広島市民球場

広島市民球場の最新ニュースをまとめて検索!

旧広島市民球場
Old Hiroshima Municipal Baseball Stadium
外観
外観
看板
看板
施設データ
所在地 広島県広島市中区基町5-25
起工 1957年2月22日
開場 1957年7月24日
所有者 広島市
管理・運用者 広島市
グラウンド 内野 - 黒土
外野 - 天然芝(高麗芝)
照明 照明塔 - 6基
最大照度 投捕間:3073Lx
     内 野:2674Lx
     外 野:1801Lx
建設費 2億5600万円
設計者 石本建築事務所
建設者 増岡組
使用チーム • 開催試合
広島東洋カープ(1957-2008)
収容能力
31,984人(消防法上の定員は
31,686人)
グラウンドデータ
球場規模 グラウンド面積:12,160 m²
両翼 - 91.4 m(約299.9 ft)
中堅 - 115.8 m(約379.9 ft)
左中間 - 109.7m(約359.9 ft)
右中間 - 109.7m(約359.9 ft)
フェンス 2.55 m (約8.4 ft)
(ラバーフェンス:1m35cm + 金網フェンス:1m20cm)
  
グラウンド
広島市民球場時代の画像
内野より一塁側を撮影(2003年7月)
左翼ポール付近より(2005年5月、広島 - 楽天)
ジェット風船(2005年5月)
三塁側より(2004年3月14日、広島 - 福岡ダイエー)
照明塔(2006年1月)

旧広島市民球場(きゅうひろしましみんきゅうじょう)は、日本広島県広島市中区基町にある野球場

かつては広島市民球場(ひろしましみんきゅうじょう)を名乗り、日本プロ野球セントラル・リーグ広島東洋カープ本拠地としていた。施設は広島市が所有及び運営管理を行っている。ただし球場内の売店などは広島球団側に営業権が認められていた。

2009年4月1日より、条例上の正式名称としての「広島市民球場」は、MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島(前日までは「新広島市民球場」、広島市南区南蟹屋二丁目)に譲り、閉場までの間は暫定的な名称として「旧広島市民球場」とされている。

目次

[編集] 概要

広島東洋カープのホームゲームの他、アマチュア野球の試合にも広く開放され、夏の甲子園大会広島県予選の決勝戦や都市対抗野球大会の広島県予選なども開催される。カープの試合がある日でも、午前中は市民に貸し出しを行っていることがある。

阪神甲子園球場スカイマークスタジアムと並び、プロ球団の本拠地球場としては現在では少なくなった天然芝球場(ファウルゾーンを除く)である。両翼91.4メートル、中堅115.8メートルという外野は、プロ球団の本拠地球場の中では一番狭い。内野スタンドは二層式で収容人員約20,000人、外野は収容人員約12,000人、計32,000人ほどを収容できるとされている。また、内野の上層スタンドがかかる同下層スタンドの一部を除き、屋根は設置されていない。

施設の老朽化が進んでいることなどから、2000年代に入り当球場に代わる新しい球場の建設が検討され始めるようになり、広島市南区に代替施設となる新広島市民球場2007年秋に着工、2009年4月に竣工し、以後、プロ野球本拠地機能は新球場に移転した。ただし、新球場の正式開場がリーグ公式戦開幕後となったため、3月のオープン戦を4試合、旧市民球場で行うことになった。同球場で行われた最後のプロ野球オープン戦は3月22日の広島対阪神戦だった。

[編集] 歴史

1950年代、日本各地の野球場にナイター設備が整備されていくなかで、当時の広島の本拠地・広島総合球場には照明灯がなく、広島市民・ファンから新球場を求める声が挙がっていた。これを受け広島市へ地元財界などから寄付金が集まり、1957年1月31日に新球場建設が決定。同年2月22日に起工式が行われ、5ヶ月後の7月22日にはファン15,000人を集めて完工式・照明点灯式が行われ、2日後に中国地方初のナイター設備設置球場として開場した。

