市川雷蔵 (8代目)

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はちだいめ いちかわ らいぞう
八代目 市川 雷蔵
市川雷蔵『次男坊判官』(1955年、大映)
市川雷蔵
『次男坊判官』(1955年、大映)
本名 亀崎 章雄
→竹内 嘉男
→太田 吉哉
生年月日 1931年8月29日
没年月日 1969年7月17日(満37歳没)
出生地 日本京都府京都市中京区
民族 日本人
職業 俳優歌舞伎役者
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1944年 - 1969年
配偶者 永田雅子

八代目 市川 雷蔵(はちだいめ いちかわ らいぞう、1931年8月29日 - 1969年7月17日)は日本歌舞伎役者映画俳優。戦後昭和の時代劇黄金時代に初代中村錦之助とともに日本を代表する若手時代劇スターとして活躍し、勝新太郎とともに大映の二枚看板と呼ばれたが37歳の若さで没した。

目次

[編集] 来歴

[編集] 誕生

1931年8月29日京都府京都市中京区西木屋町神屋町で誕生。出生時の名前は亀崎 章雄(かめざき あきお)。生後6か月の時に歌舞伎役者市川九團次の養子となり竹内 嘉男(たけうち よしお)と改名し、大阪へ移った。田山力哉によると雷蔵が養子に出された経緯は以下のとおりである。父親は京都の商社員であったが母親の妊娠中に大日本帝国陸軍の幹部候補生として奈良に移った。母親は夫の生家に留まったが夫の親族のいじめに遭い、奈良にいる夫に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて実家へ戻り、雷蔵を出産した[1][2]。母親が雷蔵を出産した時すでに両親の仲は決裂しており、母親は一人で雷蔵を育てるつもりであったが、間もなく父親の義兄である市川九團次が雷蔵を養子として引き取り歌舞伎役者として育てると申し出た。母親ははじめこの申し出を拒絶したが最終的に同意し、雷蔵は九團次の養子となった[3][4]。なお、雷蔵自身が九團次の実子でないことを知ったのは16歳の時である[5]

[編集] 歌舞伎役者となる

九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせず[6]、雷蔵自身も歌舞伎役者ではなく大日本帝国海軍士官や医師になることを志した。しかし近視であったため海軍士官になることは諦めざるを得ず、やがて医師になることも諦め、中学校をやめ歌舞伎役者となる道を選んだ[† 1][7][8]。芸名は市川莚蔵に決まり、1946年11月に大阪歌舞伎座で催された東西合同大歌舞伎で初舞台を踏んだ(役は『中山七里』の娘おはな)[9]。九團次はもとは市議会議員の息子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に入門した人物であった[10]。家柄の裏付けのない九團次は関西歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。

[編集] 三代目市川壽海の養子となる

演出家武智鉄二(当時、雷蔵ら若手歌舞伎役者を起用して「武智歌舞伎」と呼ばれる歌舞伎をプロデュースしていた)は雷蔵の役者としての資質を高く評価していたが、九團次の子のままでは門閥が重視される歌舞伎界において日の目を見ずに埋もれてしまうと案じていた。武智は中村雀右衛門の名跡を継がせようと考えたが、雷蔵が名門の出でないことを嫌った三代目中村雀右衛門の未亡人に拒絶された[11][12]。その後武智は子供がいなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを察知し、関係者に働きかけて養子縁組を取りまとめた[13]。壽海は雷蔵に市川新蔵の名跡を継がせようとしたが市川家の総代であった2代目市川猿之助は「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と拒絶し、交渉の結果市川雷蔵の名跡を継ぐことで決着した[14]。養子縁組は1951年4月に成立し本名も太田 吉哉(おおた よしや)に改名、同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた[15][16]。なお池広一夫によると、雷蔵の実父は三代目市川壽海ではないかという噂があったという[17]

[編集] 映画俳優に転身

壽海の養子となった雷蔵であったが、若いうちから大役を与えないという三代目市川壽海の方針もあってさしてよい役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた。そんな中、雷蔵は1954年大映所属の映画俳優に転身した。動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べている[18]が、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し[† 2]、歌舞伎界と縁を切ることを決意、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身したという[19]

歌舞伎界では出自が出世の妨げとなっていたが、映画界においては市川壽海の子である雷蔵はエリートとして扱われた。さらに大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、『花の白虎隊』、『潮来出島美男剣法』、『次男坊鴉』と、立て続けに主役に抜擢した[20]。雷蔵は1955年に出演した『新・平家物語』の平清盛役でスターとして注目を集めるようになり[† 3]、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった[21]

