後北条氏
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| 北条氏 | |
|---|---|
三つ盛鱗 |
|
| 本姓 | 桓武平氏伊勢氏流 |
| 家祖 | 伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲) |
| 種別 | 武家 |
| 出身地 | 京洛 |
| 主な根拠地 | 相模国小田原 |
| 著名な人物 | 伊勢盛時 北条氏康 北条綱成 北条氏政 |
| 支流、分家 | |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
後北条氏(ごほうじょうし)とは関東の武家・戦国大名。本姓は平氏。家系は室町幕府の幕臣 伊勢氏の一門 伊勢盛時(北条早雲)に始まる。遠い血縁ではあるが、執権北条氏の直接の子孫ではないことから、後世の研究者らが鎌倉幕府の執権北条氏と区別して後北条氏ともいう。また、居城の名から小田原北条氏とも呼ばれる。家系は桓武平氏伊勢氏流。代々家督は御本城様と呼ばれ、「禄寿応穏」と刻まれた虎の印章を使用する。三つ鱗の家紋は蝶紋に準じた桓武平氏の代え紋で、北条・伊勢の両氏に共通する。後北条氏では高さを低く変形させて「北条三つ鱗」を主の家紋としている。通字は「氏」。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 伊勢新九郎
室町幕府の御家人・伊勢氏の一族である伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が1476年の今川義忠の戦死をきっかけにして起こった今川氏の内紛の際に甥の今川氏親を支援したことが伊勢氏(北条氏)が関東圏に勢力を築くきっかけとなった。この功績により氏親に駿河国興国寺城を与えられて本拠とし、力を蓄えて1493年に足利茶々丸の堀越公方を滅ぼした。この後、積極的に伊豆国を侵略して所領とし、下克上を現実のものとした日本史上初の戦国大名とされる。1495年(近年では1501年説もある)に大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城にて三浦氏の三浦義同を滅ぼして、相模国全域を征服した。宗瑞の子氏綱の時、名字を伊勢から北条に改め、北条氏を称した(遡って伊勢宗瑞を「北条早雲」と呼ぶのはこのため)。
[編集] 北条改姓
先に述べたように北条氏の本姓は伊勢氏(備中伊勢氏)である。現在では伊勢氏は室町幕府に仕えた身分の高い一族であることが判明しており、関東支配において不利になる要素ではなかった。それでもなお北条の名にこだわったのは、鎌倉幕府を支配した執権北条氏の影響力を利用しようとしたためと言われている。氏綱から名乗った官途名左京大夫、氏康から名乗った受領名相模守も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名乗ったものを踏襲したものである。当主が左京大夫、隠居した際に相模守を名乗るのが通例だった。歴史研究家・小和田哲男の主張によると、北条氏は京都との接触を最低限に止め平将門以来、関東にある独立の願いを具現化することを目的としていたとされる。そのために関東管領職の継承を至上の望みとし、関東公方を君主とした関東独立国家を目指していたのである。
[編集] 領土拡大
北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に五代続き、関東管領上杉氏や関東公方足利氏を追って関東地方に勢力を振るった。古河城を治めた後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下であった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘に於いては敗退が目立つが、着実に支配を広めた。織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結ぶなど、最大版図は240万石に達したとされる[1]。
[編集] 小田原征伐
小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州征伐で電撃的に西日本を統一した豊臣氏への服従を拒否したため、1590年に豊臣秀吉の征伐を受け滅亡。この時点まで秀吉は明智光秀・柴田勝家などの勢力を滅ぼしたとはいえ、毛利・長宗我部・島津・徳川・織田といった大名家を廃することなく処した。しかし北条氏が最終的に断絶の仕置きとなったのは、強すぎた北条の存在を背景に政治的な戦略を考慮しなくてはならなかったためだとする説がある。日本の東西が別の国であるかの如き認識は、当時一般的なものであったと思われる。後北条氏は天下統一を否定し、東国の主を目指したことが考察できる。
