愍帝 (西晋)
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| 愍帝 司馬鄴 | ||
|---|---|---|
| 西晋 | ||
| 4代皇帝 | ||
| 王朝 | 西晋 | |
| 在位期間 | 313年 - 316年 | |
| 姓・諱 | 司馬鄴 | |
| 字 | 彦旗 | |
| 諡号 | 孝愍皇帝 | |
| 廟号 | 無 | |
| 生年 | 300年 | |
| 没年 | 317年 | |
| 父 | 呉王・司馬晏(次子) | |
| 年号 | 建興(313年 - 317年) | |
愍帝(びんてい)は西晋の第4代皇帝。初代皇帝武帝の子の呉王・司馬晏の次子として、300年(永康元年)に生まれる。兄弟には兄の世子司馬祥と弟の済南王司馬固・済陰王司馬衍らがいる。
[編集] 略歴
初め、嗣子がなかった伯父・司馬柬の跡を継いで秦王となる。308年(永嘉2年)には散騎常侍・撫軍将軍に任命された。
311年(永嘉5年)夏6月、漢の軍隊が、西晋の首都・洛陽を占領し、叔父の懐帝が捕虜とされる。この時、父の司馬晏ら一族の多くが死亡、又は消息不明となったが、司馬鄴は難を逃れ許昌に落ち延びた。翌年雍州刺史の賈疋により長安に迎え入れられる。同年秋9月には皇太子となる。
313年(永嘉7年)正月に、叔父・懐帝が処刑された。これを受けて、夏4月に即位した。
愍帝が即位した段階では、漢などの異民族政権に攻撃を受け、西晋は首都洛陽を初めとする地域を占領されて実質滅亡したに近い状態であり、愍帝政権の支配が及んだのは実際には長安周辺の僅かな地域に過ぎなかった。そして、ついに316年(建興4年)秋8月からは劉曜に長安を兵糧攻めされた。この兵糧攻めのせいで、愍帝すらわずかな粥をすすることしかできなくなった。ここに、愍帝は民の窮乏を考えて、降伏することを決意する。冬11月に劉曜に降伏し、平陽に送られた。愍帝はそこで懐安侯に封じられた。結局、愍帝は狩の時には戟を持たされ先導役とされ、宴会では杯を洗う役をさせられるなどの叔父・懐帝同様の屈辱を受け、317年(建興5年)冬12月に処刑された。享年18。
彼の死を受けて、建康(旧名は建業であったが、司馬鄴の避諱のため改名)において司馬睿が即位するが、その支配は江南のみに留まった。これ以降の晋は一般的に東晋と呼ばれ区別され、西晋はここに滅亡する。
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最終更新 2009年10月26日 (月) 17:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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