彭徳懐
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| 彭徳懐 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1898年10月24日 |
| 死去: | 1974年11月29日 北京 |
| 出身地: | |
| 職業: | 軍人、政治家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 彭德懷 |
| 簡体字: | 彭德怀 |
| 拼音: | Péng Déhuái |
| 和名表記: | ほう とくかい |
| 発音転記: | ポン・ドーファイ |
彭徳懐(ほう とくかい)は中華人民共和国の軍人。中華人民共和国元帥。国務院副総理兼国防部長、中国共産党中央政治局委員、中央軍事委員会副主席を務めたが、大躍進政策を批判したため失脚。最後は癌に侵されながらも治療を拒否されるなど、紅衛兵らによる虐待の中で死亡した。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 国府軍時代
貧農出身であり、幼くして母親が病死後は生活は困窮、祖母とともに物乞いより糊口をしのぐ生活であった。9歳で家郷を離れ、13歳からは炭鉱勤務、15歳には洞庭湖のダム建設工事に従事している。16歳で国民党軍に参加、湖南軍官講武堂を卒業後中国国民党軍の将校となった。27歳には国民党軍大隊長に任じられていたが次第に左傾化、1927年の蒋介石によるパージのため、1928年中国共産党に加入し、党から毛沢東に協力する指令を受ける。
[編集] 紅軍時代
1928年に平江の武装蜂起を指導し井崗山に籠城していた毛沢東と出会う。毛の撤退後、殿軍を指揮した指導力を認められる。彭の部隊は厳しい軍律と勇敢、団結で定評があり兵士から慕われる理想的な司令官であった。1930年6月に第3軍団の総指揮官に就任、井崗山を本拠に中華ソビエト共和国を樹立していた時期には紅軍の主要な指揮官を務め、多くの軍功を立てている。1934年10月からの長征にも参加。この頃、毛沢東の信を得て、軍功を讃える詩歌を贈られている。
[編集] 日中戦争
1937年の第二次国共合作で紅軍が八路軍に改組されると副総指揮官に任命される。1940年8月の百団大戦を指揮し、八路軍も損害を被りながらも日本軍の補給網に損害を与えることに成功する。1945年8月に中央軍事委員会副主席・参謀総長に就任する。
[編集] 国共内戦
国共内戦時代には西北野戦軍(後に第一野戦軍)の司令官兼政治委員・中国人民解放軍副総司令を務める。1947年に国民党軍が延安を攻略すると一時撤退し遊撃戦で個別の敵を撃破する戦略を採り、1948年4月に延安を奪回することに成功している。1949年には西北部の五省を攻略し、西北局第一書記・西北軍政委員会主席・西北軍区司令官を兼任した。中華人民共和国成立後は人民革命軍事委員会副主席となる。
[編集] 朝鮮戦争
1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争は9月15日には国連軍の仁川上陸作戦により北朝鮮の軍事的優位性が崩壊、国連軍は北進し10月15日には38度線を突破、毛沢東は中国軍を派遣する事を決定した。彭徳懐は林彪に代わって中国人民志願軍の司令官に就任、北朝鮮に入った。(林彪は体調不良を理由に出征を拒否した)中国軍は国連軍への反攻を加え戦線は37度線付近まで南下、ソウルを再度占領した。しかし近代的装備に欠如していた中国軍は体制を立て直した国連軍に苦戦、現在の軍事境界線のラインで停戦した。停戦後の1954年に副首相・国防相に昇格。1955年には元帥に列せられ朱徳に次ぐ序列第二位の軍人となった。
[編集] 廬山会議
1959年に開催された廬山会議を前に農村視察を行った彭は人民公社化と大躍進政策による経済疲弊に直面した。そのため会議期間中に毛沢東に対して上申書(私信)形式で上記政策問題点を伝達し政策転換を求めた。この上申書では毛沢東の指導権は尊重することを明記しており、もとより政権奪取を狙ったものではなかった。
しかし毛沢東はこの予感を自らの権力基盤に対する挑戦と受け止め、批語(批評)を加えた形で会議の参加者に配布し討論の材料とした。当初他の党幹部から大きな反発は起きなかったが、毛沢東が後日の席上で厳しく論難を加え、会議の雰囲気は一変した。この毛沢東の裏切りともいえる行動に彭徳懐も会議の席で反駁したが、結果的に国防相と中央軍事委副主席の地位を解任される。この解任は後任の国防相となった林彪の地位を高め、文化大革命へ向かう端緒ともなった。
その後の文化大革命で迫害を受け、1974年に北京で死去した。死後の1978年に中国共産党によって名誉回復された。迫害中に受けた記録として『彭徳懐自述』がある。
[編集] エピソード
- 毛沢東とは広い中国の中では「同郷」といって差し支えないほど出身地が近い。このため、中華人民共和国成立後も、毛沢東に対して「主席」という敬称を使わない唯一の高級幹部であったが、毛沢東もこれを許容する間柄であった。「東方紅」を歌ったり、毛沢東を賛美する言葉を言うのもはじめから拒否していた。盧山会議で毛沢東が批判したとき、両者は相当に汚い罵り言葉で応酬したという[1]。
- 晩年は悲惨極まるもので、批判闘争会における紅衛兵からの暴行で肋骨を2本折られ後遺症で下半身不随となった。その後、江青の医療服従専案の監督下に置かれ、癌による死の床では、鎮痛剤の注射を拒否され、下血と血便にまみれた状態のままのベッドとシーツに何日も放置された。監禁病室で全ての窓を新聞紙に覆われたまま約8年間を過ごし、死の直前に窓を開けて最後に空を一目見せてほしいと嘆願したがこれも拒否されるなど、拷問に近いものであった。死亡カルテには「王川・四川成都出身・無職」と無関係な名前に変更されていた。同じく迫害死された劉少奇や陶鋳同様「病死」と公式発表された[2]。
- 1965年9月23日の早朝、毛沢東は彭徳懐に電話をかけた。彭は毛の家にかけつけ、二人は盧山会議以来久しぶりに再会した。毛は懐かしそうに彭の手をにぎりしめ「君というやつは。・・・普段は顔を見せないくせに、手紙と来たら何万字も書くんだな。」と冗談を言い、二人はすっかりうちとけて午後3時まで話し合った。それもつかの間、翌年には彭は紅衛兵に攻撃されるのである[3]。
[編集] 出典
[編集] 外部リンク
- 彭徳懐記念館(簡体字)



