徳川茂徳
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徳川 茂徳(とくがわ もちなが、天保2年5月2日(1831年6月11日) - 明治17年(1884年)3月6日)は、江戸時代の大名、高須藩第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。松平義比(よしちか)、徳川茂徳、徳川玄同(はるあつ)、一橋茂栄(ひとつばし・もちはる)などの名乗りがある。
[編集] 経歴
美濃高須藩第10代藩主松平義建の五男。正室は丹羽長富の娘・政姫。子は松平義端(長男)、徳川達道(四男)。幼名鎮三郎。初名は建重。号は好徳、雅号は穆堂。
嘉永2年8月16日、父義建の嫡子となる。同年11月1日、将軍徳川家定に御目見する。同年12月16日、従五位下弾正大弼に叙任、従四位下侍従に昇進する。後に摂津守に改める。嘉永3年(1850年)10月16日、父義建の隠居により、高須藩第11代藩主に就任する。松平義比を名乗る。同年12月16日、左近衛権少将に任官する。
安政5年(1858年)7月5日、安政の大獄により、尾張藩主であった異母兄徳川慶勝が隠居謹慎となったため、尾張藩主に就任する。徳川茂徳を名乗る。なお、長男義端が高須藩主になった。同年10月13日、従三位参議・左中将に昇進する。後に従二位大納言に昇進する。就任時の経緯から藩内の支持は佐幕派に限られた。慶勝の謹慎が解けると藩内の流れが変わった。そのため、高須藩藩主へ復帰する意向も漏らしている。結局、文久3年(1863年)9月13日、隠居し、養子義宜(実父徳川慶勝)に藩主を譲った。隠居後は玄同と号した。
慶応2年(1866年)12月27日、一橋徳川家の当主徳川慶喜が徳川宗家を相続したため、一橋家を相続した。徳川茂栄を名乗る。幕府は、実兄慶勝の願いをうけて、茂栄の一橋家相続を認めている。なお、当初は清水家相続の予定であった。明治維新に際しては、徳川一族の総代的な役割を担い、明治新政府との交渉にあたる。慶応4年(1868年)3月4日、江戸を出発、3月25日、江尻に到着、東征大総督有栖川宮熾仁親王に前将軍徳川慶喜の寛大な処分を願う。同年3月29日、了承されて、4月4日、江戸に戻る。同年閏4月27日、徳川宗家の扱いの早急な処理を願い、閏4月29日、徳川家達による宗家相続を命じられる。同年5月10日、早急な徳川宗家の領地決定を願い、5月24日、徳川家達は駿府70万石を与えられる。
明治元年(1868年)5月24日、一族の徳川慶頼らとともに諸侯に列し、立藩する。明治2年3月、版籍奉還を出願する。同年9月、知藩事就任を願っている。同年12月27日、版籍奉還は認められて廃藩となり、知藩事にはなれなかった。明治3年6月、家臣らに別離の挨拶を行い、一橋藩は完全に解体した。明治17年(1884年)3月、数え54歳で没。正二位まであがった。法号は顕樹院殿。
会津藩主松平容保、伊勢桑名藩主松平定敬も兄弟であり、慶勝と合わせて「高須四兄弟」と称されるが、他の3人のように藩政・外交に主体的に取り組んだ形跡が薄く、時代の情勢に押し流され続けた生涯といえる。恵まれた境遇とは言いがたいが、息子の達道(さとみち)は無事一橋家を相続し、自らの系統を残すことができた。
1998年のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」では石丸謙二郎が演じた。
[編集] 系譜
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最終更新 2009年10月18日 (日) 23:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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