その一方で、豊臣政権が目指していたのは北条氏を滅亡させる事ではなく、あくまでも惣無事令の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を掌握する事で全国の諸大名を支配する事にあったとする説もある。徳川氏や島津氏などは豊臣政権とは一度は交戦に至ったものの、最終的な決戦を前に当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓う事によって本領が安堵されている。現に真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初は仲裁者の立場に立っており、結果的に一度は北条氏有利の裁定を下しているのである。もしもこうした双方の思惑の違いが「ボタンの掛け違い」を生み出すことが無ければ、北条氏滅亡は避けられたのかもしれないといわれている。
北条氏は氏政の代において、織田信長に臣従を申し出ている。氏直の嫁を織田氏より迎えて織田の分国としても構わないという提案である。武田勝頼が織田信長と同盟して敵対しかねないという状況で、先手を打って織田と同盟するための先見的な策であったと言える。しかし、武田征伐の恩賞は無く一益の関東入りとなっていた。本能寺の時点で同盟は中途半端な効果となり北条家が上方に不信感を募らせる遠因と見なされる。
[編集] 小田原開城以後
小田原城開城の際、隠居の氏政及び氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎処分中とはいえ大名待遇の1万石を家臣や家の維持費用に給されていた。翌1591年、領土喪失のショックで鬱状態だったと言われる[要出典]氏直は疱瘡で死去。近いうちに国持大名として氏直が再封される予定があったともされている。氏直の遺跡は養子の氏盛(叔父氏規の子)が継いだ。実子に氏次がいたとされるが、実在は疑問視されている。氏直の義父であり、同盟関係にあった家康が天下を掌握すると、縁故の数家が再興されている。
[編集] 系譜
凡例 - 太線は実子、細線は養子、太字は当主
- 後北条宗家 及び 長綱系統
(早雲本人は北条を名乗っていないが、通常彼から北条氏の初代と数える)
早雲(伊勢盛時)1 ┣━━┳━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓ 氏綱2 氏時 氏広 長綱(幻庵) ┣━━┳━━┓ ┝━━┳━━┳────┐ 氏康3 為昌 氏尭 氏隆 綱重 長順 三郎 ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ ┃ 氏政4 氏照 氏邦 氏規 氏忠 三郎 氏光 氏隆 ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ 氏直5源五郎 氏房 直重 直定 氏盛 氏則 ┃ ┃ 氏次 氏時 ┃ 氏時
為昌 | 綱成 ┣━━┓ 氏繁 氏秀 ┣━━┳━━┳━━┳━━┓ 氏舜 氏勝 氏成 直胤 繁広 ┝━━┳────┐ 繁広 氏明 氏重 ┃ 正房 ┣━━━━━━━━┳━━┓ 氏平 氏元 氏如 ┣━━┓ | 氏英 勝広 氏如 ┃ | 氏庸 氏孝 | ┣━━┓ 氏応 義氏 氏紀 | | 氏興 氏紀 ┣━━┳━━┓ ┝────┬────┐ 氏乾 氏統 興紀 知恭 氏泰 氏統 ┣━━┳━━┓ | 氏征 乾晴 乾任 氏富
[編集] 評価
[編集] 軍事面
10万の動員を可能とした北条の戦力は伊達氏・北条氏・徳川氏・長宗我部氏、織田信雄を結ぶブロックの形成をも見据えた構えを示し、関東自立を目指した。
早雲の代に上杉配下の幕僚であった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模であり、鉄砲の導入にも積極的であった。
また小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。各城はランク付がなされ、城主は人事異動・昇降格により配置換えがなされるという、近代的なシステムであった。
技能集団として「忍者」の実態には諸説あるが、傭兵や後代の賤民集団に繋がる人達であったと解釈される場合が多い。例外的に当家の風魔小太郎は「歴(れっき)とした士分」として国政に参加していた記録が残っている。
[編集] 内政面
内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際などに大掛かりな検地などを行うことで在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、飢饉の際に減税を施すなど公正な民政により安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。
家庭内において、正室が重んじられ一族のほとんどが同母兄弟となっている。これらの政策により、末期の混乱に至るまでは家臣の離反や継嫡騒動の見られない希有な戦国大名だった。近隣の武田氏、今川氏などの家中が混乱を極めたことと比すると特長が映える。
東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血筋を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来によるシステムの整った官僚制をもって力を蓄えた。飢饉の年次に家督交代して徳政令を施すなど、地方にあっては極めて稀有な組織的に洗練された家中体制であったと評価できる。
