発していた[3]。1964年、広岡は週刊ベースボールで手記を連載したが、川上はこれに「監督批判」を感じ取って連載を中止させた。さらに同年8月6日の対国鉄戦で、0-2とリードされた7回表ランナー3塁の場面で3塁ランナーの長嶋がホームスチールを敢行。これは長嶋の判断によるプレーだったが広岡はこれをベンチのサインだと感じ「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と激怒して、次の球を三振してバットを地面に叩きつけ、そのまま球場から去って帰宅した。川上はこの一連の行為を監督批判として広岡を他球団へトレードしようと決意する。
シーズン終了後に広岡は自分がトレードされることが分かると、オーナーの正力亨に直訴し「トレードされるぐらいなら巨人の広岡として終わらせてほしい」と直訴する。しかし正力享は松太郎に報告すると、松太郎は「打撃面を強化して残れ」と激励され、トレードは破算となった。しかし、一連の動きはマスコミの格好のターゲットとなりマスコミは広岡を支持し、さらにあるスポーツ紙に川上が広岡残留を苦々しく思っていることを吐露した記事が報道されると、川上はマスコミの攻撃にさらされた。川上にとっても子供が学校でいじめを受ける、夫人がストレスで大病を患うという苦痛を味わうことになる。だが川上は松太郎に会って事情を説明して信頼は保持することに成功した。
- 周囲の悪評を気にしていないというイメージで見られていたが、V9の後半(1970年以降)、自らが率いるチームが優勝したにも関わらず「川上の野球はつまらない」「三原脩の爪のアカでも煎じて飲め!!」とこき下ろされるのを見て、「何でチームが勝つだけで悪く言われるのだろう」と悶々としていたと、後に本人が明かしている[4]。
そして戦力が整った1965年以降、巨人は1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。この間堀内恒夫、土井正三、高田繁、高橋一三ら若手が主力選手として支え、さらにトレードで関根潤三、森永勝也、富田勝ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。特に捕手の森昌彦に対してはアマチュア球界の有力選手を次々に獲得していき安住を許さなかった。
だが巨人が連覇を続け、さらに王・長嶋が活躍してタイトルを独占するという状況が続くと、ファンやマスコミがこれに飽きてきて、予定調和的に巨人が勝ち続けることへの不満が高まっていった。川上はこうした批判を次第に気にし始めており、V6を達成した1970年には監督からの退任も決意している。ファンやマスコミからは長嶋茂雄が次期監督となることへ期待が高まっていった。川上の方も、長嶋に対して監督としての教育を施そうと考え1972年からコーチ兼任とし、後楽園球場のロッカールームを首脳陣の使うロッカーに移して監督会議にも出席させている。そして1973年シーズン終了後に川上は長嶋に対して、現役引退して監督へ就任するよう勧め、自分も監督を退任しようとしたが、長嶋が現役生活に拘り1974年も選手生活を送るように直訴した。1974年長嶋はシーズンを通じて打撃不振に喘ぎついに引退を決断、そしてチームもリーグ10連覇を逃し、川上は監督退任した。同年7月9日の大洋戦で生涯唯一の退場処分を受けた[5]。
- 金田正一によれば、川上の成功の秘訣は「不人情」だという。金田は移籍初年度の1965年、故障のため長期離脱したが、やがて故障が癒えて登板OKと判断、川上に連絡したとき、川上は「言葉だけでは信用できない。二軍戦でテストしてからだ」と告げたという。当時、金田クラスの実績のある選手が二軍戦に出場するのはどういう事情であっても恥と考えられており、金田は「ワシに二軍の試合に出ろというのか」「日本一の大投手の言うことが信用できんのか」と憤慨したが、後年このエピソードを述懐するとき「これが『金田ほどのピッチャーが言うんだから、信用しよう』という監督だったら、とてもV9は達成できない。こういう、選手に情けをかけない人だからこそ監督として大成功できた」と評価している。なお、金田は川上の指示通りイースタン・リーグの試合に登板、1勝を記録している。
- 「体が無い者はプロ向きではない」という信条から、選手を見た目だけで判断することが多かった(小柄な選手はプロとして大成しないと考えていた)。巨人は1968年のドラフト会議で、指名選手の一人として福本豊をリストアップする予定であったが、「あんなチビはプロ向きじゃない」という川上の一言で実現しなかった。また、故障歴(もしくはその疑い)のある選手の獲得にも消極的で、1965・66年のドラフト会議に際しては平松政次、1968年のドラフト会議では星野仙一の指名に対して難色を示している[6]。
