広岡達朗
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県呉市 |
| 生年月日 | 1932年2月9日(77歳) |
| 身長 体重 |
180cm 70kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 遊撃手 |
| プロ入り | 1954年 |
| 初出場 | 1954年4月4日 |
| 最終出場 | 1966年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1992年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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広岡 達朗(ひろおか たつろう、1932年2月9日 - )は、元プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
目次 |
[編集] 人物
現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ、ヤクルトスワローズ、西武ライオンズの守備コーチ・ヘッドコーチ、監督を歴任し、最下位球団だったヤクルト、黎明期の西武をリーグ優勝・日本一に導いた。その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。愛称は「ヒロさん」。あるいは単に「ヒロ」。野村克也や森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」とも呼ばれる。
父は旧日本海軍の少佐で、駆逐艦の機関長であった。兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。また、鶴岡一人は小学校の先輩にあたる。
孫のひとり(長男の娘)に宝塚歌劇団94期生(2008年入団)で星組男役生徒麻央侑希がいる。
甥の広岡資生は早大で東京六大学の首位打者に輝き、卒業後は松下電器に進み監督も務めた。
[編集] 経歴
広島県呉市出身。呉三津田高校を卒業後、早稲田大学教育学部へ進学。早大では荒川博・沼澤康一郎・小森光生らとともに東京六大学リーグのスタープレーヤーとして鳴らした。 リーグ通算82試合出場、315打数69安打、2本塁打、47打点、打率.219。
[編集] 現役時代
1954年、水原茂監督率いる読売ジャイアンツに入団。背番号は2。広岡は「私の野球の原点は巨人軍の野球である。わたしがプロの厳しさを、いやというほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球である。」[1]と述べている。当時の正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。以後、チームの正遊撃手として活躍し、阪神タイガースの吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手と称された。打撃面では1年目以外は低打率の年が多かったが、通算118本塁打、特に1958年には右膝を故障して2か月欠場したが、復帰後は18本塁打を放つなどパンチ力もあった[2]。
1961年に川上哲治が監督に就任し、広岡はコーチ兼任となる。1964年8月6日の国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が独断でホームスチールを行い、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかったことに対し、バットを叩きつけて「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と激怒し、試合途中で球場を後にした。同年、川上がシーズン終了後に広岡のトレード放出を画策したが、広岡が正力松太郎に「トレードされるなら巨人の広岡で終わらせてください」と引退を直訴した結果、正力の指示で残留が決定した(川上はスポーツマスコミから非難された)が、翌年から出番が減り、1966年のシーズン終了後に現役を引退した。
引退後はラジオ関東、サンケイスポーツなどで評論家活動。現役引退直後の1967年2月にメジャーリーグのキャンプの視察をするため渡米する。フロリダ州ベロビーチのドジャースタウンで行われていた巨人のキャンプも訪れたが、川上監督は広岡による取材を許さず、選手に対して「広岡と口を利くな」と指示を出し、さらに広岡のドジャースタウンへの宿泊も許可しなかった。広岡は川上の仕打ちに激怒し、文字通り殺意を抱くほどの激しい怒りを感じたと述懐している。しかし森昌彦(祇晶)一人だけが広岡が宿泊しているモーテルを訪れ、気遣いを見せた。広岡は森に深く感謝し、以後行動を共にするようになる。
[編集] 広島コーチ時代
