徳富蘇峰

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徳富 蘇峰
(とくとみ そほう)
『蘇峰文選』に掲載された
國民新聞社時代の徳富蘇峰
ペンネーム 菅原 正敬
大江 逸
大江 逸郎
山王草主人
頑蘇老人
蘇峰学人
誕生 徳富 猪一郎
1863年3月14日
文久3年1月25日
日本の旗 肥後国水俣
死没 1957年11月2日(満94歳没)
職業 ジャーナリスト歴史家
評論家政治家
国籍 日本
活動期間 1885年 - 1957年
文学活動 時事評論
伝記執筆
歴史研究
代表作 『将来之日本』(1886年
『大日本膨脹論』(1894年
『時務一家言』(1913年
『勝利者の悲哀』(1952年
近世日本国民史』(1918年 - 1952年
主な受賞歴 恩賜賞1923年
文化勲章1943年
処女作 『第19世紀日本の青年及其教育』(1885年)
親族 徳冨蘆花
湯浅治郎義兄
湯浅八郎
湯浅一郎義甥
ウィキポータル 文学
  
日本の政治家
徳富 猪一郎
とくとみ いいちろう
徳富蘇峰
徳富猪一郎の肖像写真
生年月日 1863年3月14日
文久3年1月25日
出生地 日本の旗 肥後国水俣
没年月日 1957年11月2日(満94歳没)
出身校 同志社英学校中途退学
前職 國民新聞社社主(1890年-1929年
京城日報社監督1910年-1918年
称号 文化勲章
親族 湯浅治郎義兄

選挙区 貴族院勅選議員
任期 1911年8月24日 - 1946年2月23日
  

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、文久3年1月25日1863年3月14日) - 昭和32年(1957年11月2日)は、日本ジャーナリスト歴史家評論家政治家本名徳富 猪一郎(とくとみ いいちろう)。正敬(しょうけい)。筆名菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸大江 逸郎山王草主人頑蘇老人蘇峰学人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

肥後国水俣郷士徳富一敬(とくとみ・かずたか)の長男として生れた。熊本洋学校に学び、洋学校閉鎖後は京都の同志社英学校に転校の後退学。明治14年(1881年)、帰郷して大江義塾を創設、地方新聞に執筆寄稿。相愛社員として民権運動に参加。

[編集] 論壇デビュー、國民新聞創刊

明治18年(1885年)、『第19世紀日本の青年及其教育』、19年(1886年)、『将来之日本』で論壇デビュー [1]。上京して民友社を結成し平民主義を主張する月刊誌『国民之友』を主宰。明治21年(1888年) - 22年(1889年)、大同団結運動支援の論陣を張った。明治23年(1890年)には『國民新聞』を創刊。

明治27年(1894年)、対外硬六派に接近し第2次伊藤内閣を攻撃、開戦前より朝鮮出兵論を高唱し日清戦争の戦況を報道。自ら広島の大本営に赴き、従軍記者を派遣。川上操六参謀次長樺山資紀軍令部長らに密着取材を敢行した。12月には同年後半の『国民之友』『國民新聞』 社説を収録した『大日本膨脹論』を刊行。

[編集] 政界入り

日清戦争後の三国干渉に衝撃を受け、平民主義から強硬な国権論・国家膨脹主義に転じる。明治30年(1897年)、松方内閣内務省勅任参事官に就任し、従来の反政府の立場からの変節を非難され、明治31年(1898年)に『国民之友』は売り上げが落ち廃刊。蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として政治家と交際し、政官界に影響力を持った政客として肯定的な評価もある [2]

蘇峰が山縣有朋桂太郎との結びつきを深め、ポーツマス講話条約に賛成したことから、國民新聞社は明治38年(1905年)の日比谷焼打事件で暴徒の襲撃を受けた。明治43 (1910年)、初代朝鮮総督寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社、京城日報社の監督に就いた。明治44年(1911年)に貴族院勅選議員となった。

大正2年(1913年)の第一次護憲運動(大正政変)では、國民新聞社は桂太郎首相の御用新聞と目され、再び暴徒の襲撃を受けた。桂の失脚に伴い政界を離れ、以降は、時事評論と修史に健筆を揮った。大正7年 (1918年)、『近世日本国民史』連載開始に際し、京城日報社監督を辞任した。大正12年(1923年)、『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院恩賜賞を受賞した[3]

[編集] 大正デモクラシー

大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱える。国民皆兵主義の基盤として普通選挙実現を肯定的に捉えた[4]。昭和3年(1928年)には蘇峰の『文章報国四〇年祝賀会』(青山会館)が開催された。関東大震災後に資本参加を求めた根津嘉一郎との確執から、昭和4年(1929年)に國民新聞を退社した。大阪毎日新聞社東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移した。

[編集] 戦前、戦中

昭和6年(1931年)『新成簀堂叢書』の刊行を開始。白閥打破[5]、興亜の大義、挙国一致を喧伝した。昭和16年の太平洋戦争開戦の詔書を添削している。 昭和17年(1942年)には大日本文学報国会を設立し会長に就任。昭和18年(1943年)には文化勲章を受章(敗戦後に返却)。

