川相昌弘

川相昌弘の最新ニュースをまとめて検索!

川相 昌弘
中日ドラゴンズ コーチ #71
基本情報
国籍 日本
出身地 岡山県岡山市南区
生年月日 1964年9月27日(45歳)
身長
体重
176cm
74kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 遊撃手三塁手
プロ入り 1982年 ドラフト4位
初出場 1984年4月24日大洋戦(横浜)
最終出場 2006年10月15日横浜戦(ナゴヤD)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

川相 昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日 - )は、岡山市南区出身の元プロ野球選手。現在は中日ドラゴンズの1軍内野守備走塁コーチ(1塁コーチャー)を務めている。

現役通算533本の犠牲バントは世界最多記録で、バント職人の異名を持つ。読売ジャイアンツ史上屈指の守備力を誇る遊撃手でもあった。ニックネームはしわが多く老け顔だったことと「和製オジー・スミス」に引っ掛けて「ジイ」。あるいは、「人生送りバント」と表現する者もいる。攻守ともに確実性、堅実さの代名詞ともいえる名選手であった。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 高校時代

岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校から岡山県立岡山南高等学校へ入学。岡山南高等学校では投手として活躍し、1981年第63回全国高等学校野球選手権大会1982年第54回選抜高等学校野球大会の2回、甲子園に出場した。1982年の春は主将も務め、二回戦で早稲田実と対戦、敗れはしたものの荒木大輔(元ヤクルト)と互角の投手戦を演じた。その年の夏も甲子園出場を期待されていたが、岡山大会の準決勝で岡山東商に敗れ、最後の夏は甲子園に出場できなかった。この時、岡山東商の4番を打っていたのが、当時2年生の八木裕(元阪神)だった。

[編集] 巨人時代

1982年プロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名され、1983年入団。高校時代はエースで4番打者であり、投手としてのドラフト指名だった。プロ入り直後、野手に転向。当初は2軍暮らしだったが、2軍コーチだった須藤豊の熱心な指導により徐々に才能が開花。1984年に守備力が当時の王貞治監督の目に留まり1軍に初昇格した。1985年から守備要員として一軍に定着し、プロ初犠打は同年6月13日ヤクルトスワローズ12回戦福井県営球場の7回裏、阿井英二郎投手から決めた。

1987年のリーグ優勝には内外野の守備固め要員として貢献した。王監督時代、当時の巨人は引退した河埜和正の後を継ぐ遊撃手の定位置の座を、岡崎郁西武ライオンズから移籍した鴻野淳基の2人が争っていたが、守備力を武器に勝呂博憲も台頭し、競争は激しさを増していた。1989年藤田元司が監督に復帰すると、彼らに隠れ第4の存在であった川相や緒方耕一が台頭する。レギュラーに定着したのは、打撃面で伸び悩み、守備要員としても守備位置が一定せず外野手での出場が6割を占めていたこともあった川相であった。なかなか定着しなかったこの時の巨人の遊撃手候補は、一軍レベルで見ると、遊撃手としてはやや足に難のあった岡崎、打力で川相以上に伸び悩む勝呂、即戦力要員ながらなかなか結果がでず、また守備に不安があった鴻野と他のメンバーに一長一短があったという事情もあった。その中で川相は持ち前の守備能力や確実性のある小技を磨き、絶対的な巨人の2番・ショートの座を勝ち取った。

この頃スイッチヒッターに挑戦するが、結局は右打ちに戻す。1990年和田豊の年間犠打記録を抜き、プロ野球新記録を樹立。1991年には66犠打を記録し、当時の年間犠打新記録を更新する(現在の記録は2001年宮本慎也が記録した67犠打)。1993年1994年はチーム内首位打者になるなど打撃面でも成長を遂げ、攻守に渡ってチームを引っ張り、特に1994年の通算打率は3割2厘という好成績を記録。1990年代を代表する選手の一人にまで成長した。

1994年には、10月1日の対ヤクルト戦で決勝打を放ち、試合後のヒーローインタビューで子供たちの名前(この当時は二男一女の3子)を叫んだことがあった[1]10.8決戦では、9回にバックスクリーンを直撃する打球を放っているが、判定は三塁打になった。長嶋監督が猛抗議するが受け入れられず、結局1994年のホームランは0本だった。