[編集] 年表

  • 1950年 - 広島カープが広島総合球場(現広島県総合グランド野球場)をフランチャイズとしてセントラル・リーグに加盟[1]
  • その後、ナイター設備がないことや、観客の収容能力が少ないことなどから近代的な球場の建設が求められた。
  • 1957年7月20日 - 地元財界の建設資金寄付を受けた広島市が、中国地方初のナイター設備付き野球場としてこの球場を開設。
  • 1957年7月24日 - 広島対阪神戦で球場開き(ナイター)。選手はみな固くなり当時の二枚看板、長谷川良平備前喜夫が共に阪神打線の猛攻を許し、1 - 15で大敗した。
  • 1964年6月30日 - この日広島市民球場で開催された広島対阪神戦で、阿南準郎のプレーをめぐる抗議で2時間30分の中断の末中止となり、この決定に怒ったファンが防球ネットや放送ブースなど場内の施設を破壊。修理を要するため、翌日と翌々日に予定されていた試合が中止された。
  • 1980年 - 広島東洋カープが、初めて広島市民球場で日本シリーズ優勝を達成。
  • 1987年 - 1985年以来の内野席二層化工事が完成。1986年のシーズンは三塁側のみに2階席を増築。1987年に残った一塁側とネット裏の2階席が増築され全面竣工した。またこの際、内野の照明塔は鉄塔式からポール式になった。
  • 1993年 - スコアボードを移設し電光式に。外野の照明塔もポール式になった。
  • 2004年10月30日 - 同県出身の奥田民生によるアコースティックライブ「ひとり股旅スペシャル@広島市民球場」が行われ、初めて球場がコンサートに使用された。
  • 2005年 - スコアボードをフルカラー表示の発光ダイオード(LED)へ切り替え。
  • 2005年7月 - 広島市長が、広島市民球場の後継施設となる新球場を広島市南区東駅町に建設することを表明。
  • 2006年5月5日 - この日行われた広島対中日戦で30,151人の観客を動員し、2005年からの実数発表以来初の観客動員30,000人を超えた。
  • 2008年9月28日 - 最後のセントラル・リーグ公式戦(通算3182試合目)となる東京ヤクルト戦が行われ、6-3で広島が勝利。この日の入場者数は30,609人で、2005年からの実数発表以来最多動員を記録。
  • 2008年12月6日 - 広島市民球場お別れイベントとして「カープOBオールスターゲーム」を開催。
  • 2009年3月 - 広島市民球場で最後のオープン戦4試合を開催。
7日・対東北楽天ゴールデンイーグルス、8日・対千葉ロッテマリーンズ、14日・対東京ヤクルトスワローズ、22日・対阪神タイガース
  • 2009年4月1日 - 「広島市民球場」の正式名称をマツダzoom-zoomスタジアム広島に委譲し、当球場は「旧広島市民球場」と改称
  • 2009年10月 - 一般向け利用を含めた全ての催事を終了し閉場、以後解体予定。

[編集] 設備

[編集] スコアボード

スコアボード(2008年11月)。最終期のスコアボード
スコアボード(2003年7月)。この当時は電球式スコアボード
LED式に変わったスコアボード

開場当時から1992年までの35年間使われた初代のスコアボード(右中間に設置)はパネル式。イニングスコア部を挟んだ両サイドにそれぞれのチームの出場選手名を表示していた。また表示方式にも特徴があり、現在の打者をランプ(信号灯)で、出塁している走者は打順ランプの外側を囲うネオン管を点灯させて表示していた。またスコアボード棟の内部は3層構造でクーラーも無く、夏場は涼むためスコアボードのパネルを空けて係員が涼をとっていた(のちにスパイ容疑が掛かることになる)。中央に得点掲示板、審判団、カウント表示、下段には他球場(セ・リーグのみ)のスコア、さらに次回試合日程が出ていた。パネル式時代のスコアボードは最大16回までと合計得点、安打、エラーを書き記すことが可能だったが、スコアが見づらくなるという理由から晩年は合計得点を表す「R」部分には表示をしていなかった。

