市営モンロー主義
市営モンロー主義の最新ニュースをまとめて検索!
市営モンロー主義(しえいモンローしゅぎ)とは、一定地域の交通などの各種社会サービスについて、民間資本の参入を認めない市や国などの思想・態度の俗称のことである。
目次 |
[編集] 概要
「市営モンロー主義」と呼ばれた代表的な例としては、主に戦前に大阪市がとった「市内交通を営利企業に任せず、市民の利益が最大となるよう市営にて行う」とした都市計画に関する基本方針と東京市(1943年に東京都となる)がとった「山手線内の交通整備は国(帝都高速度交通営団・日本国有鉄道等)と市で行うため、民間は介入すべきでない」という態度がある。
語源はかつて、アメリカがとった「アメリカは他国には介入せず、また、他国のアメリカへの介入は許さない」というモンロー主義であり、自らの支配地域について市場の独占を図る姿勢をなぞらえて、こう呼ばれる。
その初出については定かではないが[1]、1980年に鉄道ジャーナルの連載記事、1985年に「阪神電気鉄道八十年史」に登場し、1990年代以降川島令三が鉄道雑誌記事や著書などで多用して広く知られるようになった。
[編集] 大阪市の事例
[編集] 戦前期の路面電車網整備
大阪市の市内交通公営主義は大阪市電(路面電車)の開業時に始まる。
大阪市は1903年、同市が整備した築港埋立地の発展促進のために日本で初めて公営で路面電車を開業した。これが好調で事業として有望であることから、続いて市街地への路線の拡張を計画した。この頃、市街地への路面電車の建設にあたりいくつかの民間資本が敷設特許を出願していたが、第2代大阪市長の鶴原定吉が「市街鉄道のような市民生活に必要な交通機関は、利害を標準に査定されるものではなく、私人や営利会社に運営を委ねるべきではない」などと市会で主張したことから、以後も路面電車については公営で建設・運営されることになった[2]。この方針には、当時の大阪は道路・橋梁などの社会資本が未整備で、交通事業を公営としたことにはその収益を財源とする以外に都市計画事業の実施が困難であったため、という背景事情が存在した。実際にも大阪市の場合、路面電車の敷設は江戸時代以来の狭隘かつ煩雑な市街地の区画整理・道路拡幅・鉄橋架設などと同時に並行して、極めて計画的に実施されている[3][4]。
この市営交通事業による市内交通の独占政策は、その後の電鉄ブームなどで計画された郊外電鉄各社による大阪市内中心部への乗り入れ計画に対して最も厳しい形で適用された。大阪市は私鉄各社による市内中心部乗り入れ線の免許・特許申請に対し、都市計画法などを論拠として全て反対の立場を表明し続けたばかりでなく、市電の開業以前の時点で既に各社が保有していた市内中心部への路線免許・特許などについても返納あるいは失効させて排除を図ったのである。この過程では、一旦は市電への私鉄車両の乗り入れを認める姿勢を示した上で、各社が取得済みの市内中心部への免許・特許を返納させ、その後乗り入れを認めない姿勢に転換することで私鉄各社を閉め出す、といったいささか強引な手段を採ること[5]さえ行われた。こうして、1910年代の終わりまでには市内中心部からの計画線を含めた私鉄線の徹底的な排除が図られた。当時の大阪市域もまだまだ発展途上であり現在ほどの通勤需要もなく、更に五私鉄疑獄事件などもあり民鉄への不信感などから、市民からも大阪市による交通網の一元化政策は一定の支持を受けていた。
[編集] 大阪市営地下鉄の建設
その後1920年代に入り、都市計画の日本における泰斗の一人であり、請われて大阪市役所入りし助役を経て第7代市長となった關一の下で地下鉄建設計画が立案された際にも、都市計画の一環として既設市電路線網を補完あるいは代替する形で街路整備と一体となった高速電気軌道整備事業として実施に移された[6]。この際、市域外縁部での郊外電鉄各社線との連絡の容易性については強く意識された[7]ものの、市域中心部への私鉄各社線の乗り入れは排除した形[8]で路線網が構築[9]されており、ここでも市内交通を市営交通が独占する方針は一貫していた[10]。
