平野富二

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平野富二(ひらの とみじ、1846年10月4日(弘化3年8月14日)- 1892年12月3日)は、実業家。石川島造船所(現IHI)創立者。

[編集] 略歴

富二は、矢次豊三郎とみね(三原家から養嗣となった長崎唐人屋敷御役医外科筆頭、神辺隆庵(謙)と草野千秋の女マスとの間に生まれた神辺の次女である。)の間に生まれた次男である。兄重平は矢次家を嗣ぎ、次男富二は平野家に入った。

文久元年飽の浦にあった幕府の長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、鋳造活字の本邦始祖本木昌造に師事してチャーチル号機関手となり、慶応2年回天艦機関手として下関戦争に殊勲を得た。

明治2年新政府の長崎製鉄所兼小菅造船所(ソロバンドック)長となり、後の三菱造船所の基礎を築いた。明治4年これを辞し、恩師本木昌造の依嘱もだしがたく、東京に進出し、明治5年築地活版所を創立し、活版印刷の企業スタートを切った。後の救世軍山室軍平らは富二の活版印刷所で働いた小僧であった。長崎における新町活版所よりも大きく発展し、日本文化に貢献すること甚大であった。毛筆で書かれてきた官庁、会社、学校の文書は悉く印刷所へ移転するにいたった。

鋳造活字製造及び印刷事業に成功するや、明治9年石川島に民間事業としての造船所を創設し、その社長として恩師本木昌造の遺児を迎えた。 富二はさらに機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張した。新橋から目黒までの馬蹄鉄道を敷設したのは平野組であり、有名な碓井峠のアプト式鉄道を敷設したのも平野組であった。

明治20年民間造船所として嚆矢の鉄製軍艦「鳥海」を建造し、東都における最初の鉄橋吾妻橋を架設したのも富二である。そして、東京湾汽船株式会社の社長となった。

富二は、終始一貫して官業及び渋沢栄一らの政商と対峙し、自由民権の地盤にたっていた。この意味において福沢諭吉とは相許したのである。長崎の寺(正木氏)に仮寓して留学した諭吉は長崎時代に富二と相識の間柄だったのであろう。 かくて、民間鉄工業の発達に寄与し、国産鉄管の使用を強調しつつ、その演説中に倒れた。時に明治25年、まだ47の働き盛りであった。贈従五位。

最終更新 2009年9月29日 (火) 10:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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