彦坂郁雄

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彦坂郁雄(ひこさか いくお 1941年1月5日 -)は元競艇選手。選手登録番号は1515。現役選手時代は艇王の異名を取った。後に艇王の異名は植木通彦のことを指すようになったため、さしづめ、「初代艇王」といえる。

最初の選手登録地は出身地の静岡であったが、後に千葉へと移る。

目次

[編集] 偉大なる記録の数々

彦坂といえば、競艇界に燦然と輝く大記録を数多く樹立している。SG優勝回数は後述するとして、これだけの記録を保持している。

  • 期勝率第一位回数…20回(歴代最多)
  • 連勝記録…37連勝(1970年3月22日~同年4月22日までの期間。歴代最多)
  • 特別競走(SG・GI)優勝回数…77回(歴代最多)
  • 年間特別競走優勝回数…9回(歴代最多タイ)
  • 期勝率史上初の9点台…9.27(1970年後期)
  • 全24場特別競走優勝(史上唯一)
  • 優勝回数…179回(歴代1位)

特筆すべきは期勝率1位回数20回で、歴代2位の野中和夫でさえ10回。続いては今村豊の9回である(2007年5月11日現在)。

また、連勝記録の37についても、第2位の同記録は山岡豊年の25だから、かなりの差がある(2007年5月11日現在)。

さらに最多タイ記録である連続優勝回数6回も保持していたが、2007年7月29日に前本泰和が7連続優勝を果たしたため、塗り替えられた。

[編集] 北原、野中との戦い

彦坂のライバルとしてまず挙げられるのは、SGが4冠制となってから最初のグランドスラマーである岡山の北原友次である。北原とは同年代ということもあったが、とにかく色々な面においてライバル心をむき出しにし、また、この両雄は色々な面において因縁があった。

1970年に常滑競艇場で行われた全国地区対抗競走で彦坂はSG初優勝(当時は4大特別競走といった)を果たすが、2着が北原だった。また、北原がグランドスラムを達成した1978年の総理大臣杯競走丸亀競艇場)では、実は彦坂も完全優勝に王手がかかっていた。

そして、北原以上の強敵が後に現れる。「モンスター」の異名を取った野中和夫である。

野中は25歳でデビュー(1969年)するという遅さだったが、SGを優勝するのはその5年後の1974年。この年野中は、笹川賞競走(第一回の優勝者)、モーターボート記念競走全日本選手権競走とSG3連覇の偉業を最初に達成。そして、期勝率第一位も1972年前期~1976年前期までの間は、彦坂と野中の2人だけしかなっていない。いつしか、東の彦坂、西の野中と言われるようになったが、実はお互い、ほとんど口を聞くことはなかったそうで、お互いがライバル心をむきだしにしていた感があった。

ところで、野中が不正行為(当時のスポーツ新聞、週刊誌報道によると奥さんがクラブを経営していて商売上で暴力団関係者と交際があると取調べを受けた)をはたらいたということで一時競艇界から事実上の追放処分を受けたことがあった。

結果的に不起訴処分となってまもなく野中は復帰することになるが、1982年、蒲郡競艇場で行われた第28回モーターボート記念において、野中は施行者希望選手枠で出場。つまりこの大会がSG大会としては復帰緒戦であった。野中は優勝戦へも進出したが、ここで彦坂と激突。1コースに構えた野中に対し、5コース回りの彦坂はトップスタートを決めて野中にプレッシャーをかけ、2周1マークにおいて差しのハンドルを決め、そのまま押し切って優勝した。

この大会の優勝戦では話題性はもちろん、勢いに乗る野中が人気の中心となっていたが、彦坂は見事に野中討ちを果たした。と同時に、彦坂がSGの優勝戦において野中を直接対決で破ったのはこれが初めてだったのである。

[編集] グランドスラム達成&初代賞金王決定戦優勝者

1985年、福岡競艇場で行われた第32回全日本選手権競走優勝戦において、これまで唯一取り残していたSGタイトルを見事制覇。史上3人目、4冠制となってからは北原友次に次いで、史上2人目のグランドスラムを達成した。

