平和相互銀行

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平和相互銀行のデータ
(特記事項が無い限り1986年9月30日のもの)
解散時の社長 田代一正(たしろ かずまさ)
国内店舗数 104
(出張所含む)
海外店舗数 0
設立日 1949年6月1日(日本殖産株式会社)
所在地
東京都港区新橋5-1-2

平和相互銀行(へいわそうごぎんこう)は、かつて存在した相互銀行1986年10月1日住友銀行に吸収合併され消滅した。

目次

[編集] 創業と乱脈経営

  • 平和相互銀行は、戦前東北林業という名の殖産会社を終戦直後の屑鉄売買で財を成した小宮山英蔵が買収、社名を1949年に日本殖産株式会社と改め、その後平和貯蓄殖産無尽と変更し、看做無尽の日掛金融に業容を転換した。1951年相互銀行法(法律第199号)の制定で相互銀行に転換、平和相互銀行となった。
  • 相互銀行転換後暫くして、夜9時までの窓口営業を実施(後に行政指導により夜7時までの営業に短縮)。当時、同行の顧客の多くが水商売で営業が夜遅くになることに加え、法的に午後3時までの営業を義務付けていたことに着目、大蔵省に直談判して夜間の窓口営業を認めさせたと言われている(加えて英蔵自身が典型的な夜更かしだったという個人的な事情もあったらしい)。
  • こうした夜間の窓口営業に加え、駅前から住宅地まで首都圏に店舗網を整備し、更に都市銀行各行と提携しATMではどの銀行のキャッシュカードでも使用可能とするなど利用者の利便性を重視した。このため最盛期には店舗数100・資金量1兆1500億円相互銀行業界第6位の大手に位置するまでになった。
  • その一方で、英蔵は私的な利益を図るため関連会社を次々と設立・買収。その中には総武流山電鉄や後の内紛でクローズアップされることとなる太平洋クラブなどがある。また、英蔵の私的な側近である"四天王"も平和相銀と密接な関係を持つようになり、こうした関連会社や関係会社が経営不振であったとしても融資が続けられるなど、後に明らかとなる放漫かつ乱脈経営の伏流が既に見えていた。
  • 更に"四天王"との関係から、政治家総会屋右翼なども平和相銀との関係を持つようになり、「闇の紳士の貯金箱」とまで噂される様になった。

[編集] 英蔵の死去と経営陣の内紛と不正融資

  • 1979年に創業者の小宮山英蔵が死亡すると、グループの後継の座を巡って英蔵の娘婿だった池田勉(専務)と英蔵の長男である英一(取締役から常務)との間で対立が生じる。"四天王"を排除して実権を握ろうとした池田に対し、英一は監査役の伊坂重昭の後ろ盾を得て池田の失脚に成功する。この過程で英蔵の後継社長だった精一(英蔵の実弟)も会長へと棚上げされて、やがて会長も辞任に追い込まれる。
  • 伊坂は元東京地検特捜部検事であり、在官中は「カミソリ伊坂」の異名を取るほどに俊敏を振るい、将来の検事総長候補のひとりと言われた。1963年3月に36歳で退官し、その間脱税王・森脇将光の顧問弁護士として、吹原産業事件の弁護を引き受けている。1970年11月、元大阪高検検事長・河井信太郎が小宮山にと紹介したのがきっかけに、平和相銀の顧問弁護士となる。以後、伊坂は法曹経験を生かして平和相銀にからむトラブルを次々に処理し、英蔵の信頼を高め、経営を掌握していったとされる。
  • 池田を失脚させて一時は経営の実権を握るかに見えた英一だったが、やがて伊坂や稲井田隆社長らを中心とする新経営陣との確執が表面化、結果として英一は常務を解任される。
  • その後、1982年の不動産融資事件や1983年の馬毛島事件や1985年の金屏風事件などで数々の不正融資が行われ、ますます経営が悪化した(平和相互銀行事件)。