1970年、根本陸夫監督に請われ、広島東洋カープの内野守備コーチに就任。根本から、外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる。苑田は一向に上達を見せず、また厳しい指導のストレスで円形脱毛にも陥り、広岡も一度は転向を諦めかけた。しかし根気よく指導を続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きがこなせるようになり、これ以降苑田は、広島の内野守備要員として定着した。この件で広岡は「選手にやる気さえあれば、根気よく指導を続けていけば選手は必ず上達する」と学び、指導者としての自分があるのは苑田のおかげであると述べている。
1971年に広島を退団。野球解説者として活動する傍ら、プロゴルフのコーチもしていた。この頃になると川上とはわだかまりが解けた模様で、広島退団後には川上を訪ね、広島でのコーチ経験を述べ、巨人のファームコーチを志願している。
[編集] ヤクルトコーチ・監督時代
1974年にヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには早大の先輩だった荒川博がおり、先輩を差し置いて自分が監督になるわけにはいかないと辞退し、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格)。コーチには広岡の他に小森光生・沼沢康一郎らがおり、監督と合わせた4人で「早大カルテット」として話題になった。1976年にヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中で荒川の後任として監督に就任した。
当時のヤクルトは松園尚巳オーナーの方針で家族主義的なチームカラーであったが、広岡はプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した。シーズンに入り故障者が続出したことで、広島コーチ時代に監督の根本が選手の食生活を管理していたのに習い、正式に監督に就任後の1977年の春季キャンプで、麻雀・花札・ゴルフの禁止、飲酒・喫煙の制限を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した。キャンプでは守備を徹底的に重視する練習・試合方針を打ち出した。当初は選手から反発を受けたものの、同年チームを球団史上初のシーズン2位に導いた。しかしペナントレースは巨人が独走優勝し、ヤクルトは巨人に対して7勝19敗と大きく負け越した。
翌1978年は、森昌彦を作戦コーチとして招聘。森は広岡の意向を受けて選手たちの私生活も事細かく管理した。5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、ここから巨人が失速し、ヤクルトは多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦。世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが[3]、阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。
広岡は日本一になった時点でヤクルトを退団することを決意していたが、球団の慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。広岡はチーム強化のためにいくつかトレードを予定していたが、広岡の意図したトレードは殆どが成立しなかった。広岡はこれを振り返って「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。1979年も優勝候補の一角であったが、開幕から8連敗を喫して成績が低迷。球団は森をバッテリーコーチから解任し、植村義信投手コーチを二軍降格させようとした。広岡は球団の人事案を巡って対立を起こし、8月17日には辞任を申し出た。
退団後は日本テレビの解説者として評論活動を展開。1981年には近鉄バファローズと阪神タイガースから監督要請を受けるが、いずれも辞退した。
[編集] 西武監督時代
1982年、西武ライオンズの監督に就任。監督就任に当たっては5年に及ぶ長期契約を締結したが、その内容は「休養中は給料は支払わない」「舌禍に対しては厳罰を処する」など、非常に厳しいものだった。記者会見の席でこれについて聞かれた際、広岡は「納得したから契約した」と語っていた。そして1982年は前期優勝を遂げると、プレーオフで後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下してパ・リーグ初優勝に導くと、同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り日本一となる。
翌1983年も、2位の阪急に17ゲーム差を付けるという独走状態で優勝を遂げる。日本シリーズの相手は古巣の巨人であり、藤田元司監督とはかつてのチームメイトということもあって、その対決は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として日本中の注目を集めた。シリーズは第7戦までもつれる激闘となり、4勝3敗で2年連続日本一に導いた。