[編集] トップスターとなる

1958年市川崑は『炎上』(原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川曰く、はじめは川口浩を起用しようとしたが大映社長の永田雅一に反対され、直感的に雷蔵を指名した[22]。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、それまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視する向きがあったが、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ[23]雷蔵はこの役を好演した。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した[24]

1963年に始まった『眠狂四郎』シリーズは雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。田中徳三によると雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎 殺法帖』について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったと認めている[25]ものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した[26]。シリーズの作品数は12に及び、雷蔵が主演した作品の中で最も多い。

[編集]

1968年6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に腸からの出血に見舞われ、入院した。検査の結果直腸癌[† 4]であることが判明したが、本人には知らされなかった。退院後『眠狂四郎 悪女狩り』『博徒一代 血祭り不動』の撮影を行ったが体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた。その後再び入院。直腸癌が進行した雷蔵の容貌はやつれ、見舞いに訪れた子供が怯えるほどであった。この時雷蔵は自らの死を悟り、それ以来妻と病院関係者以外の病室への立ち入りを拒むようになった[27]。雷蔵が死去したのはその1か月後のことである。末期の言葉は、「病み衰えた顔を誰にも見せたくない」だったという。事実、死の間際、雷蔵は混濁した意識の中で死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したという[28]。死後、雷蔵の顔には白布が二重に巻かれ、火葬されるまで解かれることはなかった[29]

最後の出演作品となったのは『博徒一代 血祭り不動』で、東映やくざ映画を模倣した作品であった。雷蔵は「鶴田浩二の二番煎じをやらすんかい」と出演を渋ったが、大映企画部長の土田正義が「次は雷蔵がやりたい作品に出演させる」と説得し出演が決まった経緯があった。後年、土田はやりたくないと言っていた映画が最後の出演作になったことについて後悔の念を述べている[30]。雷蔵の死から2年後の1971年、大映は倒産した。星川清司は雷蔵の死は大映の倒産を象徴する出来事であったと述べている[31]

[編集] 死後

雷蔵は死後も人気を保ち続け、1974年にファンクラブ「朗雷会」が発足し、活動を続けている。また、京都では毎年夏に映画イベント「市川雷蔵映画祭」が開催されている。2009年10月から2010年1月にかけ、出演作100作を上映する『没後40年特別企画 大雷蔵祭』が開催される予定である[32]

[編集] 年表

  • 1931年8月29日 京都で誕生。
  • 1932年 市川九團次の養子となる
  • 1934年 大阪へ転居。
  • 1944年 大阪府立天王寺中学校に入学。
  • 1946年 大阪府立天王寺中学校を中退。
  • 1946年11月 歌舞伎役者市川莚蔵として初舞台を踏む。
  • 1951年4月 三代目市川壽海の養子となる
  • 1954年8月 映画俳優に転身し、『花の白虎隊』でデビュー。
  • 1959年 『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン主演男優賞、NHK映画最優秀主演男優賞、『シネマ・ヌオボ』最優秀男優賞を受賞。
  • 1962年 大映社長・永田雅一の養女・遠田恭子(後に永田雅子に改名)と結婚。
  • 1964年1月 映画俳優転身後唯一の歌舞伎公演。
  • 1968年6月 『関の弥太っぺ』出演中に激しい下血。東京・順天堂病院に入院、手術。翌月退院。
  • 1969年1月 『千羽鶴』の衣装合わせ後、撮影入り。準備中に倒れる。
  • 1969年2月 東京・朝日生命成人病研究所に入院。
  • 1969年7月10日 病状悪化。呼吸困難に陥ちる。
  • 1969年7月17日 午前8時20分、肝臓ガンのため死去。享年37。

[編集] エピソード

[編集] 演技

『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している[33]。田中徳三は雷蔵が義母(三代目市川壽海の妻)の死について「母と名のつく人がなくなったのは、これで三人目や」と語った逸話を引き合いに、雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している[34]。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している[35]。なお、辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった[36]

『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について、勝新太郎は「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは。」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた。」とし、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ。」と評している[37]。池広一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ歩いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している[38]

鈴木晰成(元大映京都撮影所所長)は、雷蔵と同じように歌舞伎役者から俳優に転身して失敗した二代目中村扇雀七代目大谷友右衛門を引き合いに出して、雷蔵は子役時代を経験せず歌舞伎に染まらなかったことが映画で成功した大きな要因であったと分析している[39]