[編集] 退団後
監督勇退後は球団専務に就任したが、川上を煙たがり、現場から遠ざけることを望んでいた正力亨オーナーの意向で少年野球担当に回され、わずか1年で退団。1976年からNHKの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家となった。
川上の後を受けた長嶋は1975年に球団史上初めて最下位に転落し、同年シーズンオフにはトレードで張本勲、加藤初を獲得して戦力を補強し1976年、77年とリーグ優勝を達成した。しかし日本シリーズでは阪急ブレーブスに破れ日本一はならなかった。チームも依然としてV9を支えたベテランが主力で、V9と比べるとチーム力の低下が明らかとなった。前監督の川上も「勝つことにこだわりすぎ次世代の戦力を整備してこなかった」と批判されるようになった。
1980年の巨人はペナントレース序盤から優勝争いから脱落し、球団史上初めて「3年連続V逸」が濃厚となっていった。8月に『週刊文春』の青田昇、牧野茂、国松彰、藤田元司らと共に巨人の現状をOBの立場から叱責するという趣旨の座談会で、「次期監督は藤田もありうる」などと発言し大きな反響を呼んだ。同年は3位となり1980年10月21日巨人は監督は長嶋が辞任を申し立て、次期監督に藤田元司が就任すると発表したが、当日スポーツニッポンが「長嶋解任」と報道しファンは球団による解任と受け止め、週刊文春での発言から川上が長嶋解任の黒幕であると見なされた。しかし、川上本人は同年末に『サンデー毎日』の取材に答えて「黒幕説」を強く否定している。長嶋と川上の不仲はこの件で決定的になったとされ、長嶋が私的な会話の中で「野沢のオッサンにやられた」(野沢は川上の住んでいる世田谷区野沢のこと)と言ったとされる。
最近ではJ SPORTS STADIUMに特別ゲスト解説で出演することがある。1965年に野球殿堂入り。1999年3月17日、生誕地の熊本県人吉市に川上哲治記念球場完成。(川上哲治記念球場)後年は鶴岡一人と共に球界に強い影響力を持ったことから「ドン川上」といわれるようになった。勇退後の1992年、球界初の文化功労者に選ばれた。
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] タイトル
- MVP:3回(1941年、1951年、1955年)
- 首位打者:5回(1939年、1941年、1951年、1953年、1955年)
- 本塁打王:2回(1940年、1948年)
- 打点王:3回(1939年、1941年、1955年)
- ベストナイン:10回(1940年、1947年 - 1949年、1951年、1953年、1955年 - 1958年)
[編集] 表彰
- 日本シリーズMVP:1回(1953年)
- 日本シリーズホームラン王賞:1回(1952年)
- 日本シリーズ首位打者賞:1回(1953年)
- 日本シリーズ技能賞:1回(1958年)
- オールスターMVP:1回(1951年第1戦)
- 野球殿堂入り(1965年)
- 勲四等旭日小綬章(1992年)
- 文化功労者(1992年)
[編集] 記録
- シーズン打率:.377(1951年)※歴代8位。
- シーズン打率3割以上:12回(1939年 - 1941年、1947年、1949年 - 1956年)※歴代3位タイ。
- シーズン三振数:6(1951年)※最少三振日本タイ記録。
- 最多安打:6回(1939年、1941年、1947年、1953年、1955年、1956年)※歴代2位。
- 打撃ベストテン入り:15回(1938年秋 - 1941年、1947年 - 1957年)※歴代3位。
- 8年連続シーズン打率3割以上(1949年 - 1956年)※歴代2位タイ。
- 9打数連続安打(1939年4月9日 - 9月11日)
- 10試合連続打点(1949年4月3日 - 4月14日)
- 1試合3三塁打(1939年6月21日)※日本タイ記録。
- 1イニング2本塁打(1948年5月16日)
- 逆転サヨナラ満塁本塁打(1949年4月12日)※史上初。
- 日本シリーズ通算打率:.365(159打数58安打)※80打数以上では、歴代1位。
- サイクルヒット(1954年7月25日)
- 通算2000本安打達成(1956年5月31日)※史上初。1646試合目での達成は史上最速。
- 通算猛打賞:194回 ※歴代2位。