1994年アジア競技大会開催に合わせて1992年オフに改修を行い、1993年からスコアボードは中堅バックスクリーン上に移設され電光式に。松下電器産業製の大型映像装置「アストロビジョン」も設置された。しかし旧来の放電管方式だったため保守部品の消耗が早く、設置から10年を経過してそれらの入れ替えもままならなくなった。例えば2004年グレッグ・ラロッカ選手が打撃練習した際、メンバー表の表示画面にボールが直撃、3週間以上そこの部分だけ何も表示されず、例として緒方の表示が「緒_」、または木村拓が「木村_」となっていた(“_”は空白)。そのため、2005年LED式に改装され、ポジションの数字が大きくなり、ネーム部分は幅がやや狭くなった。表示部は1993年以来の配置を踏襲し、横スクロールで左翼側に映像装置、右翼側に得点(10回まで)と出場メンバー表示が出来るようになっている。また打者はもちろん、塁に出た走者に対しても白地の文字が黄緑色で表示されるという他球場にはない特徴も、パネル式時代の表示方式を踏襲し続けている。スコアボードの得点表示部は、電光化当初は「青地に白文字」で表示していたが、放電管の消耗が著しくなった2000年頃から「黒地に白文字」に設定を変更して点灯部を減らし、放電管の負荷を軽減させていた。LED式に改装後は以前と同様「青地に白文字」に設定を戻している。

電光化以降、スコアボードの球団名は「~ズ」といったチーム名表記ではなく、頭の地名などを使用している。そのためセ・パ交流戦では北海道日本ハムファイターズが「北海道」、千葉ロッテマリーンズが「千葉」、福岡ソフトバンクホークスが「福岡」、など、マスコミが多用する企業名表記とは違うために違和感を覚える表示だった。2006年からは北海道日本ハムファイターズは「日本ハム」、東北楽天ゴールデンイーグルスは「楽天」の表記になった。東京ヤクルトスワローズはこれまで通り「ヤクルト」だった。なお、中日ドラゴンズに在籍しているトマス・デラロサの表示方法は、「デ ラ ロサ」。また審判員の表示部が設置されていない。広島戦では試合前の先発メンバー発表時にビジョンの画面上で表示し、試合中の表示は一切行わない。

[編集] 可動式広告板

可動式広告板

当初の建設計画においては、本塁は北西に置く計画であったが、建設省から「文化施設のそばに正面玄関が位置することになり騒音上好ましくない」(当時、児童文化会館が建設予定地北側に存在した)、「外野スタンドの裏側がメインストリートに面し、背を向けるのは景観上好ましくない」等、注文を付けたため、設計は変更され本塁は南南東に置かれることになった。そのため西側のレフトスタンド背後に沈む太陽の直射日光が打者や捕手のプレー、特に三塁側からの送球に対する一塁手の捕球を妨げたり、ホームチーム側の一塁ベンチを直撃するようになってしまった。

こうした問題点は建設当時の広島市助役が、「選手としてはやりにくいのは私もシロウトではないからよく分かっているが、建設省がこれでやれと言うのだから仕方がない」と漏らす等[2]、早期から認識されており、そのため完成当時は1塁側・3塁側のどちらのベンチを使用するか、ルール上の選択権がホームチームにあることを利用し、デイゲームではホームチームの広島が3塁側ベンチを使用することがあった他、ナイトゲームでも太陽が完全に沈むまで試合を開始しない措置がとられることもあった。

1959年にはレフトスタンドの最上段に木製の日よけ設備が完成、これに企業広告を兼ねた垂れ幕を張ることで、試合に支障をきたすほど深刻な問題となっていた西日の影響を緩和することが出来るようになった。この日よけ設備は最終的に可動式の大型広告板へと発展した。

[編集] 場内アナウンス・効果音

場内アナウンスは試合前の両チーム先発投手の紹介の際、名前・背番号のみならず、その投手のシーズン成績(その時点まで)を「○○投手は□試合目の登板、○勝△敗セーブ□でございます」のように読み上げる。これはかつて市民球場に大型映像装置など情報を表示するための設備がなかった頃から続けられているもので、その名残りといわれている。2007年までは試合前だけでなく、継投の際にもアナウンスが行われていたが、2008年からはビジョンに勝敗とセーブを表示するようになったため、アナウンスは省略されている。

広島・相手の選手に関わらずホームランが出たときには球場独特のファンファーレが鳴る。ほぼ10年周期で曲は変わり、1982年から1992年まで使われていたファンファーレが特に有名だが、2005年以降は鳴らなくなった模様。 かつて1980年頃までは7回裏の開始時(ラッキーセブン)にも当時のホームランのファンファーレとよく似たファンファーレが鳴り、そのあとラッキーセブンのアナウンスが行われた。