もっとも、独占を図る一方でこの地下鉄計画では、将来の都市規模の発展を考慮して17m級車両の最大12両[11]での運行を前提とした、当時としては極めて高規格かつ高水準の施設[12]・車両が巨額の費用[13]を投じて準備された。この時建設された各施設は現在に至るまで有効に機能し続けており、同時期に東京で計画され、民間資本の下で最小限の設備投資によって建設された東京地下鉄道線(現在の東京メトロ銀座線)[14]とは対照的な経緯をたどることとなった。
[編集] 私鉄の市内乗り入れ・直通に対する大阪市の対応
その後、大阪市内へ乗り入れようとする私鉄各社の計画に対して、市は以下のような対応を取った。
1920年代に入って開業した、京阪間を連絡する第2の高規格都市間電気鉄道である新京阪鉄道は、立地条件の悪い天神橋をターミナルとする既設線とは別ルートで、市内中心部である梅田へ乗り入れる梅田線を計画し、これに必要となる路線免許申請や用地確保の手配を行った。これに応じて監督官庁である鉄道省が梅田線の路線免許を交付したのに対して、同線の計画[15]について説明を受けていなかった大阪市、特に市議会は都市計画にかかる自治権の侵害であるとして猛反発した。結局、当該免許には都市計画道路などとの干渉を防ぐため、地上線ではなく高架線ないしは地下線として建設すること、との付帯条件が追加されることとなった。これにより建設費用が高騰し、最終的に梅田線建設計画が挫折する一因となり、さらには蒲生から同線への乗り入れを実施することで大阪市内ターミナルの確保を目指していた大阪電気軌道四条畷線の建設計画の頓挫にも大きく影響する結果となった。
戦後では、阪神と近鉄が自社の路線を難波まで延伸して両社の路線を結ぶ計画を立てた際に、これを牽制するかのように並行ルートで大阪市営地下鉄千日前線の建設計画を立て、実際にも建設している[16]。戦前の計画ではこの路線は存在しておらず、市内の東西を横断する路線としては長堀通に1路線(4号線)のみ建設される予定[17]であった。この計画は1948年の路線計画変更で東西方向の輸送力強化を目的として、中央大通を経由する中央線(4号線)と千日前を経由する千日前線(5号線)に再編された[18]。だが、市電創業にかかる大阪港へのアクセス機関を肩代わりするという重要な目的をもって計画され、新設の都市計画道路である中央大通の建設と連動して整備が進められた中央線に対し、特に緊急性もなく既存路面電車網の代替に当たって長堀通から中央大通への4号線移設に伴うサービスエリアの間隙を埋める、という以上の性質を備えていなかった千日前線は、実際には需要や財政面の問題から建設の優先度は低く、万博直前の緊急整備の段階までペンディング状態で長く放置されていた[19]ものであった。
なお、阪神と近鉄の難波乗り入れは当初阪神が野田 - 難波、近鉄が難波 - 上本町を開業させる予定だった。近鉄は当初の計画通り1970年に難波乗り入れを果たしたが、千日前線の建設計画が立てられると阪神は計画を変更、当時伝法線の終点だった千鳥橋から難波を目指す方針に転換した。この延伸区間は1964年に西九条まで、2009年春に近鉄難波まで開業し、阪神なんば線として計画が実現することになる。同時に、千日前線のうち桜川 - 鶴橋間は完全に阪神・近鉄と並行することになる。
さらに、大阪市営地下鉄が集電に直流750V電化の第三軌条方式を広く採用したこと[20]や、戦後も基本的に大正時代の計画を踏襲する形で路線建設を進めたことから、「都心を貫通する路線」や「郊外の既存私鉄路線から都心の地下鉄へ直通運転を行う路線」の計画はほとんど行われなかった。地下鉄と郊外鉄道の直通運転は、地下鉄線の延長という形でその規格に従って新規に建設された北大阪急行電鉄が御堂筋線と、近鉄けいはんな線が中央線と実施しているのを別にすれば、堺筋線が直流1500Vの架線集電を採用して阪急千里線・京都線との間で行っているのみ[21]で、東京と比較するとかなり少なくなっている。