- オールスターゲーム出場:7回(1951年 - 1954年、1956年 - 1958年)
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | チーム | 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
長 打 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1938年春 | 巨人 | 23 | 35 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 2 | .200 | .200 | |||
| 1938年秋 | 39 | 133 | 24 | 35 | 3 | 3 | 3 | 53 | 24 | 2 | 2 | 20 | 0 | 16 | 8 | .263 | .398 | ||||
| 1939年 | 94 | 343 | 60 | 116 | 17 | 12 | 4 | 169 | 75 | 8 | 0 | 4 | 37 | 1 | 19 | 10 | .338 | .493 | |||
| 1940年 | 104 | 392 | 51 | 122 | 23 | 9 | 9 | 190 | 66 | 7 | 0 | 4 | 50 | 0 | 27 | 10 | .311 | .485 | |||
| 1941年 | 86 | 339 | 44 | 105 | 21 | 9 | 4 | 156 | 57 | 5 | 0 | 46 | 2 | 21 | 15 | .310 | .460 | ||||
| 1942年 | 72 | 274 | 22 | 73 | 7 | 3 | 3 | 95 | 27 | 5 | 2 | 0 | 46 | 1 | 18 | 4 | .266 | .347 | |||
| 1946年 | 70 | 279 | 45 | 85 | 20 | 4 | 10 | 143 | 67 | 2 | 1 | 0 | 38 | 0 | 13 | 9 | .305 | .513 | |||
| 1947年 | 119 | 443 | 56 | 137 | 30 | 7 | 6 | 199 | 57 | 16 | 5 | 0 | 65 | 2 | 17 | 4 | .309 | .449 | |||
| 1948年 | 135 | 504 | 69 | 150 | 26 | 6 | 25 | 263 | 105 | 12 | 3 | 0 | 58 | 4 | 26 | 9 | .298 | .522 | |||
| 1949年 | 134 | 545 | 84 | 180 | 36 | 10 | 24 | 308 | 129 | 9 | 3 | 0 | 49 | 2 | 24 | 13 | .330 | .565 | |||
| 1950年 | 138 | 559 | 102 | 175 | 34 | 6 | 29 | 308 | 119 | 34 | 6 | 0 | 56 | 4 | 29 | 12 | 9 | .313 | .551 | ||
| 1951年 | 97 | 374 | 74 | 141 | 27 | 2 | 15 | 217 | 81 | 14 | 6 | 0 | 48 | 2 | 6 | 9 | 7 | .377 | .580 | ||
| 1952年 | 118 | 478 | 62 | 153 | 28 | 4 | 4 | 201 | 82 | 15 | 5 | 0 | 42 | 2 | 21 | 11 | 20 | .320 | .421 | ||
| 1953年 | 121 | 467 | 74 | 162 | 26 | 6 | 6 | 218 | 77 | 22 | 8 | 0 | 44 | 7 | 14 | 10 | 9 | .347 | .467 | ||
| 1954年 | 129 | 510 | 64 | 164 | 27 | 8 | 8 | 231 | 87 | 26 | 8 | 1 | 7 | 41 | 2 | 25 | 14 | 7 | .322 | .453 | |
| 1955年 | 120 | 435 | 55 | 147 | 15 | 1 | 12 | 200 | 79 | 17 | 10 | 0 | 8 | 69 | 3 | 33 | 10 | 5 | .338 | .460 | |