また試合開始のプレイボールがかかると、フランツ・フォン・スッペ作曲の「軽騎兵序曲」が流れる。広島市民球場での1回裏の広島の攻撃が始まるとき、そしてビジター球場でも1回表の広島の攻撃が始まるときにも広島応援団のトランペットでこの曲が演奏され、それが応援開始の合図となっているほどこの曲はファンの間で定着している。

[編集] 放送ブース

放送ブースはバックネット裏(グラウンドの最前列)と、1階席と2階席の中間の2箇所に設置されている。テレビの中継でも頻繁に映っているバックネット裏のブースはラジオ放送用に使われ、選手のプレイを間近で見る形で放送することとなり1塁寄りから順番に第1放送席から第4放送席まである。第2放送席はNHKが、第3放送席はRCCが所有している。

[編集] 照明設備

  • 1957年の開場当初はスタンドにせり出す形での鉄塔式であった。
  • 1986年から2年かけて行われた2階席設置工事に伴い、死角となるスタンド内の鉄塔を外し(1986年は内野側、1987年は外野側も)、スタンド外の鉄柱方式に変更された。
  • 現在はナイター設備はそのまま残っているものの経費削減のためナイター用電源は使えないようにしているため、夜間開催が出来なくなった。

[編集] トピックス

  • 原爆ドーム広島平和記念公園に近く、原子爆弾が広島市に投下された8月6日(原爆忌・広島平和記念式典)は市民球場の「休場日」となっている。これは同日が広島市の条例で定められた市職員の業務休止日であり、それに伴い市民球場も休場日になることによるものである。カープは同日、開場年の1957年と翌1958年の2シーズンは市民球場で主催公式戦を開催していたが、前述の事由や式典開催による市内中心部の交通事情の問題などもあって翌1959年以降、同日に主催試合が組まれた場合は福山市福山市民球場尾道市しまなみ球場などで行っている。ただ、被爆60周年にあたる2005年頃から「原爆の日に市民球場で公式戦をして欲しい」という意見が市民やファンから寄せられていた。「市民球場は広島市の復興のシンボルであり、カープの試合を通じて平和の喜びをかみしめたい」などといった事がその理由である。こうした意見を受けて2007年夏、市は広島球団に対し翌2008年、市民球場最終シーズンである事に因み、同日の市民球場での公式戦開催を要請した。仮に実現すれば応援団にトランペットや太鼓など鳴り物の自粛を呼びかける方針も決まっており、球団側も「原爆の日に、市民球場で試合が出来るのは最後のチャンス。(記念式典で)全国から多くの方が集まる日でもあるし、日程が取れればやりたい」と前向きだった。だが結局、同日の広島はビジターの対阪神戦(京セラドーム大阪)となったため、実現には至らなかった。
  • 屋根がないために雨天順延の可能性があり、日米野球など日程の詰まっている大会では市民球場の使用が敬遠される傾向にある。また1995年を最後に市民球場でのオールスターゲームは行われなくなっていた。2002年の広島主管試合は松山坊っちゃんスタジアムで開催された。なお、2009年に新球場で開催された。
  • 1986年の日本シリーズ第1戦では、相手チーム西武のロゴの作成が間に合わなかったのか、スコアボードの表記は「西武」「C」となっていた。また、そのシリーズ後半では、西武側もアルファベット表記になったが、筆記体の「L」ではなくブロック体の「L」だった。
余談だが1984年の日本シリーズでは、「阪急」「広島」の表記だった。
  • 山本浩二の現役時は、当初は他に同じ山本姓の山本一義が在籍していたために場内アナウンスではフルネームで呼んでいた。一義が引退してコーチに就任し、山本姓が浩二一人になった時期もあったが、その多大な貢献を称えるために「山本浩二」とコールしていた。
  • スポーツイベントでは現在基本的に野球の試合にのみ使用されているが、1960年代にはサッカーの試合が行われたこともある。現在のJリーグオールスターサッカーの源流ともいえるJSL東西対抗戦では1966年(第1回)・1967年(第2回)のそれぞれ第1戦の会場としても使用された。
  • 球場自体が50年前に作られたものであるため売店スペースが他の本拠地に比べて非常に少ないが、市内の製麺会社が出店していたうどんは非常に人気が高く「カープうどん」の愛称で親しまれ、年間約10万6000食を売り上げた人気商品であった。

