建文帝
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| 建文帝 朱允炆 | ||
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| 明 | ||
| 2代皇帝 | ||
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| 王朝 | 明 | |
| 在位期間 | 1398年 - 1402年 | |
| 姓・諱 | 朱允炆 | |
| 諡号 | 譲皇帝(南明福王による) 恭閔恵皇帝(清朝乾隆帝による) |
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| 廟号 | 恵宗(南明副王による) | |
| 生年 | 1377年 (洪武10年) |
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| 没年 | 1402年 (建文4年) |
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| 父 | 朱標(懿文太子、興宗) | |
| 年号 | 建文:1398年 - 1402年 | |
建文帝(けんぶんてい)(1377年12月5日-1402年?)は明朝の第2代皇帝。靖難の変により永楽帝に簒奪されたため明代では皇帝としての存在が否定されていた。日本ではその在位中の元号から一般的に建文帝と称される。
目次 |
[編集] 生涯
1377年、洪武帝の長子で皇太子であった朱標(懿文太子、興宗)の次男として生まれた。生母は朱標の側室呂氏。1392年、父・朱標が死去したため、皇太孫に立てられた。1398年、祖父・洪武帝の死去により、第2代皇帝に即位した建文帝とその側近の方孝孺らは地位を確固たるものとするため、皇族の力を弱めることを画策し、周王、斉王、代王をそれぞれ庶民に落とし、湘王を自殺させ、岷王を漳州に流した。
建文帝にとっての最大の政敵は燕王・朱棣であり、上記の諸王を廃したのは燕王を粛清するための事前準備であった。これに危機感を持った朱棣は君側の奸である方孝孺らを殺して朝廷を靖めると称し、軍を起こした(靖難の変)。兵力では燕王軍の数万に対し、南京の建文帝軍は50万超と圧倒的に勝っていた。しかし、燕王軍は北のモンゴルと度々戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったのに対し、南京軍は有能な将軍を欠いていた。これは洪武帝が有力な部下に皇位を簒奪されるのを恐れ、藍玉ら建国以来の有能な将軍を次々に誅殺していたためである。
しかし指揮官の質だけでは兵力差を覆すには至らず、内乱は長引いた。建文帝はその元号からもわかるように文治政策を重視し、出陣する将軍に対して叔父殺しの汚名を自身に与えぬようにすることと訓示したり、戦闘中に朱棣が死んだという誤報を信じ、将軍を首都に召還したりした。このような状態であり、建文帝の軍事的な優位は確立しなかったどころか、逆に離反者を招く始末だったとされる。
1402年、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。当時は僧に変装して逃亡したとも言われている(先帝の洪武帝から「身の危険があったときに開けるように」と渡された箱を、このとき開けると剃刀と金子が入っていたという)。ただし、逃亡説は伝説的なものに近く、殺されたと考えるのが通説である。享年24。
永楽帝となった朱棣は自らの簒奪を隠蔽するために建文帝の即位の事実を抹消した。その後、明が終わるまで建文帝の正統議論は消えることが無かったが、結局明代には建文帝の名誉は復活しなかった。清代の乾隆帝の時代になるに恭閔恵皇帝と追諡され、明の正統皇帝として認められた。
政略の能力には欠けていたが、拷問の廃止や重税の軽減を実施したため、民からは慕われたという。
幸田露伴『運命』では名君として描かれ、また逃亡説が採られ数十年の余生を過ごしたとされている。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 馬皇后
[編集] 子
- 太子朱文奎
- 朱文圭
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