なお、路面電車の輸送力の限界から高規格な地下鉄への移行が求められて1980年に廃止された南海平野線や、南海側から廃止が提案された南海天王寺線(1993年廃止)についても「市営モンロー主義」の影響と言及されることがあるが、これは誤りである[22]。
[編集] 大阪市の交通・財政事情の悪化と方針の変化
市電が1960年代以降のモータリゼーションで道路渋滞によって遅延するようになってからは、市電の収益は悪化し都市計画事業の財源とすることができなくなった。そのため、起債による資金調達を考慮しても、市電を代替する地下鉄の巨額の建設財源を大阪市が独力で確保することは困難となった。この結果市営地下鉄の運賃、特に初乗り運賃は他社線と比較して非常に高額[23]となり、大手私鉄中でも特に閑散線区の多い近鉄と比較して約2倍の輸送密度[24]を持つにもかかわらず、その巨額の建設費用に由来する負債の返済が、財政上大きな負担としてのしかかるようになった。このことへの対応として、建設費用の廉価な新交通システムやミニ地下鉄の研究・実用化も行われたが、路線網の拡張は万博対策として実施された1960年代後半から1970年代初頭にかけての緊急5カ年計画以降、急速に鈍化[25]している。
この間、1955年に運輸大臣の諮問機関として都市交通審議会が設置され大阪地区については大阪部会が特に設けられて審議が行われた。この審議会では3年間に17回に及ぶ会合が行われ、大阪市交通局の地下鉄整備が財政難により遅々として進まない状況下で急速に悪化する大阪市内の交通事情の改善を目的として、私鉄各社による市内中心部への乗り入れ路線の建設が望ましいとする答申が1958年に運輸大臣へ提出された[26]。この国政レベルでの大阪市内の交通政策に対する直接介入の結果、1963年に京阪の淀屋橋駅乗り入れ、続いて1970年には近鉄の近鉄難波駅(現・大阪難波駅)乗り入れが実現した。更に規制緩和が叫ばれるようになった1990年代以降はJR東西線(1997年開業)や阪神なんば線(2009年開業)・京阪中之島線(2008年開業)といった「都心直通路線」や「都心貫通路線」が建設されるようになってきている。営業施策面においても、スルッとKANSAIやPitapaなどに大阪市交通局も積極的に参加するなど、私鉄各社との協調路線に転じている。現在では、鉄道に関しては事実上市営交通一元化政策=「市営モンロー主義」は無くなったと言える。
[編集] 大阪市内のバス事業
バス事業については、1924年に市バスに先行して大阪乗合自動車(青バス)が運行を開始[27]し、これに遅れて1927年より運行が開始された市バス(銀バス)および既設の市電各線との間で極端な競争状態[28]が発生した。しかし、1939年11月に陸上交通事業調整法に基づき大阪市電気局がこれを統合[29]したため、市内のバス事業は阪神国道自動車(現在の阪神電鉄バス)の市内乗り入れ路線を除きほとんど市営バスで一元化された。
戦後、市バス路線が郊外にも延長し、また市域拡張に伴い従来阪急バスや近鉄バスのサービスエリアであった地域[30]、に新たに市バス路線を開設したため、その代償として阪急バスや近鉄バスの梅田乗り入れや京阪バスの天満橋乗り入れと民営各社の乗り入れが認められた。この他、1952年には市内中心部の内本町にバスセンターを設け、民営各社が郊外からの乗入路線を設置した[31]。ただし、1970年代には交通渋滞と地下鉄路線網の発達によりバスセンターへの乗り入れメリットが薄れたため、民営各社は再び都心部の乗り入れを取りやめている。この結果南海電鉄バス(現在の南海バス)は大阪市内の乗り入れから完全撤退[32]。阪神電鉄バスも古くからの梅田乗り入れを止め、野田阪神前まで後退している。