シーズンオフになると、日本ハムからトレードで江夏豊が入団。江夏獲得のため中継ぎ投手の木村広、柴田保光を放出し、さらに小林誠二も広島へトレードとなり、一気に中継ぎ投手が3名も退団したことから、次第に広岡は根本陸夫らフロントに対して反感を抱くようになる。また江夏が一匹狼的な性格であり、広岡は選手管理で有名であることから、マスコミでは両者の衝突を予想していた。
1984年は、V2を支えた田淵幸一・山崎裕之・大田卓司らが不調であり、早々とペナントレースから脱落したことから、5月より若手選手を多数起用し新旧交代を見据える采配を行った。一方ではベテランに見切りをつけ、田淵・山崎は現役引退を決意、江夏は8月以降二軍落ちするとそのまま出番が与えられずに西武を自由契約となった。江夏は広岡について、「俺の生活権を奪った男」と語っている。
田淵が1984年限りで引退したことから、広岡は長距離砲を渇望。カリフォルニア・エンゼルスに在籍していたドン・ベイラーを獲得するようフロントに進言したが、球団は台湾球界のエースだった郭泰源を獲得。当時の外国人選手の登録枠は2人だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手に振り分けてしまったことで、一軍登録は「野手1人・投手1人」となる(スティーブ・オンティベロスと郭泰源)。これで広岡はますますフロントに対して反感を抱く。1985年は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手が台頭し、独走でリーグ優勝を果たした。しかし広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化してチームから離れ病気療養し、優勝決定時には現場に不在だった。同年の日本シリーズでは阪神に2勝4敗で敗れて日本一を逃した。
広岡はシーズン終了後に監督の権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙に対してフロント批判を再三にわたって繰り返したことを根本が問題視すると、広岡は辞任を申し出た。5年契約を1年残しての辞任であり、電撃的な辞任といえる。表向きの理由は「痛風を患ったことによる健康面での不安」であったが、実質的には根本による「解任」であり、額面どおり「辞任」と受け止めた球界関係者はほとんどいなかった[要出典]。
[編集] 解説者時代
西武退団後は評論家となり、NHKの野球解説者となる。1988年には巨人から王貞治の後任として監督就任を要請されたが、これを断っている(理由は後述)。
1990年から阪神監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて、阪神の東京遠征時には仲田幸司、猪俣隆、野田浩司の投手陣を指導した。特に泣かず飛ばずだった仲田をエースに変えるきっかけを与えた[4]。
一方で1988年には「ジャパンスポーツシステム」という会社を設立し、「日米ベースボールサミット」を開催。これは1988年から1990年まで行われて、アメリカ球界から監督・コーチ・現役の選手が来日し、日本からも広岡・ 古葉竹識・張本勲・鈴木啓示らが参加してサミットで議論を繰り広げた。また、野茂英雄・古田敦也らアマチュア選手たちも参加して実技指導を受けた。アメリカ側の参加者には、当時テキサス・レンジャーズ監督だったボビー・バレンタインもいた。
[編集] ロッテGM時代
1995年、ロッテの重光昭夫オーナー代行に誘われ、日本球界初のゼネラルマネージャーに就任。その際にテキサス・レンジャーズの監督だったボビー・バレンタインを監督に招聘する。
しかし、バレンタインとは早くも野球観の相違から確執を起こす。シーズン開始直後から低迷し、広岡は二軍ヘッドコーチだった江尻亮を一軍ヘッドコーチに昇格させた。広岡はバレンタインの意向を遮って、試合のない日に選手へ練習を課した。チームは後半から調子をあげ、最終的には1985年以来のAクラス(2位)に躍進。しかし広岡は、同年限りでバレンタインを解任し、後任に江尻を擁立した。後にバレンタインは「GMとは選手を集めてくるのが仕事なのに、広岡はそれをせず、現場に口を出すだけだった」と批判した。
ドラフト会議で当時無名だった小坂誠の指名を主導するなど辣腕を振るったが、翌1996年は5位に終わった。また、伊良部秀輝・小宮山悟・エリック・ヒルマンら主力選手とも確執を起こし、2年足らずでGMを解任された。
[編集] 再び解説者として
現在は巨人軍OB会副会長を務めている。長嶋茂雄会長が脳梗塞で倒れた2004年以降は、事実上のOB会会長格として活動している(正式な会長には就任していない)。長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や前任の藤田元司が辞任した時にも会長候補として名前が挙がったが、就任は実現しなかった。なお長嶋の後任会長は2009年から王貞治が就任。