1996年 - 1998年まで巨人の選手会長を務め、名実ともに巨人の顔となった。当時の長嶋茂雄監督が清水隆行を2番に据える攻撃的な野球を標榜したため、7番や8番を打つ機会も増えてきた。1998年には平野謙が樹立した通算451犠打のプロ野球記録を抜き、日本球界歴代1位に躍り出る。1999年二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員等で依然チームに欠かせない存在であった。ショートでの出場機会は大幅に減り、サードでの出場が中心になる。2003年8月20日には、通算512犠打を達成し、エディ・コリンズ選手の大リーグ記録を超え、ギネスブックにも記録された。なお、この犠打を決めた時、川相の右足が実は打席から出ていた、という写真が『巨人軍5000勝の記憶』にも掲載された。

同年、引退を表明。1軍コーチ就任が内定していたが、原辰徳監督の辞任により、混乱の後に2軍コーチに降格を言い渡され、引退を撤回し巨人を退団。98年に自身にヘッドコーチとして理不尽な暴力をふるった堀内恒夫の監督就任も退団の大きな要因と言われている(しかし、自身の著書では否定している)。直後、落合博満新監督率いる中日に入団テストを経て移籍。

中日の球団史上最多通算本塁打記録持つ宇野勝が付けていた背番号7与えられた事から期待の大きさが伺える。(同番号の前任者谷繁元信は、正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22という落合監督の持論により27に変更する)

[編集] 中日時代

2004年は落合監督の「一芸に秀でている選手を使う」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バントや守備要員として存在感を発揮。サヨナラヒットを2本も打つなど、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。移籍後初めて巨人戦に代打出場してバントを決めたことや、札幌ドーム佐藤宏志から本塁打を打ったことで巨人の応援席含め球場全体から歓声が沸き起こったこともあった。同年の日本シリーズ第2戦で9回表から主砲立浪和義に代わる守備固めでサードに入り無死無走者で赤田将吾守護神岩瀬仁紀から放ったゴロを一塁に送球し無難に処理、それが同試合唯一の守備機会ながら球団史上初の「ナゴヤドームでの日本選手権試合初勝利」に貢献。

2005年、出場機会は減少したものの、守備固めやピンチヒッターとして活躍した。

2006年には球界初の「メンタルアドバイザー」に就任。コーチの肩書では会議などに出席する必要があるので、あくまで相談役というポジションに落ち着いた。チームが勝っている試合で8,9回辺りから主にサード(立浪)の守備固め要員として出場することが多かったが、荒木雅博の怪我などで5月には「2番セカンド」としてスタメンで起用されたことも。しかし森野将彦が怪我から復帰しスタメンを獲得、立浪は代打要員となり、セカンド要員としてトレードで奈良原浩を獲得、7月頃には荒木も復帰した事から出場機会が無くなり、オールスター前に登録抹消。その後は1軍に帯同しながら、メンタルアドバイザーとして裏方からリーグ優勝に貢献した。中日スポーツで毎週月曜日に「明日への送りバント」という題名で寄稿もしていた。10月13日に、来季選手契約を結ばない方針と一軍コーチ就任要請を球団から伝えられ現役引退を表明。翌年(実質的には同年オフのキャンプ時)から中日1軍の内野守備走塁コーチに就任することも発表された。

2006年10月15日、ナゴヤドームでのシーズン最終戦対横浜22回戦は川相の引退試合として、2番サードで先発出場。1打席目は安打、2打席目では伝家の宝刀・送りバントを三塁線に決め、観客からは大きな拍手が送られた。7回には1イニングだけ、慣れ親しんだショートの守備にも就いた。この日の1犠打で通算犠打数は「533」となり、自身が持つ世界記録を更新。試合終了後はチームメイトから胴上げされ、引退挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。日本シリーズを花道にしたい」と語った。2006年の日本シリーズでは第5戦に代打として登場。最後の送りバントを決め、有終の美を飾った。

