幽州
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上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いから、幽冥をもって名称とした」とする。
前漢の武帝の元封元年に全国に13州に分割し各州に刺史を置いた際、河北省、遼寧省、北京市、天津市を中心とする地域を幽州として、涿、渤海、代、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、玄菟、楽浪、燕の11郡国を属させた。
前漢滅亡後の混乱期には冀州の軍閥の王郎によって占拠されたが、呉漢の挙兵により光武帝の手に帰した。後漢に入って薊を州治とした。
後漢末には軍閥の公孫氏が幽州東部を占拠しおよそ半世紀にわたって後漢・魏から半独立の勢を保ったが、魏に攻め滅ぼされた。400年(咸寧2年)に幽州東部を分割して平州とした。永嘉以後後趙が衰えると、龍城を中心に栄えた三燕の勢力下に入った(前燕は一時幽州の薊城を国都にしたこともある)が、やがて北魏に攻め滅ぼされた。
北魏になると、468年(皇興2年)に安州、太和年間に燕州に分割されるなど細分化が進んだ。北周は幽州を東北の要地として東北道の総管府を置いた。
隋唐以後も幽州(涿郡・天宝元年以降は范陽郡)は郡レベルの地方行政区分として存続し、高句麗・渤海などに対する防備の重要拠点として唐代には范陽節度使(安史の乱以後は盧竜節度使)が置かれた。至徳元年には范陽節度使の安禄山が反乱を起こし、一時は長安を陥落させるほどの勢いを示した。唐末には盧竜節度使の劉仁恭が自立して皇帝と称したが、後唐の李存勗に攻め滅ぼされた。
後晋の938年(天福3年)に石敬瑭が幽州を含む燕雲十六州を契丹に割譲した。契丹は幽州を副都とし燕京と改めた。これ以後幽州の名が使われることはなくなった。