[編集] トラブル

  • 広島市民球場ではこれまでに2回、トラブルによる試合中止が発生している。
  1. 1964年6月30日阪神タイガースとの対戦において、阿南準郎選手が送りバントをおこない、一塁走者を進塁させた。ところが審判が一度フェアと判定したバントを、ノーバウンドの小フライとし、二塁へ進塁なしのアウトと判定をくつがえし、試合が紛糾した。このプレーをめぐって、広島側が抗議。試合の続行を求めたものの審判が選手の健康管理上の問題やファンの交通移動などの問題などから試合を打ち切った。しかしこれに怒ったファンが抗議し、グラウンドに乱入し球場施設を壊したため、7月1日2日に開催する予定だった残りの2試合を含む3連戦の開催は取りやめられた。
  2. 1975年9月10日に行われた中日ドラゴンズ戦でも、試合中のプレーをめぐる乱闘などの影響でファンが球場に乱入。やはり球場の施設が破壊され、中日の選手・コーチが負傷する事態が起きた影響で9月11日の試合も取り消しとなった。その日、9月10日は当時中学生だったタレント風見しんごもグラウンドに乱入し、星野仙一に砂をかけるなどしている。その後、風見が「僕、笑っちゃいます」で「ザ・ベストテン」(TBS)に出演した時に、その時のお詫びをしたいとスタジオから電話で星野仙一に詫びたというエピソードがあり、星野も「何か小僧に砂をかけられたことは覚えている」と語った。
  • 1990年5月12日巨人戦の試合途中、バックネットに黄色い忍者装束の男がよじ登り、グラウンドに向けて『巨人は永遠に不ケツです ファンをアザムクナ 悪ハ必ズ滅ビル』と書かれた巨人を揶揄する垂れ幕をぶら下げ、更にはグラウンドに向かって発炎筒を投げつけ、巨人ベンチに向かって手裏剣を投げるという椿事が起きた。試合は中断し、男は広島中央署員に威力業務妨害現行犯逮捕され、10分後に試合は再開した[3]。調べに対して男は『桑田問題など最近の巨人は許せない』などと供述していた。男は当時39歳東広島市在住で、職業は農業だった。

[編集] 命名権導入の検討

2006年6月、広島市に常石造船(現ツネイシホールディングス)が市民球場の施設命名権購入を申し出た。希望額は年間2億円。この他イズミ、章栄不動産も市民球場の命名権の購入を申し出た他、7月に広島郷心会がマツダに対して命名権購入の提案を行うなどの動きがあった。市は命名権の売却を進めるか否か、市議会や市民の意見などを聴いた上で検討作業を開始。そして2007年春、市は同年シーズン後半から命名権を売却する方針を一旦内定し、より具体的な検討に入った。

しかし、同年が市民球場の開場50周年にあたることもあって、市民・ファンの関心がより高まりつつある中で、売却に対する慎重論が強まりつつあった。さらに、仮に売却に踏み切ったとしても、契約期間は新市民球場完成までの僅か2年弱に限られる点が大きなネックとなったことなどから、同年6月8日に定例記者会見を行った広島市長秋葉忠利は「歴史の重みと市民の愛着の強さを感じる。“市民球場”という名称に愛着が深く、市民の関心が想像以上に盛り上がっている中で命名権を導入するのは難しい」として売却を見送る考えを表明し、結局導入には至らなかった。

[編集] セ・リーグ試合開始遅延記録

2007年9月24日に行われた広島対東京ヤクルト第20回戦は降雨の影響で、試合開始時間が本来予定していた18時から1時間29分遅れ、19時29分に開始された。これはセ・リーグ公式戦の開始時間最長遅延記録である。

また、それに次ぐ遅延記録も当球場で、1994年8月20日の広島対巨人第21回戦が1時間27分遅れで開始されている。

[編集] 相手チームのお別れ・追悼セレモニー

1985年8月17日の阪神戦で、同年8月12日JAL123便墜落事故で犠牲になった阪神球団社長の中埜肇を追悼するセレモニーが行われた。両チームの選手や首脳陣らが試合前に黙祷し、当日はスコアボード上にある広島・阪神両チームの球団旗を半旗にして試合を行った。

