平岡梓
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平岡 梓(ひらおか あずさ、明治27年(1895年)10月12日 - 昭和51(1976年)12月16日)は日本の農商務官僚。作家三島由紀夫の父として有名。
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[編集] 略歴
- 1895年10月12日 - 東京に内務官僚平岡定太郎、ナツの長男として生まれる 本籍地は兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)
- 旧制開成中学、2浪、旧制第一高等学校を経て
- 1920年7月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業 7月 - 農商務属 鉱山局
- 1922年4月 - 特許局事務官 審判部審判課兼化学電気部
- 1923年10月 - 兼農商務事務官 食料局
- 1925年4月 - 専任農林事務官 米穀部経理課長
- 1932年11月 - 専任農林書記官
- 1934年4月 - 米穀局経理課長
- 1935年7月 - 米穀局外地課長
- 1937年7月 - 水産局漁政課長
- 1937年10月 - 大阪営林局長
- 1941年1月 - 農林省水産局長
[編集] 人物像
梓の名は、定太郎の恩師小野梓に由来する。旧制開成中学校在学中、父親の出世を周囲に自慢して「うちはもうすぐ華族だ」と吹聴し顰蹙を買うも、父親が疑獄事件を起して逮捕され失脚したため、生家没落の辛酸をなめる。
帝大時代の同期に岸信介(後に首相)や三輪寿壮、我妻栄がいた。梓は優秀な成績で高等文官試験に合格するも、独特な人柄が面接試験の担当官に嫌われて大蔵省への道が閉ざされ、農商務省(現・農林水産省)に入る。ここでは同期の岸信介とは対照的に、仕事を怠け廊下をうろうろする無能な官吏として通り、“廊下トンビ”と呼ばれていた。
農林省で梓の7年後輩の楠見義男は「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。…入って一ヶ月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”といわれた。[1]」。「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」と述べている[2]。
文学に熱中する息子・公威(三島由紀夫)の姿を苦々しく思った梓は、執筆中の公威の自室に突如侵入し、書きかけの原稿を破り捨て、叱り飛ばした。公威は、梓が大阪に単身赴任した時期を利用して、存分に小説を執筆した。
梓は1944年、公威が大学に入る際にも文学部への進学に猛反対して法学部に進ませた(三島は後年、このことを梓に感謝した。法学部での教育が自らの文学に類稀な論理性を与えたと信じていたからである。これは、三島文学に対する梓唯一の貢献として知られている)。
戦時中は当時の軍国主義的風潮に染まりきってナチス・ドイツを賛美していた梓だったが、敗戦によって価値観が一変し、「これからは文化の時代だから精を出して小説を書け」と三島を激励するまでになった。
水産局長を最後に農林省を辞した後は、いわゆる天下りで会社社長などを歴任。かねがね大蔵省に劣等感を抱いていた梓は三島を大蔵省に入れたが、1948年、三島が勤めを辞めて小説に専念したいと申し出た時には、「朝日新聞に連載が持てるような一流の作家になること」を条件として渋々ながら退職を許可した。
風貌が遠い親戚の永井荷風を思わせたことから、三島からは蔭で“荷風先生”と呼ばれていた。晩年は、近場の食堂の食べ歩きを趣味としていた。三島の死後、文藝春秋から回想録『伜・三島由紀夫』を上梓。たくまざるブラックユーモアと露悪的な筆致が話題を呼んだ。1996年に文春文庫で再刊。続篇『伜・三島由紀夫 没後』もある。
1965年、期外として東京弁護士会に登録(第9682号)したが、弁護士業務はおこなわなかった。
[編集] 家族 親族
- 実家
- 自家
- 妻 倭文重(学者橋健三娘)
- 長男 公威(作家)
- 次男 千之(外交官)
- 長女 美津子
- 孫 紀子(演出家)、威一郎(元実業家)1962年5月2日生。映画の助監督を経て、1988年9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店した。
[編集] 系譜
- 平岡家
- 三代目利兵衛(五代)のとき農業のかたわら商売を始めた[3]。塩をまぶした魚介類などを売り歩いた[4]。菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳によると、平岡家初代“孫左衛門”の肩には〈しおや〉という屋号のようなものが記されているという[5]、[6]。もともと一家は西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だった[7]が、太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ、志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った[8]。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらしたという[9]。“平岡”姓は明治に入り土地の名をとって名乗った[10]。
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門━太吉┳萬次郎━萬壽彦 ┃ ┃ ┣定太郎━梓┳公威━威一郎 ┃ ┃ ┃ ┗千之 ┗久太郎━義一
[編集] 参考文献
[編集] 関連人物
[編集] 脚注
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 124頁
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 154頁
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 106-109頁
- ^ 『極説・三島由紀夫』 87頁に「平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」とある
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 52頁
- ^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 107頁に「屋号は孫左衛門ではなく、三代目利兵衛のところに付いており、しかも塩屋ではなく塩物屋である」という記述がある
- ^ 『極説・三島由紀夫』 86頁
- ^ 平岡梓はその著書『倅・三島由紀夫』のなかにおいて「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べて、いささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻が感じられるが、これを事実だと信じることはできないという。平岡義一の妻りきの記憶によれば赤門事件など聞いたおぼえもなく、「太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって所払いを命じられた」というものだった。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない(『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 1972年、51-52頁)。野坂昭如の著書『赫奕たる逆光』122頁に「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から印南郡の南は、一帯が塩田だった。(…中略…)播磨の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂(い)い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味。」とある
- ^ 『極説・三島由紀夫』 104-107頁
- ^ 『三島由紀夫の生涯』15頁に「農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(明治十三年七月没)から名乗った」とある