高齢者の監督・コーチ業には否定的な立場を取っているため、近年は正式な指導者として腕を振るうことはないが、オフシーズンにはしばしば巨人の臨時コーチを行っている。母校・早稲田大学野球部の指導にも熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っている。
一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持ち、そこで日本の野球界に対する苦言などを、自らの持論を元にして語っていた。
2008年4月からは、愛知新城大谷大学社会福祉学部の特任教授として教鞭をとっている(担当科目はスポーツ科学)。
[編集] 評価
選手としては遊撃手として巨人の一時代を担ったその守備力が評価されたが、指導者としても弱小球団であったヤクルト・西武をわずかな期間で日本一のチームにした指導者としての手腕が高く評価されている。早稲田大学の後輩である近藤昭仁・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一といった信奉者がいる。チャーリー・マニエルは池井優の著書で広岡の人間性を批判していたが、後に自身がメジャーリーグの監督になってから「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」と発言している。
しかし、現役時代から歯に衣着せない毒舌家であるため敵も多く、森祇晶・豊田泰光・江夏豊・東尾修らからは公然とその人間性を批判されている(広岡の発言の数々については後述)。2度の監督をしたが、2度とも球団と対立する形で退団している。ただ、東尾はベースボール・マガジン社発行の「西武ライオンズ30年史」で、田淵との対談の中で「オレもオッサン(田淵)もこうしていろいろ言っているけどね、広岡さんを監督にしたのは大正解。いい勉強をさせてもらったよ」とコメントしているように監督としての手腕は認めている。また、広岡自身は『週刊ベースボール』創刊50周年のインタビューで、今の『週刊ベースボール』の中で最も興味があるコーナーを「豊田泰光のオレが許さん!」と答えている。
過去に確執のあった川上哲治は、近年の自著『遺書』の中で広岡を「ひとことでいえば意志の人だ。頭がよく、ひらめきもある。特に先を読みながら考えを組み立て、実行していくタイプの野球人で、コーチであれ監督であれ、ゼネラルマネージャーであれ、どんな立場に就いても自分をフルに発揮する」と高く評価している。
長嶋が巨人監督を退任した2002年頃より、広岡は東京スポーツ評論家として巨人軍の球団経営に介入する発言を繰り返している。事実上の巨人OB会会長となった前後からは夕刊フジ紙上などで「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」と宣言している。
[編集] 管理野球
監督としての広岡は、徹底した「管理野球」で有名である。これは、走・攻・守とバランスよくこなせる選手の育成と、厳しい練習によるチームプレーの浸透を目標としていた。ヤクルト監督時代、1978年のチーム日本一の立役者であったはずのチャーリー・マニエルを全く評価しなかったように、打撃のみに特化した選手を嫌っている。かつては門田博光なども槍玉に挙げ、DH制に関しても否定的な見解を持っていた。しかし西武監督を経た後は、「中途半端な野球選手を作ることを別にすれば、攻撃的な野球が展開できて面白い」とその意見を若干変えている。ただしその後も福岡ソフトバンクホークスの松中信彦に対して「イチローのように(走攻守)3拍子揃っていればいいが、打つだけの選手にどうしてソフトバンクは大型契約をしたんですか」と批判している。
1982年に西武監督に就任した際には、選手の食生活の改善から着手し、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限した(ただ、「あくまでも『制限』であって『禁止』ではない」と後に広岡はマスコミの誇張表現に対し牽制している)。親交の有った医学博士の森下敬一を呼んでコーチ、選手全員を参加させ「夫がグラウンドでいい仕事が出来るよう参考に」と選手の夫人にも参加を呼びかけ講演会を行った。この講演に「肉は腐った食物である。牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るものなので、毒を飲んでいるようなもの」といった内容があったため、この部分のみを誇張して翌日の新聞に大きく書かれた。実際はこの後、これら肉や牛乳、ビタミン類が失われている白米より、玄米や雑穀類の方が栄養価が高く自然治癒力がある。また魚介類、野菜、果物で栄養のバランスをとったほうが身体にいい、という要旨であったのだが、日本ハムの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発、またこれに絡ませ興味本位に茶化した記事も出るなど話題を呼んだ[5]。当時の野球選手は食事のことなど、まったく異質の分野のことと考えていたのである。広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している[6]。広岡は西武監督時代に読んだロバート・ハースの書いた『食べて勝つ』(講談社、1985年)から大きな影響を受けたと話している[7]。
