廉頗

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廉頗(れんぱ、生没年不詳)は、中国戦国時代将軍藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。趙国の名将としても高名である。

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[編集] 経歴

[編集] 刎頸の交わり

史記』によれば、当初、趙の総大将として、武功によって数々の功績を得た自分に対し、口先だけの働きで手柄を挙げ、位も自身より上回っている相如との仲は、極めて険悪で、だれかれ構わず己の不満を口にした。その噂を耳にした蘭相如は、それ以来、病と称し外出をやめた。

それから何日か経ったある日、家臣の薦めで、相如は馬車で散歩に出かけた。その道中で前方に廉頗の姿を見つけた相如があえて道を変え、廉頗の通り過ぎるのをまってから引き返す、といった事件が起こった。その夜、この振る舞いを見た家臣たちは一堂に会し、「ご主人さまの匹夫のような振る舞い。さらにそれを恥じないご主人さまの態度には我慢がいきません」といい、辞職を申し出た。すると相如は、「強大なる国がわが国を滅ぼそうとしないか解るか?それは、わたしと廉頗将軍がいるからだ。今、廉頗将軍との間に亀裂が生じれば、それこそ秦の思う壺。わたしがあのような行いをするのは国家のためなのだ」と家臣を諭した。

この話はたちまち宮中に広まり、廉頗は上半身裸の姿で相如を訪ね、自分の不徳と愚かさを恥じ、「この荊(いばら)の鞭でわたしをお打ち下さい」と手にしていた鞭を差し出した。相如は、「将軍あっての趙国だ」といった。廉頗は心から心服 し、「あなたのためならば、たとえ頸(くび)を刎ねられても悔いはありません」といい、また相如も「わたくしも将軍のためならば、喜んで頸を刎ねられましょう。」といった。「刎頸の交わり」、「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。

[編集] その後

数年後、天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。そんな折、秦は王コツに趙の上党を陥落させた。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。

敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのである。

その後、廉頗は他国に身を寄せ、余生を過ごした。

非常に大食漢だったと伝えられていて、1斗(10升)の米を食ったといわれている。

[編集] 関連項目

  • 黄忠 - 三国志演義で廉頗を持ち出して、老齢になっても十分働けることを主張した。

最終更新 2009年11月14日 (土) 22:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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