常盤御前
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常盤御前(ときわごぜん、保延4年(1138年) - 没年不詳)は平安時代末期の女性で、源義朝の愛妾。阿野全成、義円、源義経(今若、乙若、牛若)の母。字は常葉とも。
[編集] 生涯
近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女で、『平治物語』によれば雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。
後に源義朝の妾(側室)となり、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が平清盛と戦って殺され、23歳で未亡人となる。子供たちをつれて大和国の山中を逃亡するが、母が捕らえられたことを知り清盛の元に出頭して母と子供たちの助命を乞う。常盤の美しさに心を動かされた清盛は今若、乙若、牛若を助命する。清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだ(常盤御前が清盛の妾になった話は軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによる。史実としては確認されていない、後述)。 のちに一条長成に嫁し、一条能成や女子を産む。
義経が異母兄である頼朝と対立し、都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。同月13日には『吾妻鏡』に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。
その後の生死については、はっきりした事は不明。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、岐阜県関ヶ原町・群馬県前橋市・鹿児島県郡山町(現鹿児島市)・埼玉県飯能市には常盤の墓と言われるものがある。
[編集] 清盛による子供たちの助命について
『尊卑分脈』の系図には、清盛の八女に常盤の娘として「廊御方」が記されているが、軍記物を読んだ『尊卑分脈』編者が廊御方という存在を作り出したとの説もある。
常盤が清盛と男女の関係になることによって子供達の助命がかなったということが、一般的に知られている話である。 しかし、このことに対しては次のような理由から史実とは受け止めがたい。
室町期に成立した『義経記』においては、常盤が清盛の妾になることを条件に子供達が助命されることとなったとある。しかし鎌倉時代に成立した『平治物語』諸本においては、常盤と清盛が男女の関係となり一女をもうけたという内容は記されているが、常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されてない。『平治物語』において常盤と清盛が男女関係になったのは子供達の助命決定後の事となっている。
また、平治の乱において戦闘にまで参加している義朝の嫡男・頼朝の助命が決定していたということ、最近の研究の結果平治の乱に対する評価が変化して、この乱が源氏と平家の戦いという側面ではとらえられなくなっていること、清盛に対して義朝の勢力は都における軍事動員力や官位経済力という面においてはるかに遅れをとっていたという事実などから、常盤と清盛に男女の関係があったとしても、常盤の三人の子供の助命に大きく影響したとは考えがたい。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年9月19日 (土) 01:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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