しかし自分自身については、肉料理の制限を行っておらず、また西武監督最後の年には(美食家が罹るとされる)痛風を病んでいることが明らかになり、このことはチーム内外で批判を浴びた。広岡はこれらについて「監督と選手が違うのは当たり前」と著書で述べている。江夏豊は「広岡さん自身が制限を守ってないことを指摘したら、私は二軍に落とされた」「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記し、東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人」「すべて自分の考え方に全選手をあてはめ、従わせようとする人」と評している。但し、東尾は「広岡監督に選手が反発とか、対抗しながら優勝していった。マスコミもそれにうまく乗っけてくれた。そこら辺から少しづつパ・リーグの記事も増えましたから。だから本当の野球とは違った意味での魅力なんですかね」とも話している[8]。田淵幸一は広岡のコーチングに最も強烈な影響を受けたと自著で述べているが、それは"まさに、ケンカ、選手を怒らせて上手くさせるコーチング"と解説している。西武キャンプ初日に全選手を前に主力選手を"給料泥棒"などと一人づつ批判したため、選手間で「アイツの目が節穴だったと証明してやる。絶対優勝してアイツを胴上げして4回目で全員で手を離して落としてやる」が合言葉になったという。これは、このチームはベテランの働きが鍵を握ると考え、ベテランを奮起させればチームの体質が変わるという広岡の戦略でまんまとこれにはまった。不思議なものでチームが強くなると指揮官に信頼感が湧いてきて胴上げの時はしっかり広岡を受けとめたという。広岡は不世出の勝負師と思うと話している[9]。渡辺久信も高校卒業していきなりの管理野球には「とんでもないとこに来た」と思ったけど、今思えばその経験が良かったと思う。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎をつくってもらったのかも知れない、と話している[10][11]。また2009年現在、球界最高齢の現役選手である工藤公康(横浜)は、西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているという[12]。その他、ヤクルト監督時代には、重量挙げなどのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的なウエイトトレーニングを体系立ててチームに導入している。ウエイトトレーニングを導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話しばかり始めたため。シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、これはマズイと、体の回復とレベルアップを図るには、基礎体力を付けることが一番いいということで始めた。選手には、シ-ズンの疲れは完全に休んだら抜けることは絶対にない。人間の体は動かしていなきゃダメと言い渡した。選手はブーブー言っていたが、ユマのキャンプでパドレスのクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があって選手が普通にやっているので「ああ、これいいんだな」と選手が納得したという[13]。
選手へ自然食を勧めるようになったいきさつについて、広岡は自著で「ヤクルト時代、チームに故障者があまりにも多く出たので、ある日神宮球場のベンチで『なんでこう故障者が多いんだろう』と独り言のように嘆いた時、顔はときどき見かけるが名前も知らない人が、自分に『食べ物が悪いのではないか。白米を玄米に変えるといいだろう』と声を掛けたことがきっかけ」と述べている。 プロ野球選手の食生活に疑問を抱いたのは、指導者としてのスタートとなった広島カープのコーチ時代から。広島カープの日南キャンプは、晩飯に焼肉がでて、ビールがズラーッと並んで和気あいあいと食っている観光旅行のようだったという。根本にキャンプ中の禁酒を申し入れたら広島の選手は素直に聞いた。ヤクルト時代には、アキレス腱の持病を持つ若松勉が、遠征の移動のバスに乗るとすぐに缶ビールを買い込んでくるので、アルコールが故障にいいはずがないと言い聞かせた。若松は反発したがいい方に作用した。阪急との日本シリーズで圧倒的に不利との前評判で勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六、七分、その上、有馬温泉で休んでいたから、心のスキがあったんだと思うと話している[14]。
[編集] 脚注
