応劭
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応 劭(おう しょう、生没年不詳)は、中国後漢末の人。字は仲遠。汝南郡南頓の人。『風俗通』、『漢官儀』といった著作や『漢書』の注釈で知られる。
[編集] 略歴
代々太守などを務めた家に生まれ、父の応奉は武陵太守、司隷校尉となった。
応劭は若い頃から勉強熱心で、博覧強記の人であった。霊帝の時に孝廉に推挙され、車騎将軍何苗に招かれて掾(属官)となった。
中平2年(185年)に漢陽の賊である韓遂らが羌族と共に反乱を起こした際、討伐に遣わされた皇甫嵩が烏丸の兵3000を要請したのに対し、北軍中候鄒靖は烏桓は弱いので鮮卑より兵を募るべきだと進言した。そのことについて議論した際、応劭は鮮卑は漢に心服しておらず制御できないので反乱しなかった羌族から兵を募る方が良いと主張し、その意見が採用された。
その後、泰山太守となった。初平2年(191年)、黄巾賊30万が郡の境界に侵入してきたが、応劭は郡の文官、武官を率いて賊と戦い、全部で首級数千、捕虜一万余り、輜重二千輌の戦果を挙げ、賊は退却して郡内は危機を逃れた。
興平元年(194年)、兗州牧曹操の父である元太尉の曹嵩が避難していた瑯邪から泰山へ入った際、応劭は兵を遣わして彼を迎えようとしたが、それまでの戦いで曹操を恨んでいた徐州牧陶謙が騎兵を送って曹嵩を攻撃させ、応劭の兵が合流する前に郡の境界で曹嵩を殺した。応劭は曹操に殺されるのを怖れて郡を捨て、冀州牧袁紹の元へ逃げた。
応劭は建安元年(196年)に『漢官儀』を完成させて献帝に献上した。翌年、献帝の命で応劭は袁紹の軍謀校尉となった。当時、許に遷都したばかりで制度や故事が多く失われていたことから、応劭は『漢官礼儀故事』を著した。許における朝廷の制度などは多くが応劭によって立てられた。
また父の応奉が司隷校尉時代に各役所に先人の肖像などを出させていたが、応劭はそれを編纂して『状人紀』とした。また、当時の事柄を論じた『中漢輯序』、物や事柄について弁じ習俗や嫌疑を解釈した『風俗通』を著した。その他、『漢書』の集解を著しており、これは『漢書』顔師古注に多数引用されている。著述したのは全部で136篇であった。
その後、鄴で死亡した。彼の弟の子である応瑒、応璩も文才で知られた。応瑒はいわゆる「建安七子」の一人に数えられている(『三国志』王粲伝注引『典論』)。

