広島におけるサッカー専用スタジアム構想
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広島におけるサッカー専用スタジアム構想(ひろしまにおけるサッカーせんようスタジアムこうそう)とは、広島県広島市内における、専用スタジアム建設にむけたサッカー関係者によるさまざまな試みのことである。
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[編集] 経緯
[編集] Jリーグ以前
広島は戦前からサッカーが盛んな土地であった。対外試合も行われ、1960年(昭和35年)11月30日全広島対ロコモティフ・モスクワ戦にて、初めて広島市民球場でサッカーが行われた[1]が、ここになったのは当時市内唯一の照明施設と芝生グラウンドを持ち合わせたことと、それに似合うサッカー専用グラウンドはなかったからである。
最初に専用スタジアム建設論議されたのは1951年(昭和26年)に広島国体が開催されることになったときである。同時期に全国大会で台頭し始めた東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島、以下サンフレ)も決まったグラウンドを持っておらず、交通の便の良さから広島県立広島国泰寺高等学校をメインに市内高校グラウンドを転々とした。1957年(昭和32年)天皇杯決勝・東洋工業対中大クラブはこの国泰寺高校で行われた。1965年(昭和40年)、日本サッカーリーグ(JSL)が開幕してからも市内高校グラウンドで公式戦を開催する状況は続き、国際試合や国内主要大会も1967年(昭和42年)JSL東西対抗戦まで5度も広島市民球場で開催された[1]。
この状況に建設論議されるようになり、中区基町の現在ひろしま美術館があるあたりを候補地の1つとしていた。しかし、当時のJSLは集客が見込めないせいもあり実現には至らず、結局広島スタジアムを主に使うことになった。
1970年代以降、広島経済の地盤沈下とともにサッカーも停滞していった[2]ため、その後建設論議は再燃することはなかった。
[編集] 広島ビッグアーチでの現状
1992年(平成4年)、広島アジア大会のメイン会場およびサンフレのホームスタジアムとして、広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)が建設された。建設当時は日本に5万人入る競技場が少なかったこともあり脚光を浴びたが、次第に問題点が浮かび上がった。
- 構造上の問題
- 陸上競技用スタジアムであるためピッチと客席の間にトラックがあり試合を見づらい。
- 客席の大部分に屋根がない。
- 客席が多いためほとんどの試合で空席が目立ち、ファンと選手の一体感が薄い。
- 交通アクセスの問題[3]
- その他
- 日程の都合上、「旧広島市民球場での広島東洋カープ」の試合と「広島ビッグアーチでのサンフレッチェ広島」の試合が、同じ日の同じ時間に開催される、双方にとってメリットのない状況。
一時はサンフレ側も公式戦開催を敬遠していたほどであった[4]。
2002 FIFAワールドカップの日本開催が決定し、1993年(平成5年)1月に開催地として広島市は立候補した。日韓共同開催になった場合でも当時は5万人収容できるスタジアムが国内に少なかったこと、更にはジョアン・アベランジェFIFA会長が被爆による惨劇から立ち直ったこの地を平和のシンボルとしてW杯でアピールするべく候補地に強く推薦したこともあり、当地での開催は確実視されていた。しかし、ビッグアーチをFIFA規則に満たすスタジアムに改修する場合、バックスタンドへの屋根の架設[脚注 1]と座席改修工事に約150億円かかるため、施設を所有する市は財政難から難色を示し1996年(平成8年)平岡敬市長が正式に見送ると発表、結果開催地から外された。これには長沼健JFA会長をはじめとする広島出身のサッカー関係者が悔しがった。[5]
2002年(平成14年)W杯開催地から外れた代わりにサッカーブラジル代表のキャンプ地として誘致しようとした[6]が、財政面の問題からまたも逃してしまう[7]。同年末のサンフレJ2降格も重なって、県サッカー関係者の中で何か起爆剤を欲していた[8]。
[編集] スタジアム推進プロジェクト
2003年(平成15年)2月、広島市長選にて専用スタジアム建設を公約に掲げていた秋葉忠利が市長に再選されると建設の動きが急加速し、藤田雄山県知事、野村尊敬県サッカー協会会長、宇田誠広島商工会議所会頭[脚注 2]、久保允誉サンフレ社長もこれに同調した[8]。