- ^ 広岡達朗 『意識革命のすすめ』、講談社、22-23頁
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』では、「1年目のまま打てばいいものを、理論派であるだけに考えすぎたのが、3割に復帰できない理由だと言われた。しかし、意外性のある打者ではあった」という評価が記されている。
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.37ほか
- ^ 『元・阪神』竹書房、2002年、179、180頁
- ^ 『勝者の方程式』、講談社、1988年、28頁
- ^ 『わが野球教育学』、毎日新聞社、1982年、111-116頁
- ^ 『勝者の方程式』、29-35頁
- ^ テレビ朝日出版部『オレにも言わせろ!日本人とプロ野球』、1989年、213、214頁
- ^ 田淵幸一『新猛虎伝説』、光文社、2003年、81、82頁
- ^ 週刊朝日、2009年4月10日号、35頁
- ^ 週刊ポスト、2009年2月6日号、68、69頁
- ^ 『粗食は最強の体をつくる!』、三笠書房、2006年他
- ^ 週刊朝日、朝日新聞出版、1978年12月1日号、31頁
- ^ 週刊朝日、朝日新聞出版、1978年12月1日号、29-31頁
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | 球団 | 背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 死 球 |
三 振 |
打率(順位) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1954年 | 巨人 | 2 | 112 | 341 | 58 | 107 | 19 | 2 | 15 | 175 | 67 | 9 | 2 | 4 | 58 | 49 | .314(6) |
| 1955年 | 125 | 447 | 76 | 115 | 16 | 9 | 11 | 182 | 43 | 17 | 6 | 2 | 56 | 70 | .257(17) | ||
| 1956年 | 93 | 343 | 46 | 80 | 17 | 1 | 9 | 126 | 32 | 8 | 9 | 1 | 28 | 56 | .233(19) | ||
| 1957年 | 92 | 344 | 54 | 84 | 13 | 3 | 18 | 157 | 33 | 5 | 11 | 3 | 31 | 72 | .244 | ||
| 1958年 | 111 | 437 | 69 | 121 | 18 | 2 | 12 | 179 | 41 | 22 | 7 | 1 | 34 | 70 | .277(7) | ||
| 1959年 | 120 | 448 | 81 | 106 | 13 | 7 | 14 | 175 | 47 | 17 | 7 | 3 | 52 | 88 | .237(23) | ||
| 1960年 | 98 | 363 | 47 | 81 | 12 | 6 | 12 | 141 | 26 | 3 | 6 | 2 | 22 | 52 | .223 | ||
| 1961年 | 125 | 429 | 38 | 87 | 12 | 3 | 10 | 135 | 41 | 5 | 4 | 2 | 31 | 54 | .203(28) | ||
| 1962年 | 116 | 378 | 36 | 81 | 11 | 3 | 4 | 110 | 33 | 8 | 7 | 2 | 25 | 83 | .214 | ||
| 1963年 | 104 | 328 | 39 | 79 | 11 | 1 | 5 | 107 | 41 | 7 | 5 | 4 | 42 | 53 | .241 | ||
| 1964年 | 117 | 349 | 35 | 73 | 10 | 2 | 6 | 105 | 34 | 3 | 7 | 3 | 32 | 67 | .209 | ||
| 1965年 | 103 | 275 | 20 | 63 | 13 | 0 | 1 | 79 | 25 | 10 | 6 | 0 | 35 | 58 | .229 | ||
| 1966年 | 11 | 31 | 4 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 7 | .129 | ||
| 通算成績 | 1327 | 4513 | 603 | 1081 | 167 | 39 | 117 | 1677 | 465 | 115 | 77 | 27 | 449 | 780 | .240 | ||
[編集] タイトル・表彰
- 新人王 (1954年)
- ベストナイン:1回 (1954年)
- 正力松太郎賞:2回 (1978年、1982年)
- オールスターゲーム出場:6回 (1954年、1955年、1957年 - 1959年、1965年)
- 野球殿堂入り(1992年)