昭和17年に大日本言論報国会会長に就任。無条件降伏受諾に反対し天皇の非常大権の発動を画策したが実現しなかった。

[編集] 戦後

戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は終戦後にA級戦犯容疑を受けたが、老齢と三叉神経痛のため自宅拘禁となり不起訴となった。公職追放となり熱海市に蟄居。戦犯容疑をかけられたことを理由として、1946年に文化勲章を返上した。

戦後、『近世日本国民史』の執筆を続ける一方、日記をつづっており、平成16年(2006年) - 19年(2007年)に『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』と題して講談社から刊行された[6] 。その中では、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている[7]。『近世日本国民史』は大正7年(1918年)に起稿し、昭和27年(1952年)に完結。史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。平泉澄の校訂により時事通信社より刊行され、全巻完結したのは死後、昭和38年(1963年)のことであった。絶筆「一片の丹心渾べて吾を忘る」。墓所は東京の多磨霊園

[編集] エピソード

[編集] 弟・蘆花

小説『不如帰』や大逆事件後の講演『謀反論』で知られる弟の徳冨蘆花とは、次第に不仲となり、蘆花が明治36年(1903年)に兄への「告別の辞」を発表する。以後、長い間疎遠となっていたが、昭和2年(1927年)、蘆花が伊香保で病床に就いた際に再会する。蘆花は「後のことは頼む」と言い残して亡くなったという[8][9]

[編集] 山王草堂

蘇峰が「山王草堂」と名づけた旧宅跡が大田区立山王草堂記念館として公開されている[10]。大正13年(1924年)から昭和18年(1943年)まで住み、『近世日本国民史』等の主要著作を著した。昭和63年(1988年)、大田区により「蘇峰公園」として整備公開され、蘇峰の書斎があった家屋2階部分と玄関部分が園内に復元保存された。館内には蘇峰の原稿や書簡類が展示されている。

  • 所在地:東京都大田区山王1-41-21。JR京浜東北線大森駅下車、徒歩15分。
  • 開館時間:AM9:00-PM4:30(入館は4時まで) 休館日:12月29日~1月3日、入館無料。

[編集] 徳富蘇峰を演じた俳優

[編集] 親族

弟に小説家徳冨蘆花がいる。姉は政治家湯浅治郎後妻となった。治郎と姉との間には昆虫学者湯浅八郎らが生まれた。また、洋画家湯浅一郎は治郎と前妻との間にできたである。矢嶋楫子は、母・久子(旧姓矢島)の妹、即ち、叔母である。久布白落実は姪。

[編集] 賞歴

[編集] 栄典

[編集] 著作

[編集] 近年刊行

  • 『三代人物史』読売新聞社、1971年 --- 『近世日本国民史』以外の最後の単著。明治・大正・昭和三代にわたる人物回顧
  • 『日本の名著40 徳富蘇峰.山路愛山』中央公論社、1971年 --『将来之日本』(1886年)、『吉田松陰』(1893年)、を収録
  • 『明治文学全集34 徳富蘇峰集』筑摩書房、1974年 --『官民調和論』(刊行年不明、熊本時代)、『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』(1884年私刊)、『自由、道徳、及儒教主義』(1884年私刊)、『将来之日本』(1886年)、『三版 新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『吉田松陰』(1893年)、『大日本膨脹論』(1894年)、『時務一家言』(1913年)、を収録。
  • 『近代日本思想大系8 徳富蘇峰集』 筑摩書房 1978年 --『新日本之青年』(1887年、私刊は1885年)、『大正の青年と帝国の前途』(1916年)、『国民自覚論』(1923年)、『敗戦学校・国史の鍵』(1948年)、『勝利者の悲哀』(1952年)、を収録
  • 『吉田松陰』 岩波文庫  1981年、ワイド版2001年
  • 『読書法』 講談社学術文庫  1981年
  • 『静思余録』 講談社学術文庫  1984年
  • 『蘇翁夢物語 わが交遊録』 中公文庫 1990年 初版は1938(昭和13)年
  • 『蘇峰書物随筆』全9巻 ゆまに書房、1993年(明治38年~昭和10年の復刻版)
  • 『弟 徳富蘆花』 中央公論社 1997年、中公文庫、2001年
  • 『蘇峰自伝』<人間の記録22> 日本図書センター 1997年
  • 『徳富蘇峰 黒岩涙香』 <近代浪漫派文庫5>新学社、2004年
  • 『往復書簡後藤新平-徳富蘇峰 1895-1929』 高野静子編著、 藤原書店、2006年 -- 編者は『蘇峰とその時代』正続を著した。記念館で購入可能。
  • 『頑蘇夢物語 徳富蘇峰終戦後日記』全4巻 講談社 2006-07年