| 1956年 | 128 | 490 | 54 | 160 | 23 | 4 | 5 | 206 | 67 | 16 | 13 | 2 | 1 | 46 | 3 | 36 | 10 | 8 | .327 | .420 | |
| 1957年 | 128 | 465 | 54 | 132 | 26 | 3 | 5 | 179 | 52 | 6 | 5 | 6 | 3 | 40 | 4 | 37 | 10 | 7 | .284 | .385 | |
| 1958年 | 124 | 435 | 34 | 107 | 19 | 2 | 9 | 157 | 66 | 4 | 5 | 7 | 8 | 25 | 5 | 39 | 9 | 4 | .246 | .361 | |
| 通算:18年 | 1979 | 7500 | 1028 | 2351 | 408 | 99 | 181 | 3500 | 1319 | 220 | 80 | 18 | 35 | 823 | 44 | 422 | 95 | 160 | .313 | .467 | |
- 太字はリーグ最高。
- 盗塁死は1941年まで未集計。
- 犠飛は1938年までと1941年から1953年までは未集計。
- 併殺打は1949年まで未集計。
[編集] 年度別投手成績
- 防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を記録した1人である。
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1938春 | 巨人 | 11 | 8 | 2 | 1 | 1 | 2 | 2 | -- | -- | .500 | 254 | 59.2 | 55 | 2 | 26 | -- | 1 | 23 | 1 | 0 | 21 | 17 | 2.55 | 1.36 |
| 1938秋 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 27 | 6.0 | 4 | 0 | 3 | -- | 0 | 4 | 0 | 1 | 4 | 2 | 3.00 | 1.17 | |
| 1939 | 18 | 13 | 5 | 1 | 0 | 6 | 4 | -- | -- | .600 | 449 | 102.2 | 81 | 2 | 64 | -- | 2 | 54 | 3 | 0 | 46 | 27 | 2.36 | 1.41 | |
| 1940 | 6 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | -- | .600 | 118 | 27.0 | 18 | 1 | 22 | -- | 1 | 15 | 1 | 0 | 7 | 3 | 1.00 | 1.48 | |
| 1941 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 29 | 4.2 | 10 | 0 | 6 | -- | 1 | 1 | 0 | 0 | 9 | 9 | 16.20 | 3.43 | |
| 通算:4年 | 39 | 25 | 8 | 2 | 1 | 11 | 9 | -- | -- | .550 | 877 | 200.0 | 168 | 5 | 121 | -- | 5 | 97 | 5 | 1 | 87 | 58 | 2.61 | 1.45 | |
- セーブ、ホールド、敬遠は未集計
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | チーム | 背番号 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1961年 | 昭和36年 | 巨人 | 16 | 1位 | 130 | 71 | 53 | 6 | .569 | ― | 89 | .227 | 2.50 | 41歳 |
| 1962年 | 昭和37年 | 4位 | 134 | 67 | 63 | 4 | .515 | 8 | 102 | .232 | 2.47 | 42歳 | ||
| 1963年 | 昭和38年 | 1位 | 140 | 83 | 55 | 2 | .601 | ― | 143 | .247 | 2.57 | 43歳 | ||
| 1964年 | 昭和39年 | 3位 | 140 | 71 | 69 | 0 | .507 | 11 | 147 | .235 | 3.01 | 44歳 | ||
| 1965年 | 昭和40年 | 77 | 1位 | 140 | 91 | 47 | 2 | .659 | ― | 106 | .246 | 2.54 | 45歳 | |
