平岡定太郎
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平岡 定太郎(ひらおか ていたろう、文久3年(1863年)6月4日 - 昭和17年(1942年)8月26日)は日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。
作家三島由紀夫の祖父。
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[編集] 略年譜
- 6月 - 播磨国印南郡志方村(現在の兵庫県加古川市志方町上富木)に農民太吉、つるの次男として生まれた。もともと平岡家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だった[1]が、父太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った[2]。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという[3]。
- 11月 - 徳島県参事官。
- 5月 - 栃木県警部長。
- 12月 - 衆議院書記官。
- 7月 - 衆議院書記官兼内務省参事官。
- 4月 - 内務省参事官兼内務事務官。
- 12月 - 広島県書記官。
- 1月 - 宮城県書記官。
- 11月 - 大阪府内務部長。
- 4月 - 大阪府第一部長。
- 6月 - 樺太庁長官に就任。
- 6月 - 辞職。
- 5月 - 無罪判決。
- 10月 - 東京市道路局長。
- 8月26日 - 死去。
[編集] 人物像
帝大時代は成績優秀であり、学者として嘱望されていた。作家の夏目漱石と東大予備門で同期であり、漱石の小説『それから』に出てくる‘平岡常次郎’と『門』の‘安井’は定太郎をモデルにしたのではないかとの説がある[4]。明治二六年、武家の娘である永井奈徒と結婚した[5]
樺太庁長官時代に、王子製紙の大泊への誘致に積極的に関わり、樺太の製紙・林業の発展に寄与した。また、漁業改革にも着手し、樺太拓殖の父として豊原に銅像が建てられた。
「威張らぬ人、役人臭からぬ人、調子の良き人」と評される。しかし、樺太庁長官に就任した明治41年(1908年)墓参りのため帰郷した際に多数のお供を公費で同行させ、道路は改修させるわ、接待は強要するわで地元民はあきれ返ったという[6]。
息子の梓は定太郎について、『倅・三島由紀夫』のなかで「僕の父は原敬さんの子分で樺太庁長官をやっていました」、「父はまったく大変な豪傑で、酒よし女よし、一世紀ぐらい時代ずれのした男でしたから、家庭経営にはおよそ不向きでありました」と記している。また妻夏子に性病をうつして長男の梓しか産めない体にしてしまったという。息子の梓はこのことについて、『倅・三島由紀夫』のなかで「…子供が僕一人というのはあながち母の邪推を待つまでもなくその平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な坐骨神経痛にかかり一生を苦しみ通したのですがこれも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました…」と記している。
[編集] 事件
大正3年(1914年)5月には樺太疑獄事件が起こる。定太郎は、漁場を許可した事件および印紙切手類販売事件で告訴される。判決は大正5年(1916年)5月23日に下り、「証拠不十分により無罪」であった。平岡家に出入していた好田光伊が“失脚の直接的な原因となったのはどういう事柄ですか?”と定太郎に聞いたことがあった。たずねられた定太郎は身を乗り出して“よく訊いてくれた。当時の樺太では収入印紙の値段が日本の内地よりも高価だった。たとえば5銭の定価の印紙が樺太では6銭、7銭で売買されていたが、これに眼をつけた俺の部下がこっそりと内地から運んできて売買し不当に儲けていたんだ”と答えたという[7]。
大正8年(1919年)12月31日定太郎は長春行き列車の一等車で、阿片を密売人に売り捌いて裏金づくりに励んでいた阿片総局(財団法人)の書記小畠貞次郎の阿片煙土入りのトランクを運ぶはずだった。発車間際、やまとホテルのボーイが定太郎にトランクの鍵を渡して背を向け定太郎がコンパートメントのドアを開けてなかへ入ろうとした瞬間、巡査にみつかった[8]。同事件により、拓殖局長官古賀廉造と関東庁民政局長中野有光による、政府官吏主導の阿片密輸入事件ではないかとセンセーショナルに報じられ原敬内閣に深刻な影響を与えた。大正10年(1921年)には無罪判決を得ているが、これらの事件で、定太郎は表舞台から姿を消すこととなった。
また昭和9年(1934年)には、「平岡元樺太長官 偽の御宸筆で詐欺―畏れ多くも由来書を作り大胆な罪を計画」(東京朝日・昭和9年5月9日付)との記事が大きな見出しで7段にもわたって新聞紙面を飾った。容疑内容は詐欺であり、定太郎とその一味が絹地に‘国家’と書かれた明治大帝の直筆(偽物)を高額で売り捌こうとしたとのことであった。しかし2ヵ月後、怪しげな連中にただ担がれただけ、と判断され不起訴となった。[9]
[編集] 家族 親族
- 実家
- 自家
[編集] 系譜
- 平岡家
- 三代目利兵衛(五代)のとき農業のかたわら商売を始めた[10]。塩をまぶした魚介類などを売り歩いた[11]。菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳によると、平岡家初代“孫左衛門”の肩には〈しおや〉という屋号のようなものが記されているという[12]、[13]。“平岡”姓は明治に入り土地の名をとって名乗った[14]。
┏萬次郎━萬壽彦 ┃ ┃ ┃ 孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門━太吉╋定太郎━梓┳公威 ┃ ┃ ┃ ┗千之 ┃ ┗久太郎━義一
[編集] 著書
- 国際私法(共著)
- 国際公法
- 時効法 など
[編集] 参考文献
- 『現代人名辞典』 1912年 ヒ3頁
- 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 1972年 48-62頁
- 板坂剛 『極説・三島由紀夫』 夏目書房 1997年 107-110頁、112-115頁
- 安藤武 『三島由紀夫の生涯』 夏目書房 1998年 15-19頁、61-62頁
- 猪瀬直樹 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 小学館 2001年 24-73頁、84-91頁、106-120頁、137-146頁
- 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年
- 佐野眞一 『てっぺん野郎―本人も知らなかった石原慎太郎』 2003年 80-82、93頁
[編集] 関連人物
[編集] 脚注
- ^ 『極説・三島由紀夫』 86頁
- ^ 平岡梓はその著書『倅・三島由紀夫』のなかにおいて「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べて、いささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻が感じられるが、これを事実だと信じることはできないという。平岡義一の妻りきの記憶によれば赤門事件など聞いたおぼえもなく、「太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって所払いを命じられた」というものだった。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない(『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 1972年、51-52頁)
- ^ 『極説・三島由紀夫』 104-107頁
- ^ 『三島由紀夫の生涯』 17-18頁
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』59-60頁に「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは明治二六年、大学を卒業した翌年のことである。なんといっても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”といわれた時代だから奈徒も不自然なく嫁いできたものと思える。奈徒は父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩の松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、このときはじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性もはげしかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである…」という記述がある。野坂昭如の著書『赫奕たる逆光』129-130頁に「明治二十六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然。」とある
- ^ 『極説・三島由紀夫』 107頁
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 60頁。
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 67-73頁
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 144-146頁
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 106-109頁
- ^ 『極説・三島由紀夫』 87頁に「平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」とある
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 52頁
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 107頁に「屋号は孫左衛門ではなく、三代目利兵衛のところに付いており、しかも塩屋ではなく塩物屋である」という記述がある
- ^ 『三島由紀夫の生涯』15頁に「農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(明治十三年七月没)から名乗った」とある
[編集] 外部リンク
- 平岡定太郎の墓
- 福島県知事、平岡定太郎の経歴について知りたい - リファレンス共同データベース
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最終更新 2009年11月22日 (日) 04:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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