[編集] 平和相銀解体と住銀への吸収合併

  • 伊坂らの奔走もむなしく、平相銀の解体は迫っていた。金屏風を巡る取引の最中、1985年8月、大蔵省銀行局長吉田正輝(奇しくも後に乱脈経営で破綻する兵庫銀行最後の頭取)の陣頭指揮のもとに、10人の検査官を動員、異例ともいえる5ヶ月間にわたる長期検査を実施した。この検査で、融資額半分を占める約5千億円が回収不能の不良債権と判明する。これが報道されると、信用不安により当時1兆2000億円だった預金が瞬く間に8000億まで減少した。
  • 1985年12月、伊坂系の稲井田社長が降格し、大蔵省OBだった田代一正会長が社長に就任。これをきっかけに事実上大蔵省管理となり、1986年2月、伊坂も監査役を辞任した。この間、大蔵省及び住友銀行の間で救済合併が準備され、1986年10月1日住友銀行に吸収合併された。
  • その後「住友残酷物語」と呼ばれる旧平和相互銀行行員の大粛清が行われ、合併から半年でほぼ全行員がいなくなったと言われているが、実際には合併半年後も旧平和相互銀行出身者は多数在籍している。[1][2]なお旧平和相互銀行本店は1990年代まで「第二東京営業部」として存置され、同行の店舗は店番が800・900番台として区別されていた。[3]
  • 関西系の住友銀行にとり、平和相銀の吸収合併は首都圏店舗を一挙に増やし大きなメリットがあるとされた。しかし、同時に平相銀の不良債権をも抱え込むことになり、低下した収益力回復を目指し、がむしゃらな営業路線をひた走る。この合併で、預金量順位を逆転された富士銀行も巻き返しを図り、熾烈な「FS戦争」が展開される中、バブル経済に突入する。

[編集] その後

  • 1986年7月から8月にかけ東京地検特捜部は平和相銀事件の捜査を実施。前述した神戸市内の山林売買融資について特別背任にあたるとして、1986年7月6日、伊坂ら経営陣4人を逮捕、7月26日に起訴した。伊坂は、最後まで争ったが逮捕から12年後の1998年、最高裁で上告が棄却され懲役3年6ヶ月の実刑が確定、すでに71歳になっていた。その1年後体調を崩し八王子医療刑務所に移り刑の執行を停止されるほど病状が悪化、2000年4月10日病院で死亡した。
  • 1987年11月、竹下登は内閣総理大臣に就任するも、翌年リクルート事件が発覚し、青木は執拗な取調べを東京地検から受ける。1989年4月25日竹下は責任をとって退陣を表明、翌4月26日青木は自殺した。
  • 河村良彦は、イトマン事件における特別背任罪で1991年7月23日逮捕された。保釈中の1999年4月、大阪府知事選挙に出馬するなど奇行が目立ったが、2004年10月7日に懲役7年の実刑判決が確定した。また磯田一郎はこのイトマン事件により1990年10月7日住友銀行会長を辞任、1993年12月3日心不全で死去した。晩年は老人ホームで孤独に過ごしたという。

また、本店は、現在の三井住友銀行西新橋ビルの位置にあり、合併から1998年まで、第二東京営業部として存続したが日比谷支店[4]に吸収され、現在は同所はATM設置(管理店は、エーティーエムサービス東日本支店)となっている。

[編集] 沿革

  • 1949年6月 日本殖産株式会社として設立。
  • 1950年3月 大日殖産株式会社を吸収して、平和貯蓄殖産無尽株式会社へ商号変更
  • 1951年10月20日 株式会社平和相互銀行に商号変更。
  • 1954年11月 東京住宅無尽株式会社を吸収
  • 1974年4月1日 福徳信用組合を合併。
  • 1986年10月1日 住友銀行に吸収合併される。

[編集] 脚注

  1. ^産経新聞記者の近藤弘は著書『住友銀行-7人の頭取』(1988年初版、日本実業出版社)の中で、このたびたび語られる「住友残酷物語」に関しては東京系都銀が流布した虚構であるとしている。同じように、「住友残酷物語」によって"行員が大粛清された"とされる旧河内銀行(1965年4月合併)の吸収合併を検証し、「合併当時の河内銀行行員は301人、1988年時点で約半数の165人が在籍し、現職含め支店長経験者は35人いる(平均年間離職率は過去23年間で2%弱となる)」と論じている。なお、本書の初版時期である1988年の時点(合併から約3年後)では旧平相銀行員の減少率について触れていないが、住銀店舗の支店長に抜擢された2人の旧平相銀行員の活躍ぶりを取材している。
  2. ^ フリージャーナリスト田澤拓也の著書『住友銀行人事第2部 旧平和相互銀行員25人の証言と軌跡』(1991年初版、アイペックプレス)によれば、住友銀行に在籍している旧平和相互銀行行員は、合併時3300名、本書執筆時で2100名と明記している。退職者のうち、8割近くが女性行員との事である。
  3. ^ 吸収後の店番は平和相銀時代の番号+800であった。
  4. ^ 現在はさくら店に吸収されている

[編集] 余談

[編集] 関連

最終更新 2009年7月24日 (金) 14:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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