| 1966年 | 昭和41年 | 1位 | 134 | 89 | 41 | 4 | .685 | ― | 114 | .243 | 2.24 | 46歳 | ||
| 1967年 | 昭和42年 | 1位 | 134 | 84 | 46 | 4 | .646 | ― | 162 | .265 | 2.87 | 47歳 | ||
| 1968年 | 昭和43年 | 1位 | 134 | 77 | 53 | 4 | .592 | ― | 177 | .262 | 3.35 | 48歳 | ||
| 1969年 | 昭和44年 | 1位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | ― | 147 | .263 | 3.30 | 49歳 | ||
| 1970年 | 昭和45年 | 1位 | 130 | 79 | 47 | 4 | .627 | ― | 131 | .240 | 2.46 | 50歳 | ||
| 1971年 | 昭和46年 | 1位 | 130 | 70 | 52 | 8 | .574 | ― | 123 | .253 | 2.94 | 51歳 | ||
| 1972年 | 昭和47年 | 1位 | 130 | 74 | 52 | 4 | .587 | ― | 158 | .254 | 3.43 | 52歳 | ||
| 1973年 | 昭和48年 | 1位 | 130 | 66 | 60 | 4 | .524 | ― | 149 | .253 | 3.25 | 53歳 | ||
| 1974年 | 昭和49年 | 2位 | 130 | 71 | 50 | 9 | .587 | 0 | 159 | .253 | 3.05 | 54歳 | ||
[編集] 監督通算成績
- 1866試合 1066勝739敗61分 勝率.591
- 日本一11回、セ・リーグ優勝11回
- Aクラス13回、Bクラス1回
※日本シリーズ優勝11回は歴代最多。14年連続同一チーム監督は歴代2位タイ(他にダイエー-ソフトバンクの王貞治。歴代1位は南海・鶴岡一人の23年)。
[編集] エピソード
[編集] プロ入り前
- 1937年の全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)に出場(準優勝・この大会の優勝校は野口二郎を擁した中京商業学校)した時、決勝戦終了後に甲子園球場の土をユニフォームのポケットに入れ、母校のグラウンドに撒いた。高校野球の敗者が甲子園の砂を持ち帰るのは、これが起こりだと言われている。
- 球界OBの中でも大のゴルフ好きとして知られ、日本レフティーゴルフ協会(左利きゴルファーの同好会)の名誉会長を務めている(以前は会長だった。川上後の会長職には国松彰が務めている)。V9時代、キャンプ中の指揮を牧野ヘッドコーチに任せ、専らゴルフに興じていたという。
- 現在は週刊ゴルフダイジェストでコラム「日々、ゴルフ惚け」を連載中である。2007年2月23日、日本プロゴルフ協会から、小林旭、羽佐間正雄らとともに名誉会員に認定された。
- 新しい歴史教科書をつくる会賛同者。堀田力と共にさわやか国民会議発起人
- 1994年に設立された日本プロ野球OBクラブの初代会長を務めた。
- 戦前のプロ野球に在籍していた選手のうち、2009年現在も生存しているのは川上の他に前川八郎、広田修三、松尾五郎、塚本博睦、小田野柏、溝部武夫、宮崎剛らごく少数になった。川上は「球界の森繁久彌」と称されているが、その理由は長寿であることのほかに、森繁同様、公式の場に姿を現す機会がもっぱら著名人(川上の場合は球界関係者)の葬式に限られていることもある。また、現在沢村栄治及びヴィクトル・スタルヒンの全盛期を本当の意味で知っていて証言できるのは、チームメイトであった川上のほかには、川上よりも先輩の巨人OBである前川八郎程度である。沢村、スタルヒン共に剛速球投手として知られており、現在でもそのスピードについて議論されることが多い。議論の的になるのはもっぱら沢村の方であるが、千葉茂(2002年没)と川上は共に「スタルヒンのほうが球は速かった、160km/h出ていたはずだ」という見解で一致している。さらに、川上は「スタルヒンの横で投げると、自分の方が球が遅く見えるので、スタルヒンと一緒に投球練習するのを沢村は嫌がっていた」と証言している。