2007年9月27日の東京ヤクルト戦では、この年を最後に引退する古田敦也選手兼任監督代打で登場。両軍のファンからエールを送られ、広島の応援団は古田の応援歌をトランペットで演奏、広島ファンは恒例のスクワット応援を行った。第一打席は今シーズン初安打の中前打。第二打席は中越え2塁打だった。対戦投手は先発投手の黒田博樹。試合終了後、敵地では異例のお別れセレモニーがあり、広島のマーティ・ブラウン監督から花束を渡された。セレモニー終了後、古田はグランド一周し、サインボールを36球投げ入れ、両軍ファンは、古田の引退を惜しんだ。

[編集] コンサート開催

騒音問題などを理由に、他の野球場では行われている大規模コンサートは当球場では開催を認められていなかった。広島市出身で大のカープファンとしても知られている奥田民生は、「ギター一本のアコースティックライブ」という自らのスタイルを主張して説得を続け、初の市民球場コンサート開催にこぎ着けた。このコンサートを行なうにあたり、

  1. 音量を制限すること
  2. グラウンドに観客を入れないこと
  3. 20時までに公演を終了させること

以上の3つが条件として提示され、奥田側もこれを了承、2004年10月30日に開催された。

2007年8月9日には、球場開設50周年記念として、前年の2006年を以って終了した平和祈念コンサート『夏 長崎から さだまさし』の広島版『広島市民球場開設50周年記念「2007 夏 広島から さだまさし」』がさだまさしによって開催された。この日さだは本球場の50周年にちなんで背番号50の広島カープのユニフォームで登場、郷里で同じ被爆地・長崎からの想いを込めて「やっと来たぞ!」と叫び、喝采を浴びる。さだは奥田と違い通常のバンド構成でコンサートを行ったが、翌日球場長へ挨拶に行ったところ、平和祈念コンサートだったということもあってか「音の苦情は一件もありませんでした」と言われたという[4]

[編集] お別れイベント

最後の年に掲げられたお別れメッセージ

2008年5月19日、広島市民球場の最後のイベントとして『ありがとう!! ベースボールフェスタ』を2008年12月6日に開催することが発表された[5]

当日は雪の舞う中、カープ創成期を支えた初代「ゴジラ」藤井弘から、2年前まで現役で市民球場のグランドで活躍した佐々岡真司など総勢56名のカープOBが古葉竹識監督率いる「チーム・カープ」、阿南準郎監督率いる「チーム・広島」に分かれ紅白戦が行なわれ、2万8千人の観衆が市民球場との別れを惜しんだ。

なお、2009年3月にオープン戦4試合をこの球場で開催した。カープの市民球場最終戦は3月22日の阪神戦で、駆けつけた大勢のファンが最後の別れを惜しんだ。新球場では芝の育成などの観点から初年度の一般利用を制限する方針もあって10月いっぱいまでは現球場をJABA広島大会夏の高校野球広島県予選などに開放する方針であり[6]、正式に閉場するのはその後となる。

またスポーツ以外では2009年8月15日に地元のFNS系列局であるtss主催のコンサート「サウンドマリーナ2009」が旧市民球場行われる。これは広島市制施行120周年事業の一環としても行われた。

[編集] 立地

広島市の中心部にあり、旧太田川の左岸(東側)、広島市中央公園の敷地内にある。原爆ドームがある広島平和記念公園とは道路を挟んで向かい合っている。また、繁華街の紙屋町にも近く、そごう広島店基町クレドデオデオ本店シャレオ等の商業施設、広島県庁舎広島市立広島市民病院等の行政機関も近い。日本の屋外球技施設の中では数少ない都心に立地する球場である。

市内の中心部でネットワークを作る広島電鉄の路面電車や、市北西部の住宅地まで延びるアストラムラインでの来場は便利である。また、高速バスをはじめ、市の内外に路線が延びる広島バスセンターの真横であり、出発時の僅かな隙間からでは有るが、球場内を見る事が可能である。一方、広島駅からは少し離れているため、JR西日本を利用した郊外からの観戦には若干不便である。広島駅からの交通手段は路面電車で2号線・6号線(広電宮島口行と江波行)と、バス、タクシーがある。

[編集] 球場周辺

球場の外には、カープに掛けた勝鯉の森(しょうりのもり)があり、日本一及びセ・リーグ優勝の記念碑がある。また、衣笠祥雄の連続試合出場記録を記念した石碑もその中にある。その他世界の子供の平和像も敷地内にある。