[編集] 容貌

雷蔵には普段は地味で目立たない容貌をしているが、撮影時にメークをすると一変するという特徴があった。多くの映画関係者がこの特徴に言及している。

  • 市川崑は、雷蔵の本質は「硬質かつ素朴」で、通常のスターが特定のキャラクターを通すのに対し、持前の素朴さが「メーキャップでどうにでも変わる」ところに特徴があったと評している[40]
  • 井上昭は、メークを施すと普段の姿とはまったく違って美しく見えたと述べている[41]。また、「『え、これが!?』というぐらい、メークでパッと変わる」とも述べている[42]
  • 白坂依志夫は、普段は商社マンのようだが「スクリーンに登場すると、驚くべき変貌を遂げ、明るさのなかに、虚無と一抹の郷愁をたたえた雄々しく、美しい青年スタア」に変貌を遂げると評している[43]
  • 田中徳三は、「手応えのない温和さと、清潔な雰囲気を持ったこの人は、仕事になると凛然と肩を上げて、着実で重厚な、そして絢爛たる演技者に変貌した。これは素顔を知っている私には、目をみひらくような驚きであった。」と評している[44]

[編集] 身体

雷蔵は足腰が弱いことで有名で、立ち回りの時にふらつく癖があり[45][46]、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった[47][48]。雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行った[49]三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を示していたが、ある時期を境に肉体的欠陥を甘受した上でそれを乗り越えようとする態度をとるようになったという[50]

また、雷蔵は生まれつき胃腸が弱かった[51]1961年、雷蔵は『沓掛時次郎』の撮影後に肛門からの出血に見舞われ、病院で精密検査を受けた結果直腸に傷があるという診断を受けた[52]。1964年1月に日生劇場で『勧進帳』に出演した際には武智鉄二に対し、下痢に悩まされていると告白している[53]

[編集] カツライス

雷蔵は当初から主役を演じる役者として扱われ、短期間で大映若手男優のトップに立った。同期入社の勝新太郎もいい役を与えられたが人気は出なかった。しかし1960年代に入り、勝主演の『悪名』シリーズ、『座頭市』シリーズがヒットし、興行収入や話題において勝は雷蔵を凌ぐほどの活躍を見せるようになった。大映の二枚看板「カツライス」(2人の名前を掛け合わせてこう呼ばれた)として活躍した2人は比較されることになるが、関係者によると仲は決して悪くはなかったという[54]。また、勝の妻である中村玉緒とは玉緒が幼少時から親交があり、没後40年経った現在では数少なくなった、直の雷蔵を知る一人である。

[編集] プロデューサーとしての雷蔵

池広一夫によると、雷蔵はある時、監督として映画制作に携わることを希望するようになった。池広は雷蔵に対し監督ではなくプロデューサーとして題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした。1968年、雷蔵は劇団「鏑矢」を設立し、プロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後に病に倒れた[55]

[編集] 歌舞伎への復帰

雷蔵が映画俳優として活躍するようになると歌舞伎への復帰を望む声が高まったがなかなか実現せず、俳優転身後に演じた歌舞伎は1964年1月に日生劇場こけら落しとして催された『勧進帳』(武智鉄二演出)のみである。雷蔵はこの時「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ。若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っていた[56]

[編集] 姓名判断

雷蔵は姓名判断を信じており、三代目市川壽海の養子の養子となった際は自らの判断で名を改めている。鈴木晰也によると大映の関係者の中にも雷蔵の勧めで改名した者が2、30人はいたという[57]。妻の永田雅子も、もとは遠田恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している[58]。なお妻は(雷蔵の本姓が太田なので)太田雅子として生き、没後40年を経て回想記『夫・市川雷蔵へ四十年目の恋文』を、<文藝春秋>2009年5月号に掲載した。

[編集] 人物像

八尋不二は雷蔵の人柄について、「誰に対しても、おごらず、たかぶらず、常に礼儀正しかった」と評しており、その性格が芸風にも反映されていたとしている。八尋は、「数ある時代劇の俳優の中にも、もう彼のように、折り目の正しい、いい意味での、本当の武士らしい武士になりきれるものは一人もいない」と述べている[59]

雷蔵は台本が完成するまでは作品について色々と意見を言う性格で、「ゴテ雷」と呼ばれた。ただし一度納得すると不平や愚痴を言うことはなく、撮影に入ってから意見を言うこともなかった[60][61][62]