[編集] 原刊行年順

  • 『明治廿三年後ノ政治家ノ資格ヲ論ス』 私刊、1884年。
  • 『自由、道徳、及儒教主義』1884年私刊
  • 徳富猪一郎 『将来之日本』 経済雑誌社、1886年10月。
  • 徳富猪一郎 『新日本之青年』 集成社、1887年4月。
  • (明記なし) 『日本国防論』 垣田純朗K編>、民友社、1889年1月。
    • 徳富猪一郎 『進歩乎退歩乎』 民友社〈国民叢書第1冊〉、1891年6月。
    • 徳富猪一郎 『人物管見』 民友社〈国民叢書第2冊〉、1892年5月。
    • 徳富猪一郎 『青年と教育』 民友社〈国民叢書第3冊〉、1892年9月。
  • 徳富猪一郎 『吉田松陰』 民友社、1893年12月。
  • 徳富猪一郎 『日本膨脹論』 民友社、1894年12月。
  • 徳富猪一郎、深井英五 『欧洲大勢三論』 民友社、1895年4月。
  • 『時務一家言』民友社、1913年
  • 『蘇峰自伝』中央公論社、1935年
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[編集] 参考文献

基礎資料
  • 「年譜」和田守編、『明治文学全集 34 徳富蘇峰集』(筑摩書房、1974年)。
  • 「参考文献」和田守編、同上。
研究書
  • 『評伝 徳富蘇峰--近代日本の光と影』 ビン・シン著、杉原志啓訳(原著は1986年)、岩波書店、1994年
  • 『近代日本と徳富蘇峰』 和田守著、御茶の水書房、1990年
  • 『徳富蘇峰と国民新聞』 有山輝雄著、吉川弘文館、1992年
  • 『蘇峰と「近世日本国民史」』 杉原志啓著、都市出版、1995年
  • 『近代日本人のアメリカ観--日露戦争以後を中心に』 澤田次郎著、慶應義塾大学出版会、1999年
  • 『条約改正と国内政治』 小宮一夫著、吉川弘文館、2001年
  • 『徳富蘇峰--日本ナショナリズムの軌跡』 米原謙著、中公新書、2003年
  • 『陸羯南--政治認識と対外論』 朴羊信著、岩波書店、2008年 [11]

[編集] 関連項目

蘇峰學人書齋

九州の地縁

思想上の交遊

民友社・国民新聞社社員

キリスト教関連

揮毫先

[編集] 脚注

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  1. ^ 1883年10月には「東京毎週新報」に「官民ノ調和ヲ論ズ」という評論(小説等の創作ではない)を4回にわたり連載した。
  2. ^ 佐々木隆「徳富蘇峰と権力政治家」『「帝国」日本の学知』第4巻、岩波書店、2006年。
  3. ^ 「第13回(大正12年5月27日)」『恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 | 日本学士院日本学士院
  4. ^ 『国民自覚論』大正12年(1923年)刊を参照。
  5. ^ 白色人種のヘゲモニーに対峙する国民的自覚を持つべきとの意味。澤田次郎『近代日本人のアメリカ観--日露戦争以後を中心に』(1999年)は、蘇峰が「白閥打破」を使い始めたのは、1913年のカリフォルニア州排日土地法の成立が契機となったと指摘。
  6. ^ 『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』全4巻、2006-2007年、講談社。
  7. ^ 山本武利は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている。山本武利「徳富蘇峰が「幻の日記」に記した敗戦の原因―右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に―」「現代」40巻9号、2006年9月号p248~254、講談社参照。
  8. ^ 『弟 徳富蘆花』 中央公論社のち中公文庫、2001年を参照。
  9. ^ 平成15年(2003年)に『近代日本と徳富兄弟 徳富蘇峰生誕百四十年記念論集』が東京蘇峰会より出版。
  10. ^ JR京浜東北線大森駅の西側に広がる台地一帯は、付近に山王社が鎮座する事により、古くから「山王」と呼ばれていた。山王草堂の名はこれに由来する。明治元年(1868年)の神仏分離令により、社号は日枝神社へと改められるも、(大字・おおあざ)新井宿の中に、「山王」と「山王下」の地名が小字(こあざ)として残されていた。蘇峰移転当時の山王草堂付近は新井宿字源蔵原という地名であったが、昭和7年(1932年)には付近の「山王」、「山王下」と併せて「山王1丁目」と改められた。
  11. ^ 陸羯南を徳富蘇峰と比較しつつ1880年代後半から日露戦争前までを追跡している。徳富蘇峰研究としても参照すべき内容である。
  12. ^ 兆民の著した『三酔人経綸問答』の一部を『国民之友』に掲載し、蘇峰がその評を寄せた。
  13. ^ 前身の南都正強中学の創立者藪内敬治郎(陸軍士官学校出身)は、蘇峰の信奉者の一人であり、学園に冠された「正強」 の二文字は蘇峰が贈ったもの。

[編集] 外部リンク

[編集] 記念館

[編集] 書評

[編集] その他

墓所に面した道路に向かって「蘇峰 徳富猪一郎先生墓所」の木塔がたつ。
徳富蘇峰の著作と参考文献一覧表。
蘇峰の住んだ東京大森の山王の歴史紹介。

最終更新 2009年11月18日 (水) 08:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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