そのため現在、大阪市内に路線を持つ民営バス路線は、市域編入前から路線網を持っていた北部(淀川の流域)の阪急バス(阪北線、加島線など)と東部の近鉄バス(阪奈生駒線のほぼ全区間、警察病院線、赤十字病院線、加美線の約半分の区間、久宝寺線08番の一部区間など)と京阪バスの9A号経路守口市駅 - JR吹田駅間や守口南部線の1部区間など、阪神電鉄バスのうち、廃線となった路面電車である、阪神北大阪線と阪神国道線の代替である北大阪線および大阪ローカル線、住吉区・東住吉区の一部を運行する日本城バス、南港や舞洲、中之島内を運行する北港観光バスのみに限られている。
[編集] 交通一元化のメリット
このように都市交通の発展という観点では様々なネガティブな面が指摘される大阪市の交通一元化政策であるが、その一方で以下のようにこの政策の下であればこそ実現を見た、あるいは成功したプロジェクトがあったことも事実である。
- 1970年の日本万国博覧会開催を前にした路面電車網の全廃とこれを代替する地下鉄網の緊急整備[33]
- 収容力の大きな30系電車の大量生産と万国博輸送に関連する御堂筋線への集中投入による輸送・運用の効率化[34]
- 通常規格の地下鉄では収支の合わない線区に対する新交通システムやミニ地下鉄の実用化
- ミニ地下鉄のための制御・駆動システムの研究開発[35]
下記にあげるような、運賃・乗車制度面でのメリットもある。
- 市内を市営地下鉄のみで移動する場合、地下鉄+他社線を利用する場合と比較して、初乗り運賃の加算がない分運賃、特に定期が安くなる。
- ラッシュ時の混雑緩和策として御堂筋・四つ橋線の並行区間での同一定期券による自由な経路選択を可能としている。
- バスと地下鉄との乗り継ぎ割引制度。
- ゾーンバス制度によるバス同士の乗り継ぎ。
[編集] 東京都
大阪市と同様、東京市→都でもかつては「市内の交通整備は東京市で行う」といった、大阪の市営モンロー主義に類似する政策が採られていた。
2008年現在、1932年以前の旧東京市15区にJR東日本と東京メトロを除く民営の鉄道路線が殆ど存在しないのは、その名残と言える。
しかし、当初より市当局が路面電車網建設を計画的に実施した大阪市とは異なり、東京の路面電車は当初、東京電車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道の民間3社によって建設され、それらが合併して成立した東京鉄道を1911年に市が買収することで、ようやく市営一元化が達成されたものであった。
また地下鉄に関しては、当初は民間資本による東京地下鉄道に建設を任せ、後に東京市自体で路線の建設を行おうとしたが、予算不足でこれまた民営の東京高速鉄道に免許の一部を譲るなど、公営化はなかなか実施できなかった。
更にバスは甲州財閥の一人である堀内良平が創業した東京乗合自動車(青バス)が先行し、市電を脅かす存在となっていた。市は市バス(現在は都営バス)を関東大震災の復興事業として開業しこれに対抗したが、先行する青バスの優位は動かず、市内遊覧バスもまた青バス系のユーランバス(現在のはとバスのルーツ)がほぼ独占的に運行していた。青バスの他に、黄バス(東京環状乗合)が城西地区を、城東乗合が城東地区を運行し、王子電気軌道バスが城北地区を、東横乗合と京王電気軌道のバスが城西南地区を運行していた。市内バス事業はこのような乱立状態にあり、バス事業において東京市はかなり出遅れていた。
こうした市内交通の一元化は、結局は陸上交通事業調整法により、天王州 - 赤羽 - 葛西橋の山手線・荒川放水路に囲まれた一帯の軌道・乗合自動車を東京市が統合することでようやく達成された。だが、それ以外の市域は概ね城東=京成、城北=東武、城西=武蔵野(後の西武)、城南=東急の4グループにまとめられ、地下鉄は新設の帝都高速度交通営団に統合された。こうして全市域の市内交通を東京市が一元的に掌握することは叶わなくなった。
