恵林寺
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| 恵林寺 | |
|---|---|
![]() 三門 |
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| 所在地 | 山梨県甲州市塩山小屋敷2280 |
| 位置 | 北緯35度43分47.92秒 東経138度42分49.75秒 |
| 山号 | 乾徳山 |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 元徳2年(1330年) |
| 開基 | 夢窓疎石 |
| 札所等 | 甲斐百八霊場9番 |
| 文化財 | 四脚門ほか(重要文化財) 庭園(名勝) |
恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷(旧塩山市)にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。庭園は国の名勝に指定されている(昭和19年(1944年)6月26日指定)。
目次 |
[編集] 沿革
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。永禄7年(1564年)には武田晴信(信玄)が寺領を寄進し、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。
天正10年(1582年)4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したといわれ、後代には快川の遺喝として廣く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺喝として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺喝でなく後世の脚色である可能性を指摘している。
信長横死後に甲斐を領した徳川家康により、天正の織田勢焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷を招き再建された。また、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保の墓所にもなっている。また、検地帳簿として『恵林寺領検地帳』が残されている。
[編集] 伽藍
明治38年(1905年)の出火で焼失した後、再建したものもあるが(本堂・庫裡)、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。
- 本堂
- 明王殿
- 庫裡
- 開山堂
- 柳沢廟
- 佛舎利宝塔(三重塔)
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財(国指定)
- 恵林寺四脚門 - 明治40年8月28日指定
- 太刀 銘来国長 大正4年3月26日指定
- 短刀 銘備州長船倫光 応安二年八月日 大正4年3月26日指定
[編集] 山梨県指定有形文化財
- 恵林寺三門 昭和60年3月19日指定
- 木造夢窓国師坐像 昭和35年11月7日指定
- 不動明王及二童子版木 昭和58年12月26日指定
- 恵林寺文書 昭和33年6月19日指定
- 和漢朗詠集 昭和38年9月9日指定
- 孫子の旗 昭和55年9月18日指定
- 諏訪神号旗 昭和55年9月18日指定
- 柳澤吉保・定子関係資料一括 平成7年4月26日指定
[編集] アクセス
[編集] 拝観について
- 8:30~16:30 拝観は有料、信玄公宝物館は別料金