[編集] 主要な一族のその後
- 氏直の叔父に当たる氏規は秀吉より河内狭山に7千石の所領を授かっていた。氏規の死後、子である氏盛は氏直から受け継いだ所領・下野4000石と父の遺領7千石の合算継承が認められ、合計1万1000石となり大名として河内国狭山藩を立藩した。狭山北条氏はその後、減封に遭ったり、数度に渡り養子を迎えたりしながらも転封されることなく幕末を迎える。明治維新後は大名として華族に列せられ、1万石の定格で子爵を授けられた。公明党書記長・創価学会4代会長を務めた北条浩はその末裔に当たり、実弟が現当主にあたる。
- 傍系の綱成の子孫であり、鎌倉衆を束ねていた氏勝は徳川家康に仕え、下総国岩富藩を立藩した。氏勝は養子として保科氏から氏重を迎えた。氏重はその後3万石を領するようになるが、無嗣廃絶となる。なお、氏重の外孫に大岡忠相がいる。
- 氏勝の甥に当たる氏長は幕臣として500石で登用された後、大目付等を歴任し、2000石を超える旗本となる。子孫も功績を重ね最終的に3400石余の大身旗本として存続した。
- 氏直の弟(氏政四男?)である直重(後に千葉邦胤の養子となり、「千葉直重」と名乗る)は阿波蜂須賀氏に仕官し苗字を「大石」、のちに北条氏の元の家名である「伊勢」と改めながらも続いた。
- 特殊な例として氏忠の娘・姫路が西国の毛利氏に預けられた。毛利輝元は家臣・出羽元盛の次男を姫路に婿入りせて「北条就之」と名乗らせた。この北条氏は江戸時代を通じて萩藩士として活動し、幕末には大坂留守居役北条瀬兵衛(伊勢氏華、伊勢華(さかえ))、幕府の咸臨丸で訪米した北条源蔵(伊勢煥)兄弟を出した。
その他の旧家臣団の多くは徳川氏に引き継がれ、関東直領の経営を支えた。また、各大名家にも人物を輩出した。
[編集] 系譜
凡例 - 太線は実子、細線は養子、太字は当主
- 狭山藩主家
氏盛1
┣━━┳━━┓
氏信2 氏利 氏重
┃ ┣━━┳━━┳━━┓
氏宗3 氏治 氏清 氏澄 氏朝
|
氏治4
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氏朝5
┣━━┳━━┳━━┳━━┓
氏貞6 民部 氏副 氏従 氏比
┣━━┳━━┳━━┓
氏彦7 正喬 氏格 恭順
┣━━┓
氏昉8 氏幹
┣━━┓
氏喬9 氏迪
| ┃
氏久10氏燕
|
氏燕11
|
氏恭12
┣━━┳━━┓
謙吉 釐三郎 雋八
┣━━┓
尚 浩
[編集] 主な一族
数字は当主継承順位
- 伊勢宗瑞(北条早雲)【一】
- 北条氏綱【二】 - 宗瑞長男
- 北条氏時 - 宗瑞次男
- 北条氏広(葛山氏広) - 宗瑞三男
- 北条幻庵 - 宗瑞四男
- 北条綱高 - 氏綱養子(妻は宗瑞娘)
- 北条綱成 - 氏綱(または為昌)婿養子(玉縄北条氏)
- 北条為昌 - 氏綱三男
- 北条氏尭 - 氏綱四男
- 北条氏康【三】 - 氏綱長男
- 北条氏政【四】 - 氏康次男(長男夭折のため実質長男)
- 北条氏照(大石氏照) - 氏康三男(大石氏を継承)
- 北条氏邦(藤田氏邦) - 氏康四男(藤田氏を継承)
- 北条氏規 - 氏康五男
- 北条氏忠(佐野氏忠) - 氏康六男(佐野氏を継承)
- 北条三郎(上杉景虎) - 氏康八男(上杉氏へ養子)
- 北条氏光 - 氏康九男
- 北条氏直【五】 - 氏政次男(長男夭折のため実質長男)
- 太田源五郎(実名不詳) - 氏政三男(武蔵太田氏を継承)
- 北条氏房(太田氏房) - 氏政四男(源五郎を継承)
- 千葉直重(北条直重) - 氏政五男(下総千葉氏を継承)
- 北条直定(氏定) - 氏政六男
- 北条氏繁 - 綱成長男
- 北条氏舜 - 氏繁長男
- 北条氏勝 - 氏繁次男
- 北条氏成(直重) - 氏繁三男
- 千葉直胤(北条直胤) - 氏繁四男(武蔵千葉氏を継承)
- 北条繁広 - 氏繁五男
[編集] 主要家臣
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御由緒家 御家中衆 江戸衆←伊豆衆 江戸衆 |
小田原衆 御馬廻衆 伊豆衆 津久井衆 |
松山衆 玉縄衆 御馬廻衆 足軽衆 |
水軍 忍者 北条氏照家臣 影響下 |
[編集] 後北条氏の城
- 主な支城
伊豆
■ 山中城
武蔵
■ 江戸城 ■ 滝山城 ■ 八王子城 ■ 鉢形城 ■ 岩槻城 ■ 川越城 ■ 天神山城 ■ 松山城 ■ 忍城 ■ 小机城
下総
■ 関宿城
[編集] 家臣団
カッコ内は人数
- 江戸衆(103)
- 小田原衆(34)
- 御馬廻衆(94)
- 御家門方(17)
- 玉縄衆(18)
- 他国衆(28)(千葉氏作倉衆)
- 小机衆(29)
- 伊豆衆(29)
- 松山衆(15)
- 三浦衆(32)
- 諸足軽衆(20)
- 津久井衆(57)
[編集] 註
[編集] 戦国大名後北条氏の関連項目・外部リンク
最終更新 2009年11月15日 (日) 18:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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