第二次世界大戦後、東京都は営団地下鉄の都への移管を主張した。しかし、運輸省(当時)は戦前の経緯から東京都だけでは資金調達の面で不安があり、新線建設について莫大な資金の投下を要する地下鉄路線網の拡充を行うことは困難と考え、これを阻止した。だが都は公営地下鉄の建設を諦めず、交通営団だけでは加速する都市化に対応した地下鉄整備が困難と主張。結局運輸省はこれを認め、交通営団と都がそれぞれ建設運営を分担することで路線を拡大させることとした。
この方針は現在に至るまで貫かれ、東京の地下鉄運営団体が2つ存在する理由となっている。そして誕生したのが都営地下鉄である。
もっとも、都営地下鉄は単独での運営を前提とせず、ミニ地下鉄である12号線(大江戸線)を除く他の全ての路線が郊外私鉄各社線との相互乗り入れを前提に計画・建設・運営され、都による独占とはほど遠い方法論が採られている。これにより各線区は開業後サービスエリア内の交通状況の改善に大きく資することとなったが、その反面、東京都交通局は1067mm(三田線)、1372mm(新宿線)、1435mm(浅草線・大江戸線)と3種の軌間を採用することを強いられ、建築限界の相違を含めると、自局で建設した4路線全てで規格が全く異なるという、車両調達・運用上非常に不利な状況の甘受を強いられることともなった。
なお、営団地下鉄は2004年(平成16年)4月1日に東京地下鉄株式会社(東京メトロ)として民営化し、東京都は同社の46.6%の株を保有している。
[編集] 脚注
- ^ 1977年刊行の種村直樹の著書『地下鉄物語』(日本交通公社)には「大阪市内交通市有市営のモンロー主義」(P226)という表現がみられるため、これ以前に「市営モンロー主義」に近い表現が存在した可能性は高いと考えられる。
- ^ さらに第二次世界大戦中には市域の外縁部に存在した阪堺電鉄の買収も実施されている。
- ^ 辰巳 博 著、福田静二 編『大阪市電が走った街 今昔』JTB、2000年 p.17
- ^ 『大阪市交通局百年史(本編)』大阪市交通局、2005年 pp.69-71
- ^ 例えば、当初市内中心部の高麗橋を起点とする予定であった京阪電気鉄道(高麗橋-天満橋-五条間特許を1906年8月に取得)に対して、当時大阪市電気局が計画中(1905年計画立案。ただし議会の紛糾で可決は翌1906年の6月と遅れ、特許申請も京阪より後となった)の市電第3期線がこれと競合していた。このため京阪に対し自局計画線と重複する区間の特許返納とその代償としての同区間並びに高麗橋-梅田間への京阪車両の市電乗り入れ許可を提案し、京阪の特許返納と自局線の建設に成功している。しかも、京阪が提案に合意し当該区間の特許を返納した後、乗り入れ実施直前になって京阪側としては実現不能な条件(乗り入れ車両の寸法規制)を追加して乗り入れを断念させている。この方針転換についてはその後の市内運賃均一化との関連が指摘されているが、京阪側が当初の契約条件に従って13m級車両を新製して揃え終わった段階で10m級以上の大型車の乗り入れを認めない、としたこの追加条件そのものについては、明らかに私鉄車両の乗り入れ排除が目的であったと見なされている。
- ^ この経緯から、大阪市営地下鉄は当時の地方鉄道法に基づく「鉄道」ではなく、道路上を走る路面電車と同じ軌道法に基づく「軌道」として、都市計画道路整備事業とセットで実施することを前提とした路線特許が取得されている。
- ^ この点については、大阪市が帝国鉄道協会および土木学会に委託して実施された高速鉄道網調査の答申(『大阪市内外高速鐵道調査會報告書』および『大阪市内外高速鐵道調査會報告書附圖』1924年)やその後の大阪市高速度交通機関協議会での高速鉄道路線選定要件(『大阪市高速度交通機關計畫理由書』1925年12月)でも挙げられていた。