同年4月1日、関係者9団体[脚注 3]で「スタジアム推進プロジェクト」を発足、J2降格の責任を取って現場から離れた今西和男が事務局長に就任した[9]。経済波及効果も考慮に入れ[10]、収容2万人・観客席は屋根付き・工事費は100億円以内での建設を目指して、10ヵ所ほどあった候補地から次に挙げる5案に絞り込まれた。
- 広島大学東千田キャンパス跡地に新設案
広島市街地中心部辺りから路面電車で約15分位気軽に足を運びやすい場所、広大な土地で法的なしばりもない最適の場所、ときわめて評価の高い地であった。しかし、国有地であるため買い取りには約200億円もかかるため断念した。 - 広島スタジアム改修案
これには陸上競技関係者の反対にあい、また都市公園法の問題[脚注 4]、航空法の問題[脚注 5]、などの理由から断念した。 - 五日市地区八幡川河口埋立地に新設案
広い駐車場が確保でき騒音問題が起きないとして、最有力候補地として挙げられていたが、地盤沈下や土地を所有する県の財政難から、計画保留扱い。 - 広島広域公園第一球技場改修案
他案件と比べ掛かる費用が少ないため現実的には最も実現の可能性が高く、実際具体案も示された[脚注 6]。しかし第一球技場を所有する市の財政難、および92年に完成したものを10年足らずで改修するのは「二重投資になる」という理由により、この案は一時頓挫した。 - 広島市民球場跡地に新設案
下記に詳細を記載。
[編集] 広島市民球場活用
広島東洋カープの本拠地が新広島市民球場に移転するのを機に、市は民間に向けて跡地利用の提案募集を行い、さまざまな専門家で構成する委員がそれを判定する「広島市民球場跡地利用検討会議」を設置した。
その中でサッカー関係者としては念願であり、野球ファン含めたそのほかの市民には「戦後の広島復興の象徴としての市民球場」を保存・活用できる、財界や地元商店街もある程度の集客が見込めるとして、提案に挙がったのがサッカー専用スタジアムにすることだった。一方でこの地は世界遺産である原爆ドームに近接しており、新たに大型施設を建設することにより危機遺産に登録されるのではないかと一部で懸念されていた。
2006年(平成18年)4月、原爆ドーム(高さ約25m)からわずか200m先に高さ45mのマンション建設が発覚、これに建設反対運動が活発化したことにより、周辺の景観保全への意識が高まることとなった[11]。結果、同年5月21日広島市民球場跡地利用検討会議第3回にて、スタジアム案がすべて「閉鎖された空間が新たに出現し、大規模施設によって広島平和記念公園と広島市中央公園が分断される計画であるため望ましくない」と評価され、没案となった[12]。
その後、財政的な問題や他の大型公共工事計画などにより後回しとなり、スタジアム推進プロジェクトは事実上止まっている状況となった[13]。2007年(平成19年)1月、今西は事務局長を退任した。
ただ球場跡地利用も決定したわけではなかった。そもそも民意を反映することが目的であるはずの検討会議が委員を選抜する段階から不透明であること、その後に決定した優秀案では集客力が不足すること、球場の保存・活用の可能性が薄いこと、など不満が続出した。
2008年(平成20年)9月、市が球場整備の基本方針のたたき台をまとめ、意見を募った[14]。これに対し、折り鶴保存・展示施設建設の是非および球場の保存・活用が盛り込まれていないことに市民が再検討を要望し、解体反対署名を集めたり、独自でシンポジウムを開いた[15]。その中で専用スタジアムに改修する案を再び話し合われるようになった。これに県サッカー協会も動き、2009年(平成21年)1月8日市に対し跡地にスタジアムを建設する要望書を提出したが、市は「サッカー専用では年に約20試合しかできず、難しい」と否定的な見解を示した[16]。
[編集] 推進プロジェクト再立ち上げ
2009年4月、新広島市民球場が開場。次はサッカー専用スタジアム建設を、という声がサポーターのみならず政財界の中でも挙がる様になった。同年10月、この流れを受けて2006年以降止まっていたスタジアム推進プロジェクトが再立ち上げした。前回検討時と経済状況や土地行政などが変わったこともあり、一度白紙に戻して改めて検討しなおすこととなった。[13]
[編集] 脚注・出典
[編集] 脚注
- ^ これはFIFAの規則でスタジアムの観客席の4分の3以上に屋根が取り付けられていることが条件とされている。
- ^ 当時広島銀行会長でもありサンフレ後援会の会長でもあった。
- ^ 県・市・広島商工会議所・広島青年会議所・県体育協会・市スポーツ協会・県サッカー協会・サンフレ球団・サンフレ後援会の9団体