施設では、広島商工会議所や広島市青少年センター、ハノーバー庭園(ドイツハノーファーとの友好を記念して作られた公園)、広島県立総合体育館(広島グリーンアリーナ)があり、建て替え議論の時には移転を含めて協議された。

戦前まで廣島護國神社がこの地にあった。広島市への原子爆弾投下で建物は完全に破壊されたが、鳥居は唯一残り、中国放送横に移設され、現存している。

勝鯉の森は新球場が完成しても現在の場所に保存されることになっている。

[編集] 最寄駅

[編集] 新球場建設と跡地利用

[編集] 新球場

詳細は「新広島市民球場」を参照

[編集] 跡地利用

新球場の整備計画に平行して、現在の広島市民球場の跡地利用に対し、広島市は多くの意見を集めている。

この土地は、広島平和記念公園原爆ドームの平和祈願地区、広島そごう基町クレドなどの商業地区、広島市中央公園の三つが接する広島の中心地で、現球場の集客人員に匹敵する年間150万人の集客が見込める土地利用とすることとした。ただし都市公園法の制限を受け、またこの場所が国有地であるため、建てられるのは文化施設、スポーツ施設、防災施設などに限定された。

その中で、公園、サッカー専用スタジアムに改修しサンフレッチェ広島のホームスタジアム化する計画、水族館、観覧車などさまざまな計画が挙がったが、世界遺産である原爆ドームに隣接しており、危機遺産への登録を回避するため、大型施設の建設は回避されるようになった。まず2007年4月に「平和祈念堂」「ビオトープ型水族園」「多目的広場を中心とした都市公園」の3案から最優秀案を選ぶことが発表された。その後2007年8月23日に広島市は、「平和祈念堂」「ビオトープ型水族園」の2案を優秀案としたものの最優秀案は「該当なし」とし、各優秀案を提案した事業者に対して、「周辺商業施設や商店街と連携したにぎわい創出などを求める」として計画案の一部修正を要望、2案を軸に跡地利用案を決定したいとしている。

一方で、地元経済界には「優秀案では集客力が不足している」として不満が残っており、2007年8月に広島市中央部商店街振興組合連合会が広島市に対して、「(跡地に)広島市が選考対象とした3案はいずれもふさわしくない」とする自ら実施したアンケート結果を提出した。また完成後の新球場使用と並行し、「戦後の広島復興の象徴」として現広島市民球場の保存・活用を希望する声も一部であがっている(2008年11月には約1万人分の解体反対署名を広島市に提出している)。広島市では施設の老朽化もあり解体の基本方針は変えていないものの、このような市民の声に応える形で、ライトスタンドの一部約3000席を解体せずに戦後復興のシンボルとして保存する方針である[7]

2008年2月、広島商工会議所が、球場跡地の一角に位置する自らの建物について移転を具体的に検討する考えを表明。改めて広島市と球場跡地全体の活用策を話し合いたいとしており、広島市側も「いい結果が出るまで少々の時間の調整が必要なら、それも視野に入れたい」と応じる構えではある。同年6月には、国連機関や国際機関を誘致する候補地に挙げられていることが報道されるなど、跡地の今後の活用方法については流動的である。

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 当時のフランチャイズ制は仮のもので、球場で登録されていた。
  2. ^ 『さよなら ぼくらの広島市民球場』(ISBN978-4-88517-355-4)P13より
  3. ^ ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年9月29日号 「広島市民球場小史」71ページ
  4. ^ TV Station掲載のさだのエッセイ「もう愛の唄なんて歌えない」より
  5. ^ 幕閉じる広島市民球場でカープOB戦 スポーツニッポン 2008年5月19日閲覧
  6. ^ 広島市民球場10月末まで開放 - 中国新聞2009年1月20日付
  7. ^ 広島市民球場跡、外野スタンド一部を保存 - 中国新聞2009年1月16日付

[編集] 参考資料

  • ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年9月29日号 「我が心の野球場 終演へのカウントダウン」12-17ページ

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

前本拠地:
広島総合球場
1950 - 1957
広島東洋カープの本拠地
1957 - 2008
次本拠地:
新広島市民球場
2009 -

最終更新 2009年9月6日 (日) 06:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【広島市民球場】変更履歴

ご利用上の注意