[編集] 引退後

2007年シーズンからは1塁コーチャーボックスに立つ。オープン戦では経験を積む為、3塁コーチャーボックスに立っていることもあった。

[編集] 背番号

  • 60(1983年 - 1988年)
  • 0(1989年 - 1999年)
  • 6(2000年 - 2003年)
  • 7(2004年 - 2006年)
  • 71(2007年 - )

[編集] 年度別打撃成績



















































O
P
S
1984
60 18 11 9 4 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 2 0 1 .111 .273 .111 .384
1985 35 27 23 1 5 4 0 0 9 3 0 0 2 0 1 1 4 0 0 .217 .240 .391 .631
1986 48 37 31 6 6 1 0 0 7 0 0 0 3 0 1 2 3 0 4 .194 .265 .226 .491
1987 58 49 38 8 8 4 0 0 12 0 0 0 5 0 4 2 7 1 1 .211 .318 .316 .634
1988 53 81 71 7 19 1 2 2 30 6 3 0 6 0 3 1 11 1 1 .268 .307 .423 .730
1989 0 98 381 319 40 81 9 5 5 115 28 6 4 32 2 23 5 46 4 3 .254 .312 .361 .673
1990 94 406 309 53 89 19 2 9 139 32 9 5 58 4 32 3 34 4 9 .288 .356 .450 .806
1991 126 562 439 53 110 17 2 2 137 36 8 0 66 2 49 5 56 6 10 .251 .331 .312 .643
1992 98 398 330 42 85 13 1 5 115 23 4 5 42 0 20 6 38 9 9 .258 .312 .348 .660
1993 131 553 462 58 134 23 2 5 176 35 2 10 45 2 43 1 64 9 8 .290 .350 .381 .731
1994 130 567 473 69 143 18 4 0 169 33 3 0 35 2 54 3 51 13 11 .302 .376 .357 .733
1995 108 467 371 51 97 13 0 2 116 19 3 3 47 0 47 2 47 12 6 .261 .348 .313 .661
1996 126 549 440 50 102 14 0 2 122 22 5 1 56 2 48 3 49 7 5 .232 .310 .277 .587
1997 124 507 416 68 120 21 2 6 163 25 2 3 45 2 39 5 40 6 8 .288 .355 .392 .747
1998 93 300 266 27 68 14 1 1 87 16 2 1 14 2 17 1 36 8 5 .256 .301 .327 .628
1999 82 186 149 19 44 1 0 0 45 14 0 2 19 0 17 1 12 3 3 .295 .371 .302 .673
2000 6 54 74 58 8 11 1 0 0 12 4 0 1 6 1 8 1 9 0 1 .190 .294 .207 .501
2001 73 64 52 6 15 3 0 2 24 5 0 0 10 0 2 0 11 0 2 .288 .315 .462 .777
2002 88 132 114 11 25 5 0 1 33 8 0 0 14 0 3 1 25 4 2 .219 .246 .289 .535
2003 72 90 80 5 19 3 1 0 24 3 0 1 9 0 1 0 10 3 3 .238 .247 .300 .547
2004 中日 7 80 34 23 4 6 0 0 1 9 3 0 0 6 0 4 1 4 2 2 .261 .393 .391 .784
2005 69 24 17 1 5 2 0 0 7 6 0 0 7 0 0 0 5 0 2 .294 .294 .412 .706
2006 51 29 22 0 6 0 0 0 6 1 0 0 6 0 0 1 6 0 0 .273 .304 .273 .577
通算成績 1909 5528 4519 591 1199 186 22 43 1558 322 47 36 533 19 418 45 570 92 96 .265 .332 .345 .677

[編集] 主なタイトル

  • 初出場 1984年4月24日大洋戦(横浜) 8回より石渡に代わり遊撃に就く
  • 初安打 1984年6月2日ヤクルト戦(後楽園) 8回鹿取の代打、宮本から単打
  • 初打点 1985年5月6日ヤクルト戦(後楽園) 2回大川から適時二塁打
  • 初本塁打 1988年7月7日中日戦(札幌) 4回近藤から左越ソロ

[編集] 脚注

  1. ^ 1994年10月2日付読売新聞17面14版

[編集] 書籍

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月2日 (水) 09:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【川相昌弘】変更履歴

ご利用上の注意