さらに彦坂の偉業はこれで終わらない。翌1986年より新設された、優勝賞金3000万円の賞金王決定戦の優勝戦にも登場。人気を背負っていたのは当時無冠の帝王と呼ばれた香川の安岐真人であったが、彦坂はズブリと2コースから差しのハンドルを決め、安岐の悲願を打ち砕いた。と同時に彦坂は初代同大会優勝者となり、またSG5冠制となってからは最初のグランドスラマーとなった。

[編集] まさかの引退

1988年3月、彦坂は戸田競艇場で行われた第23回総理大臣杯競走において同大会3度目の優勝を果たした。既に47歳、またトップクラスに君臨してからも約30年にもなろうとするが、彦坂にはまだまだSGを優勝できる力が備わっていた。しかしその半年後、競艇界を揺るがす大激震が走る。桐生競艇場において整備違反の行為を行ったとして、選手会が規定により彦坂に対して引退勧告を行ったというニュースが報じられた為である。競艇界における引退勧告は事実上の競艇界追放を意味するものである。

同年9月、整備違反による彦坂の引退が正式に決定した。一応、引退記者会見も行われたものの彦坂のコメントは歯切れが悪く、事の真相が明かされることはなかった。

実は当時、競艇界では整備違反を行う選手が後を絶たず、潜在的ながらも大きな問題となっていた。中にはとある雑誌にて、整備違反のいくつかの手口が紹介されたこともあったという。競艇界は当初、整備違反をした選手については波風が立たぬ形で「引退」させるという手法を取っていたが、それでは中々に根絶する事ができなかった。

業を煮やした競艇界はとうとう、「整備違反があれば公表する」「偽計業務妨害容疑で警察に告訴する」といった強硬方針に舵を切る。事実この頃、当時の有力選手が突然引退に追い込まれるケースが目立った。さらに決定的ともいえる伏線が1988年6月に発生する。

同年5月に選手が各々専用のプロペラを持ってレースに挑むこと、いわゆる「持ちペラ」が解禁されることになったが、その持ちペラ解禁を逆手に取り、当時競艇界ナンバーワンとさえ言われる実力の持ち主であった長崎の国光秀雄が他の2選手と共謀してペラを不正に作為していたことが発覚し、その結果3人とも即刻競艇界から追放された。

そしてついにはその余波が彦坂までにも及んだというわけである。

前述した通り、彦坂がなぜ整備違反に及んだのかという事実は明らかにされていないので事の詳細は闇の中である。だが、彦坂の一件以後、整備違反で引退に追い込まれる選手はほとんどいなくなった。この状況を考えるならば、つまり彦坂には以前より何らかの形で疑惑視する目が注がれ続けていたということになる。

しかしながら彦坂の突然の引退のニュースは、野中の一時引退のときよりもある意味インパクトが大きかった。彦坂のその後の消息は千葉市内で実業家に転進し、海外にも進出している。

他方、競艇ファンの中には彦坂の整備違反について他の選手に嵌められたものであるという見方をしている者も存在しており、彦坂を引退に追い込むべく暗躍した「黒幕」として当時の他の有力選手の名前が挙げられる事も見られるが、あくまでこれは噂や憶測の域を出ないものである。ただ、如何にせん、統括団体なども真相の大半を闇の中のまま、彦坂の引退でかなり強引に問題を収拾させた事もあって、この種の噂は当時を知る競艇ファンの間で長い間語られ続ける事になった。

[編集] SG優勝記録

  • 総理大臣杯競走…1972年・1982年・1988年
  • 笹川賞競走…1978年・1983年
  • モーターボート記念競走…1972年・1982年(完全優勝)
  • 全日本選手権競走…1985年
  • 賞金王決定戦…1986年
  • 全国地区対抗競走…1970年

[編集] 関連項目

最終更新 2009年8月6日 (木) 19:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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