徐晃

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徐 晃(じょ こう、? - 227年)は、後漢末期から三国時代にかけての武将。公明。徐蓋の父、徐覇の祖父。河東郡楊県(現山西省洪洞県南部)の人。

目次

[編集] 来歴

最初は李傕の部下の楊奉に仕えており、功を挙げて騎都尉に任ぜられている。徐晃は楊奉に献帝を連れて洛陽に戻ることを進言し、楊奉はこの考えに従い献帝を連れて洛陽に戻った。徐晃は都亭に封じられた。また徐晃は楊奉に曹操に帰服するように進言するが、楊奉が進言を受け入れずに曹操と対立し、曹操が楊奉を討伐すると、徐晃は曹操に帰順した。その後は曹操配下の将軍となった。

呂布との戦いで趙庶・李鄒らを降伏させた。史渙曹仁于禁らとともに眭固を破り、斬った。曹操・楽進らとともに劉備を破った。

官渡の戦いでは、関羽張遼らとともに顔良を討ち取り、曹操・荀攸らとともに文醜を討ち取った。また、曹操は荀攸の進言に従い、徐晃と史渙を派遣し、袁紹軍の輸送隊を攻撃させ、数千台の穀物輸送車を焼き払った。

袁譚袁尚との戦いでも功績を挙げた。夏侯淵とともに賊の商曜を破り討ち取るなど、賊討伐で功績を挙げた。馬超との戦いでは、蒲阪津を渡り陣地を作ることを提案し、朱霊とともに蒲阪津を渡り陣地を作った。涼州討伐戦や張魯討伐戦や漢中防衛戦でも功績を挙げた。

219年、趙儼と共に荊州へ向かい、樊城を包囲する関羽の軍勢を撃退して曹仁を救援する活躍を見せる。曹操は徐晃を褒め称え、「わしは三十年以上も兵を用い、古の戦上手な将を数多く知っているが、このように敵包囲網に突撃した者はいなかった。しかも樊城における状況は、の莒・即墨を包囲した時以上に困難なものであった。将軍の功績は孫武司馬穰苴にも勝るものであろう」と語っている。

また、この戦勝を祝い宴を催した時、曹操は徐晃に酒を勧めて、彼を労った。この時、他の軍勢も集結していて、多くの軍の兵卒たちは持ち場を離れて騒いだりしていたが、徐晃の軍だけは将兵が整然と陣に着いていて持ち場を離れる事が皆無だった。これを見た曹操はますます徐晃を篤く信頼し「徐晃には周亜夫の風格がある」と称えたと言う。

曹丕が魏の皇帝になると右将軍に昇進した。夏侯尚と共に上庸蜀漢軍を打ち破った。明帝の時代には諸葛瑾の攻撃を防ぎ、二百戸を加増されて三千一百戸となった。227年に病死、諡号壮侯

[編集] 人物

徐晃は武功を挙げても奢る素振りは見せず、部下には親身に接したために人望が厚かったと伝えられる。彼は常に「昔の人はよく明君に出会えぬことを嘆いたものだが、わしは幸運にもその明君にお会いする事ができた。だから、功績をあげてこの幸運に答えなければならぬ。個人の功名など何ほどのこともない」と言い、最後まで徒党を組む事はしなかった。

用兵では間者を使った情報収集を重視し、常に敗戦時の対策を念頭に置いて戦いを進めるなど堅実であったが、その一方で好機と見るや、配下に食事の暇も与えないほどの猛烈な追撃を行うこともあった。

[編集] 三国志演義

小説『三国志演義』では、大斧を愛用する武将として登場する。副将の王平と意見が合わずに衝突し、結果として王平が蜀漢に寝返ったことに激怒する(王平が徐晃の副将という話は創作)など少々短気な面も見せるが、怪我をしていたとはいえ関羽を一騎打ちで退けるなど魏屈指の勇将として描かれている。また、かつて蜀臣だった孟達が再び帰参する動きを見せたために、その討伐中に孟達が放った矢に額を貫かれたことによる大量出血で亡くなったことになっている。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月16日 (金) 10:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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