市川松蔦 (2代目)

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二代目 市川 松蔦(にだいめ いちかわ しょうちょう、1886年(明治19年)9月23日 - 1940年(昭和15年)8月19日)は歌舞伎役者。本名、鈴木鉄弥。屋号は若松屋。

東京新宿の生まれ。初代市川左團次門人。1896年(明治29年)9月東京歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』で市川左喜松を名乗り初舞台。師の死後は子息の2代目市川左團次一座に加わり、若女形として腕を上げ、1906年(明治39年)9月明治座初代左團次追善興行『世響太鼓功』のお静実は梅が枝・巴御前の二役を勤め市川筵若と改名。1911年(明治44年)正月明治座で2代目市川松蔦を襲名する。1913年(大正2年)には2代目左團次の妹高橋幸子と結婚。一座の女形として活躍した。

従来の女形と違い、清楚な感じのする近代的な芸風で、義兄の新歌舞伎になくてはならない存在であった。時代物は不得手であったが、新歌舞伎の『鳥部山心中』のお染・『今様薩摩歌』のおまん・『番町皿屋敷』のお菊・『尾上伊太八』のおさよ・『江戸姿両国八景』のお八重などの役を得意とし、左團次の女房役として大正期の歌舞伎界をリードした。また、翻訳物では『ベニスの商人』のポーシャ・『オセロ』のデスデモーナ、復活狂言では『鳴神』の絶間姫、南北物では『東海道四谷怪談』のお袖、黙阿弥物では『八幡祭小望月賑』のお美代などに名演技を示し、次代の手本となった。

松蔦の人気の凄さは、大正期に左團次による新作が初演された際、学生たちが良い女のたとえとして「松蔦のような女」と言う表現を用いたことでも分かる。松蔦の活躍した時代は、大正デモクラシーの新しい動きが起こった頃で、平塚らいてう市川房枝らの青鞜社運動に見られるように、前時代的な束縛からの解放を目指す女性が台頭していた。そんな時代も松蔦の芸の追い風となり、「その冷たさの背後にそうした女性の自我の目覚めの黎明期の高揚された情熱的なムードがあって、役に芯のあるふくらみを持たせているのが忘れられない。」(加賀山直三著『新歌舞伎の筋道』より)と評されてあるように、「新しい女性」を新歌舞伎の女形の中に創造した稀有の存在であった。

2代目左團次の死後後を追うように没したが、まさに2代目に殉じたとも言える。

最終更新 2008年3月21日 (金) 12:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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