- ^ 私鉄各社線との直通の必要性もまた、『大阪市内外高速鐵道調査會報告書』で指摘されており、市営地下鉄が国鉄と同じ1067mm軌間ではなく南海・大鉄(現在の近鉄南大阪線)以外の関西大手私鉄各社が採用していた1435mm軌間を採用する論拠の一つとなった。だが、この乗り入れの必要性については、大阪市が1925年9月に作成した計画原案である『大阪市高速度交通機關計畫説明書』では全く触れられず、そればかりか続く『大阪市高速度交通機關計畫理由書』では将来的には現在の大阪環状線に相当する環状線を市営地下鉄として建設する必要性を示唆する文言さえ掲げられており、1 - 4号線と呼称された具体的な路線計画の策定段階では完全に無視される結果となった。
- ^ 『大阪市高速度交通機關計畫理由書』では市営地下鉄の基幹路線として市域の南北を縦貫する路線2本と東西を横断する路線1本を建設すればそれで事足り、大正40年(1951年)まで混雑が問題となることはない、と予測しており、更に「計畫ノ大要」では『全市ニ亘ル高速度交通ノ枢軸ヲ定メントスルモノナリ』、と完全に市営地下鉄のみで市内高速度交通機関網を整備する方針を宣言している。
- ^ 『「大阪市高速鉄道設計要覧」に寄せて』竹田辰夫 鉄道史料 74号、鉄道史資料保存会、1994年 pp.20-34
- ^ 計画当初。1号線の当初開業区間では計画通り12両分の施設が用意されたが、その後の建設区間では過大な建設費が問題とされ、最大8両に短縮された。ただし、現在の御堂筋線では18m級車両の10両編成で列車が運行されており、当初の輸送需要予測や施設計画が当初指摘されたように過大ではなく、むしろ極めて妥当なものであったことが証明されている。
- ^ その建設にあたっては、起債条件として内務省および大阪府より失業者の雇用が要求されたため、機械化を避けて極力失業者による手作業で工事が行われた。つまり、アメリカのニューディール政策と同様、この地下鉄建設工事には、失業者救済事業としての一面が備わっていた。
- ^ 先に記した起債や、沿線からの受益者負担原則に基づいた課税(これにより総予算の約1/4が賄われた)などで調達された。
- ^ 16m級車両の最大4両(当初)での運行を前提に計画され、様々な拡張工事を経た現在も最大6両編成に留まり、混雑救済のために20m級車両による10両編成での運行を前提とする半蔵門線を建設することを強いられた。なお、現在の1号線=御堂筋線は混雑率緩和のために並行する谷町・四つ橋の両線により輸送力が補完される状況にあるが、御堂筋線そのものは御堂筋の車線幅の東側約半分を用いて意図的に配置を片寄せて建設されており、大正時代の計画段階で既に「急行線」として残る半分の用地を用いて複々線化し、後日輸送力の倍増が実施可能となるよう計画されていた。
- ^ 一部が地下鉄2号線(現在の谷町線。当時は未開業)と競合するものであった
- ^ このため難波駅から鶴橋駅までの区間は壁一枚で近鉄難波線と並行している。
- ^ 現在の長堀鶴見緑地線はこの大正末の原案の再生とみることが出来る。
- ^ これに対し、近鉄難波線は都市交通審議会の答申を受けて、名古屋線改軌計画が進み名阪間直通の目処が立った1959年に、乗り入れ先となる阪神西大阪線(後の阪神なんば線)と前後して路線免許を取得している。
- ^ なお、千日前線は開業以来ミニ地下鉄である長堀鶴見緑地線と同程度の経常収支率で推移しており、路線運行によって得られる収入は路線長が約2倍の御堂筋線と比較して1/10にも満たない。しかも、既設線の下を交差するなど難工事が連続したことから巨額の建設費の出費を強いられており、市営地下鉄事業全体でみた場合、同線は交通局財政に非常に大きな負担となり続けている。