[編集] 出演作品

雷蔵は1954年から1969年にかけ、154本[† 5]の作品に出演した。

1954年
歌ごよみお夏清十郎(1954年)
  • 花の白虎隊
  • 銭形平次捕物控幽霊大名
  • 千姫
  • 歌ごよみお夏清十郎
  • 潮来出島美男剣法


1955年


1956年
  • 銭形平次捕物控人肌蜘蛛
  • 弥次喜多道中
  • 月形半平太
  • 続・花頭巾
  • あばれ鳶
  • 編笠権八


1957年
  • 大阪物語
  • 朱雀門
  • 源氏物語浮舟
  • 二十九人の喧嘩状
  • 弥太郎笠


1958年
  • 月姫系図
  • 遊侠五人男
  • 花太郎呪文
  • 忠臣蔵
  • 旅は気まぐれ風まかせ
  • 命を賭ける男
  • 七番目の密使
  • 女狐風呂
  • 人肌孔雀
  • 炎上
  • 日蓮と蒙古大襲来
  • 濡れ髪剣法
  • 伊賀の水月
  • 弁天小僧


1959年
  • 人肌牡丹
  • 遊太郎巷談
  • 蛇姫様
  • 若き日の信長
  • お譲吉三
  • 山田長政王者の剣
  • 千羽鶴秘帳
  • 次郎長富士
  • ジャン有馬の襲撃
  • 濡れ髪三度笠
  • かげろう絵図
  • 薄桜記
  • 浮かれ三度笠
  • 初春狸御殿


1960年
  • 二人の武蔵
  • 濡れ髪喧嘩旅
  • ぼんち
  • 大江山酒天童子
  • 歌行燈
  • 続・次郎長富士
  • 切られ与三郎
  • 安珍と清姫
  • 大菩薩峠
  • 忠直卿行状記
  • 大菩薩峠・龍神の巻


1961年
  • 水戸黄門海を渡る
  • 鯉名の銀平
  • 新源氏物語
  • 釈迦
  • かげろう侍
  • 花の兄弟


1962年
  • 長脇差忠臣蔵
  • 剣に賭ける
  • 殺陣師段平
  • 忍びの者
  • 陽気な殿様


1963年
  • 新撰組始末記
  • 雪之丞変化
  • 秦・始皇帝
  • 影を斬る
  • 第三の影武者
  • 手討


1964年


1965年
  • 若親分出獄
  • 新鞍馬天狗
  • 剣鬼
  • 新鞍馬天狗 五條坂の決闘


1966年
  • 大殺陣雄呂血
  • 若親分あばれ飛車
  • 陸軍中野学校雲一号指令
  • 眠狂四郎無頼剣
  • 新書・忍びの者


1967年
  • 若親分兇状旅
  • 華岡青洲の妻
  • ある殺し屋の鍵
  • 若親分千両肌


1968年


1969年


[編集] 受賞歴

  • 1959年1月『炎上』でキネマ旬報主演男優賞
  • 1959年2月『炎上』『弁天小僧』でブルーリボン主演男優賞、NHK映画最優秀主演男優賞
  • 1959年9月『炎上』の演技により、イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』で最優秀男優賞
  • 1964年11月『剣』で京都市民映画祭主演男優賞
  • 1967年2月『華岡青洲の妻』でNHK映画最優秀男優賞
  • 1967年2月『華岡青洲の妻』でキネマ旬報主演男優賞
  • 1968年11月『華岡青洲の妻』で京都市民映画祭主演男優賞
  • 1969年11月京都市民映画祭マキノ省三賞

[編集] 関連書籍

  • 市川雷蔵 『雷蔵、雷蔵を語る』 飛鳥新社、1995年 朝日文庫、2003年
  • 村松友視 『雷蔵の色』 河出書房新社、2009年7月
  • 村松友視 『雷蔵好み』 集英社、2002年、 集英社文庫、2006年
  • 『市川雷蔵』 石川よし子(編)、三一書房 1995年
  • 『わたしの雷蔵』 石川よし子(編)、国書刊行会 2008年
  • 『市川雷蔵出演映画作品ポスター集』 粟田宗良(編)、ワイズ出版、1999年
  • 『侍…市川雷蔵その人と芸』 ノーベル書房(編)、ノーベル書房、1991年
  • 『市川雷蔵とその時代』 室岡まさる(インタビュー・構成)、徳間書店、1993年
  • 『完本市川雷蔵』 山根貞男(編)、アサヒグラフ別冊、1994年(ワイズ出版で再刊、1999年)
  • 『孤愁 市川雷蔵写真集』 マガジンハウス、1991年
  • 『甦る!市川雷蔵 限定秘蔵版』 近代映画社、1992年
  • 『市川雷蔵の映画と時代』 サンデー毎日別冊、毎日新聞社、1990年
  • 『市川雷蔵 RAIZO 秘蔵傑作スチール・スナップ』 ビクターブックス、1992年
  • 『市川雷蔵 銀幕の貴公子よ永遠に』 朗雷会編<シネアルバム>芳賀書店、1983年
  • 『RAIZO「眠狂四郎」の世界』 <歴史読本1994年11月特別増刊号>、新人物往来社、市川雷蔵没後25年記念出版

