後花園天皇

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後花園天皇
第102代天皇
伝後花園天皇像(大應寺蔵)
伝後花園天皇像(大應寺蔵)
在位 1428年9月7日-1464年8月21日
在位中の時代 室町時代
在位中の年号 正長
永享
嘉吉
文安
宝徳
享徳
康正
長禄
寛正
在位中の首都 京都
在位中の皇居 京都御所
別名 円満智・後文徳院
出生 1419年7月10日
死去 1471年1月18日
室町第泉殿
陵墓 後山国陵
般舟院陵(分骨所)
先代 称光天皇
次代 後土御門天皇
子女 成仁親王(後土御門天皇
観心
父親 伏見宮貞成親王
母親 源幸子
  

後花園天皇(ごはなぞのてんのう、応永26年6月18日1419年7月10日) - 文明2年12月27日1471年1月18日))は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日1428年9月7日) - 寛正5年7月19日1464年8月21日))。諱を彦仁(ひこひと)という。

目次

[編集] 系譜

伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は庭田経有の娘、敷政門院・源幸子伏見宮家持明院統嫡流に当たる。

  • 典侍:日野郷子 - 日野秀光女
    • 皇女(真乗寺宮)(?-1482) - 真乗寺
  • 母不詳
    • 皇女:照厳女王(?-1464) - 大聖寺門跡

[編集] 系図

北朝

 
 
治仁王
 
 
 
(北1)光厳天皇
 
(北3)崇光天皇
 
栄仁親王
 
 
貞成親王
(後崇光院)
 
(102)後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(北2)光明天皇
 
 
 
 
貞常親王
 
伏見宮家
 
 
 
 
 
長助法親王
 
 
(北4)後光厳天皇
 
(北5)後円融天皇
 
(北6)(100)
後小松天皇
 
(101)称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
珣子内親王
(後醍醐天皇中宮、
新室町院)
 
 
皇子某(小川宮)
 
 

南朝

 
(96)後醍醐天皇
 
尊良親王
 
 
 
 
 
世良親王
 
 
 
護良親王
(尊雲法親王)
 
興良親王
 
 
 
 
恒良親王
 
 
(98)長慶天皇
 
 
 
 
 
成良親王
 
 
(99)後亀山天皇
 
小倉宮
 
 
 
 
 
(97)後村上天皇
 
 
良成親王(鎮西宮)
 
 
 
 
宗良親王
(尊澄法親王)
 
 
 
懐良親王
 

 
(102)後花園天皇
 
(103)後土御門天皇
 
(104)後柏原天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(105)後奈良天皇
 
(106)正親町天皇
 
誠仁親王(陽光院)
 
(107)後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良恕法親王
 
 
智忠親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(桂宮)智仁親王
 
 
広幡忠幸
 
 


[編集] 略歴

先代の称光天皇は応永29年(1422年)以降、幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子が無く、称光天皇の同母弟の小川宮が応永32年(1425年)に早世しており、称光天皇の父で院政を敷いていた後小松上皇後南朝の動きを牽制する必要があった。正長元年(1428年)に称光天皇が危篤に陥ると後南朝勢力などが活動の気配を見せたため、室町幕府6代将軍に就任することになっていた足利義宣は伏見御所にいた彦仁王(後花園天皇)を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。同年7月20日に称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となり、親王宣下のないまま7月28日践祚した。翌年の永享元年(1429年12月27日即位した。

称光天皇から後花園天皇に皇位が継承されて以降も後小松上皇による院政が継続されたが、永享5年(1433年)10月に後小松上皇が崩御して後は30年余り親政を行った。この間、各地で土一揆が起こり、永享の乱嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発するなど政治的役割も担った。同11年(1439年)6月に勅撰和歌集二十一代集)の最後にあたる『新続古今和歌集』が成立。嘉吉3年(1443年)9月には後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ、後花園天皇は逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。文安元年(1444年)2月、同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月、父に太上天皇の尊号を奉った。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。長禄元年(1457年)12月に、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には全ての神器が天皇の手中に帰することになる。寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月に、皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。同5年(1464年7月19日に成仁親王(後土御門天皇)に譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。応仁元年(1467年)に京都で応仁の乱が起こると、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上皇はこれを拒否、戦乱を避けて後土御門天皇とともに室町第へ移り、同年9月20日に出家した。法名を円満智と称した。

文明2年(1470年12月27日中風のために室町第で崩御した。享年52。翌年1月2日後文徳院と追号されたが、漢風諡号文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする一条兼良の意見があり、2月16日後花園院と改められた。

詩歌管弦に堪能で、闘鶏や猿楽・松はやしなどを好み、また学問にも秀でた。長禄・寛正の飢饉に際しては、奢侈に明け暮れる将軍足利義政に対して、漢詩を以って戒めたとするエピソードもある。

[編集] 御製

思へただ空にひとつの日の本に又たぐひなく生まれ来し身を

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓・霊廟

京都府京都市右京区京北井戸町の後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)。常照皇寺内に所在し、光厳天皇陵と同域。

文明3年(1471年1月3日に悲田院にて火葬して埋骨し、翌月、天皇の遺詔によって常照皇寺の光厳天皇陵の傍に移した。幕末修陵の際に光厳天皇陵と併せて山国陵と称したが、明治2年(1869年)現陵号に改定。なお、分骨所が京都市上京区般舟院前町の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)、火葬塚が上京区扇町の大應寺境内にある。この火葬塚は、京都府内における近世以前の皇室の陵墓・火葬塚の中で、学術上最も確実なものの一つであるといわれる。

ウィキクォート
ウィキクォート後花園天皇に関する引用句集があります。
先代:
称光天皇
天皇
第102代: 1428-1464
次代:
後土御門天皇

最終更新 2009年11月8日 (日) 08:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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