- ^ 第三軌条の無通電区間の間隔にかかる制約から運行される車両の車体長と集電靴を取り付けられる電動車の台車中心間距離について制約が生じ、この制約と使用電圧が障害となる郊外電鉄各社車両の地下鉄線直通乗り入れは事実上不可能となった。また、市営地下鉄の第三軌条各線の車両定規(車両限界)は、車体長は17m級と短いが車体幅が当時の関西私鉄で最大の新京阪鉄道乙号車両定規とほぼ同等の最大2,890mmで、トンネル断面の都合上最大高さを抑えて屋根を極力扁平とし、折り畳んだパンタグラフのための空間の分だけ中央部が飛び出した、他に例のない特殊な断面である。この特殊な車両定規を採用する大阪市営地下鉄の各施設は、仮に私鉄各社から小断面車体を備えた車両が乗り入れた場合、乗降に当たって問題となった可能性が高い。なお、新京阪のP-6形は車体幅9フィート2インチ≒2.79mとして設計されている。
- ^ しかも堺筋線の場合も当初両端で接続する南海と阪急の2社から直通乗り入れ運転の要望があったものを、両社の軌間と電圧の相違などといった技術的な制約もあって、当時の大阪陸運局長の裁定を経て、阪急一社に絞って乗り入れ実施としている。
- ^ 森口誠之『鉄道未成線を歩く No.4大阪市交通局編』
- ^ 現在の水準では運賃が1人1キロ当たり概ね大手私鉄各社の平均値の約2倍に設定されている。
- ^ これには1日の平均輸送人員が120万人を超える御堂筋線が大きく寄与しており、それ以外は第2位の谷町線でさえ1日の平均輸送人員が50万人規模で輸送密度も御堂筋線の1/2に満たない。
- ^ 営業キロを基準に比較した場合、1961年から1970年にかけての10年間には47.5kmの路線が市内中心部を主体に整備されているのに対し、1971年から2000年にかけての30年間には、ニュートラムやミニ地下鉄である長堀鶴見緑地線を合わせて58kmの路線が市域外縁の郊外区間を主体に整備されており、1960年代の地下鉄整備状況がいかに急ピッチかつ緊急性の高いものであったかを物語っている。
- ^ これらの乗り入れ線については戦後、1950年頃から悪化する輸送事情を睨んで京阪をはじめとする各社が免許あるいは特許の申請を繰り返すようになっていた。
- ^ これは大阪府が市の意見を聴取せずに認可したものであった。
- ^ 市バスは1931年9月には青バスに対抗して特別割引回数券を発行するなどの施策を講じた。もっともこの影響で1931年度以降、市電はしばらく収支が赤字に転落することとなった。
- ^ 完全統合は翌1940年6月1日に実施。
- ^ 豊中駅や住道駅など。
- ^ もっとも、この際にもバス会社各社が当初要望した、利便性の高い本町4丁目へのバスセンター設置とこれに伴う御堂筋乗り入れを市は拒否し、代替案として内本町へのバスセンター設置を提示している。
- ^ ただし2007年4月より、大阪市営バス井高野営業所の管理受託をしている。
- ^ 通常、地下鉄建設では地上を走る路面電車やバスの路線統廃合などが問題となり、特に複数の事業者が関係する場合、その折衝に長期間を要することになる。この点で、市営一元化政策を採っていた大阪市の場合は路線統廃合で発生する乗務員の配置転換の問題を除けばそういった利害調整の必要性がほぼ皆無であり、計画即着工とすることで短期間での路線網整備が実現した。
- ^ 未曾有の乗客数となった万国博観客輸送は、特に大きな問題が発生することもないまま会期終了の日を迎えたが、この成功に対する30系の貢献は非常に大きなものであった。
- ^ 前者は日本におけるVVVF制御による三相交流誘導電動機を採用した車両開発の促進に大きな貢献をなし、後者も鉄車輪式リニアモーター駆動の実用化に大きく貢献した。なお、大阪市によるVVVF制御器の開発経緯については大阪市交通局20系電車の項を参照されたい。
[編集] 参考文献
- 森口誠之『鉄道未成線を歩く No.4大阪市交通局編』とれいん工房、2007年。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年9月13日 (日) 08:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【市営モンロー主義】変更履歴