- ^ 2万人屋根つき専用スタジアムに改修しようとした場合、隣接する広島県総合グランド野球場を解体しなければならないため、陸上競技関係者だけではなく野球関係者からも反発が予想された。
- ^ 近くに広島西飛行場があるためにスタンドに屋根をつけようとすると航空法による高さ制限にひっかかる。
- ^ 現在の席数7,500席からJリーグ規定の15,000席に増設、建設費10億円のうち、第一球技場を所有する広島市からはピッチと照明費2億円を負担してもらい、2005年(平成17年)シーズン中にオープンということで進められていた。
[編集] 出典
- ^ い ろ 中国新聞 (2008-7-13). "1960年11月30日、日ソ交歓サッカー 芝に弾んだボール(さよなら市民球場 思い出のあの試合)". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 賀川浩の片言隻句 (2009-1-14). "年末年始を語る(1)まずは高校サッカー". 2009-02-08 閲覧。1973年のオイルショックの影響によるもの。
- ^ サンフレッチェ広島公式 (2009-1-?). "第4回サポーターカンファレンス議事録 3.アクセスの改善". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 中国新聞 (1998-01-03). "自治体クライシス、ア大会投資が財政圧迫-活性化の手法曲がり角". 2009-02-08 閲覧。
- ^ インターナショナル・ヘラルド・トリビューン (1997-1-3). "Soccer Needs Hiroshima As a World Cup Symbol". 2009-02-08 閲覧。
- ^ Eタウンメールマガジン、中国放送 (2002-2-2). "時間切れ寸前W杯キャンプ". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2002-1-5). "W杯キャンプ地「ブラジル広島誘致」が迷走". 2009-08-15 閲覧。
- ^ い ろ Eタウンメールマガジン、中国放送 (2003-3-22). "広島にできるのか? 「夢の構想・サッカー専用スタジアム」". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2003-5-2). "広島にサッカー専用スタジアムを プロジェクト会議が定例会". 2009-08-15 閲覧。
- ^ 財団法人ひろぎん経済研究所 (2005-?-?). "調査研究実績一覧". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 読売新聞 (2006-05-08). "原爆ドーム近くマンション建設". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 広島市公式 (2006-05-21). "現球場跡地利用 広島市民球場跡地利用検討会議(第3回)". 2009-02-08 閲覧。
- ^ い ろ 中国新聞 (2009-10-29). "広島にサッカー専用スタジアム 推進協議、3年ぶり始動". 2009-10-29 閲覧。
- ^ 中国新聞 (2008-09-10). "東「にぎわい」西「緑地」、市民球場跡地で広島市がたたき台". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 中国新聞 (2008-10-20). "市民球場跡地市民で再考、広島で100人参加しシンポ". 2009-02-08 閲覧。
- ^ 日刊スポーツ (2009-01-09). "広島協会が市民球場跡にスタジアム要望". 2009-02-08 閲覧。
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- 日本サポーター協会・広島専用スタジアム建設の行方(前編・後編)
- ALL FOR HIROSHIMA
- 現球場跡地利用 広島市民球場跡地利用検討会議(広島市)
- インタビュー(広島サッカー向上委員会)
- 小城得達・県サッカー協会会長(2006年)
- 今西和男・スタジアム推進プロジェクト事務局長(2006年当時)
最終更新 2009年10月30日 (金) 14:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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