- 通算1000試合出場 1963年4月21日(78人目)
[編集] 背番号
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1976年 | 昭和51年 | ヤクルト | 5位 | 130 | 52 | 68 | 10 | .433 | 23.5 | 128 | .260 | 3.88 | 44歳 |
| 1977年 | 昭和52年 | 2位 | 130 | 62 | 58 | 10 | .516 | 15 | 170 | .267 | 4.01 | 45歳 | |
| 1978年 | 昭和53年 | 1位 | 130 | 68 | 46 | 16 | .596 | - | 157 | .279 | 4.38 | 46歳 | |
| 1979年 | 昭和54年 | 6位 | 130 | 48 | 69 | 13 | .410 | 19 | 157 | .252 | 4.60 | 47歳 | |
| 1982年 | 昭和57年 | 西武 | 1位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 1位・3位 | 131 | .253 | 3.31 | 50歳 |
| 1983年 | 昭和58年 | 1位 | 130 | 86 | 40 | 4 | .683 | - | 182 | .278 | 3.20 | 51歳 | |
| 1984年 | 昭和59年 | 3位 | 130 | 62 | 61 | 7 | .504 | 14.5 | 153 | .256 | 4.10 | 52歳 | |
| 1985年 | 昭和60年 | 1位 | 130 | 79 | 45 | 6 | .637 | - | 155 | .272 | 3.82 | 53歳 | |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1976年から1996年までは130試合制
- ※3 1982年は前・後期制のため、それぞれの順位
[編集] 通算監督成績
- 966試合 498勝406敗62分 勝率.551
[編集] CM
[編集] 過去の出演番組
[編集] 著書
- 私の海軍式野球(自著 サンケイ出版)
- 監督論(自著 集英社インターナショナル)
- わが野球教育学(自著 毎日新聞社)
- 勝者の組織論(長嶋茂雄共著 講談社)
- 勝者の方程式(自著 講談社)
- 意識革命のすすめ(自著 講談社)
- 積極思想のすすめ(自著 講談社)
- 私の野球人生(広岡達朗述 富山県教育委員会)
- 成功への羅針盤(自著 産経新聞ニュースサービス)
[編集] 出典、脚注
- ^ 広岡達朗 『意識革命のすすめ』、講談社、22-23頁
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』では、「1年目のまま打てばいいものを、理論派であるだけに考えすぎたのが、3割に復帰できない理由だと言われた。しかし、意外性のある打者ではあった」という評価が記されている。
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.37ほか
- ^ 『元・阪神』竹書房、2002年、179、180頁
- ^ 『勝者の方程式』、講談社、1988年、28頁
- ^ 『わが野球教育学』、毎日新聞社、1982年、111-116頁
- ^ 『勝者の方程式』、29-35頁
- ^ テレビ朝日出版部『オレにも言わせろ!日本人とプロ野球』、1989年、213、214頁
- ^ 田淵幸一『新猛虎伝説』、光文社、2003年、81、82頁
- ^ 週刊朝日、2009年4月10日号、35頁
- ^ 週刊ポスト、2009年2月6日号、68、69頁
- ^ 『粗食は最強の体をつくる!』、三笠書房、2006年他
- ^ 週刊朝日、朝日新聞出版、1978年12月1日号、31頁
- ^ 週刊朝日、朝日新聞出版、1978年12月1日号、29-31頁
[編集] 参考文献
- 監督(海老沢泰久著 文春文庫)
- みんなジャイアンツを愛していた(海老沢泰久著 新潮社)
- 巨人を超えた男(越智正典著 恒文社)
- 広岡野球の戦略(塩沢茂著 芳文社)
- 広岡語録大研究(山根徳光著 東京経済)
- 広岡達朗が教える悪の管理学(後藤寿一著 泰流社)
- CIRCUS 連載「広岡主義」(2006年7月 - )
- ヤクルトスワローズ球団史(徳永喜男、ベースボール・マガジン社、1992年)
- 野球を変えた男(与那嶺要・山本茂、ベースボール・マガジン社、1992年)
- 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.36~
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年9月10日 (木) 23:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【広岡達朗】変更履歴