[編集] 脚注

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[編集] 注釈

  1. ^ 雷蔵自身は、中学をやめて家で過ごすうちになんとなく芸能界に興味を持ち、なんとなく歌舞伎役者になったと述べている。
  2. ^ 武智鉄二は、『高野聖』での配役に憤った雷蔵が武智に対し、「こんなことでは、永久に、脇役者にされてしまいます」と語ったことを明かしている。(侍…市川雷蔵その人と芸、196頁。)
  3. ^ 田中徳三は当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている。(市川雷蔵とその時代、102頁。)
  4. ^ ちなみに雷蔵の死後、新聞は死因を肝臓癌と報道した。(村松2006、245-246頁。)
  5. ^ 『市川雷蔵とその時代』(徳間書店)による。他に新人監督撮影作品への賛助出演が3本、映画会社のプロモーションフィルム的な作品への出演が1本ある。

[編集] 出典

  1. ^ 田山1988、14-15頁。
  2. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、265頁。
  3. ^ 田山1988、15-17頁。
  4. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、265頁。
  5. ^ 市川1995、52-53頁。
  6. ^ 市川1995、16頁。
  7. ^ 田山1988、18頁。
  8. ^ 市川1995、16-18頁。
  9. ^ 田山1988、18-19頁。
  10. ^ 田山1988、17頁。
  11. ^ 田山1988、21-22頁。
  12. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、195頁。
  13. ^ 田山1988、22-23頁。
  14. ^ 田山1988、27頁。
  15. ^ 田山1988、27-28頁。
  16. ^ 市川1995、297-298頁。
  17. ^ 市川雷蔵とその時代、208頁。
  18. ^ 市川1995、20-21頁。
  19. ^ 田山1988、28-30頁。
  20. ^ 田山1988、34-35頁。
  21. ^ 田山1988、47頁。
  22. ^ 市川雷蔵とその時代、11-12頁。
  23. ^ 市川1995、32頁。
  24. ^ 田山1988、54-57頁。
  25. ^ 市川1995、218-220頁。
  26. ^ 市川雷蔵とその時代、113-116頁。
  27. ^ 田山1988、86-88頁。
  28. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、257頁。
  29. ^ 田山1988、6-7頁。
  30. ^ 市川雷蔵とその時代、210頁。
  31. ^ 市川雷蔵とその時代、122頁。
  32. ^ ORICON STYLEのニュース
  33. ^ 市川雷蔵とその時代、17-18頁。
  34. ^ 市川雷蔵とその時代、107頁。
  35. ^ 市川雷蔵とその時代、206-208頁。
  36. ^ 田山1988、57頁。
  37. ^ 市川雷蔵とその時代、256頁。
  38. ^ 田山1988、72-73頁。
  39. ^ 市川雷蔵とその時代、390頁。
  40. ^ 市川雷蔵とその時代、12-13・48-50頁。
  41. ^ 市川雷蔵とその時代、256頁。
  42. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、287頁。
  43. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、258頁。
  44. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、287頁。
  45. ^ 田山1988、34頁。
  46. ^ 市川雷蔵とその時代、254・270頁。
  47. ^ 市川雷蔵とその時代、254頁。
  48. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、282-283頁。
  49. ^ 市川雷蔵とその時代、210頁。
  50. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、282-283頁。
  51. ^ 田山1988、58頁。
  52. ^ 田山1988、58頁。
  53. ^ 田山1988、79頁。
  54. ^ 村松2006、94・100-101・134-135頁。
  55. ^ わたしの雷蔵、38-39頁。
  56. ^ 田山1988、76-77頁。
  57. ^ 村松2006、234-236頁。
  58. ^ 田山1988、74頁。
  59. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、245頁。
  60. ^ 田山1988、36頁。
  61. ^ 市川雷蔵とその時代、104頁。
  62. ^ 侍…市川雷蔵その人と芸、243-244頁。

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月14日 (土) 00:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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