- 現役時代のオフの過ごし方として禅寺への修業があり、その際に僧侶達がたくあんを音を立てずに食する様子に関心を持ち、その作法を(僧侶達には直接聞かずに)動作を見て会得した。
[編集] 背番号
- 16(1938年 - 1942年、1946年 - 1964年)
- 77(1965年 - 1974年)
[編集] 著書・参考文献
- 野球―練習と試合の仕方(1968年・成美堂出版)
- 巨人軍の鬼といわれて―わが野球人生50年(1974年・読売新聞社)
- V9の闘魂―巨人軍の鬼といわれて(1983年1月・ベースボール・マガジン社) ISBN 4583023502
- 常勝の発想―宮本武蔵『五輪書』を読む(1984年1月・講談社) ISBN 406200951X
- 悪の管理学―可愛い部下を最大限に鍛える(1984年10月・光文社文庫) ISBN 4334700314
- 勝機は心眼にあり―球禅一如の野球道(1991年5月・ベースボール・マガジン社) ISBN 4583028911
- 川上哲治の坐禅入門―自分に勝ち、組織に勝ち、敵に勝つ(1992年8月・ごま書房) ISBN 4341015176
- 監督の条件(1995年7月・読売新聞社) ISBN 4643950706
- 勝つために必要な五つの方法―V9監督川上哲治が語る「勝利の極意」(1997年6月・ごま書房)ISBN 4341171321
- 遺言(2001年5月・文藝春秋)ISBN 4163576606
- ゴルフ狂、川上哲治 打撃の神様ゴルフ歴半世紀の結論(2006年9月・ゴルフダイジェスト社)ISBN 4-7728-4068-0
- 禅と日本野球―チームワーク、指導力、育てる力―日本野球の礎を築いた「禅」の哲学(2009年5月・株式会社サンガ) ISBN 4-904507-27-4
- 覇道をゆく―川上哲治の戦中戦後(木村勝美著・1987年4月・光人社)ISBN 4769803400
- 父の背番号は16だった(川上貴光著・1991年3月・朝日新聞社) ISBN 4022562765
『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
p.30~ 通算2000本安打、p.52~ 監督通算1000勝、p.48~ 9年連続リーグ優勝、p.92~ 「特別手記 熱き巨人軍魂」
[編集] CM
- セキスイハイム (1980年)
[編集] 脚注
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.30~
- ^ 川上監督勇退後は廃止されるが、1981年にV9時代のスタイルが復活。ホーム用が2度のマイナーチェンジを挟んで1992年まで、ビジター用が1986年のマイナーチェンジを挟んで1992年まで使用された。また、V9当時のデザインを復刻したユニフォームを2007年の日本生命セ・パ交流戦で巨人5000勝記念として4試合限定で使用した(ホーム、ビジター各2試合ずつ、試合はすべて東京ドーム)。
- ^ 生来の口下手に加え、何事にも熱中する凝り性な性格と「肥後もっこす」と称される頑固で妥協しない性格だったため、周囲と衝突することも多く、現役時代の千葉、与那嶺要、広岡達朗とは犬猿の仲であったといわれる(広岡とは後に和睦したが、与那嶺は川上との過去の確執から巨人のOB会に参加していない)。
- ^ この頃のストレス解消法に「石磨き」があった。ビジターの試合で地方に遠征した際、宿泊先の旅館で中庭から適当な石を1個選び出し、それをひたすら磨き続けるものである。当初は石に対して特に興味があったわけではなく、「無心に石を磨いている間は野球の事を思い浮かべなくて済む」のが理由だった。後に、高じて趣味になっていったといわれている(1990年代後半の『週刊ベースボール』に載っていた記事から)
- ^ 詳しくは平松政次・平光清を参照。
- ^ 『江川になれなかった男たち』(岡邦行著・1983年7月15日・三一書房)p65-66 および『プロ野球 これがドラフトだ!』(岡邦行著・1989年11月30日・三一書房 ISBN 4380892492)p153 ‐ いずれも、当時スカウト部長だった前川八郎による証言。
[編集] 川上哲治を演じた俳優・声優
[編集] 代々木ゆかりを演じた女優
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月19日 (木) 15:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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