慶應義塾普通部
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| 国公私立の別 | 私立学校 |
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| 設置者 | 学校法人慶應義塾 |
| 校訓 | 独立自尊 |
| 設立年月日 | 1898年 |
| 創立者 | 福澤諭吉 |
| 共学・別学 | 男女別学(男子校) |
| 中高一貫教育 | 併設型 |
| 学期 | 3学期制 |
| 所在地 | 〒223-0062 |
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神奈川県横浜市港北区日吉本町1-45-1
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| 電話番号 | 045-562-1181(代表) |
| FAX番号 | 045-562-8279(事務室) 045-562-6075(教員室) |
| 外部リンク | 公式サイト |
慶應義塾普通部(けいおうぎじゅく ふつうぶ、英: Keio Futsubu School)は、慶應義塾の一貫教育校の内、中学校のひとつ。同じ中学校の慶應義塾中等部、慶應義塾湘南藤沢中・高等部は共学校であるが、本校は男子校である。
生徒は、学力・面接・体育よりなる入学試験に合格した者と、系列の小学校である慶應義塾幼稚舎を卒業して入学する生徒から構成される。
慶應義塾は推薦で高校・大学に進学できる(俗に言う)「エスカレーター式」を採用しているが、普通部では、成績の平均がC未満になると留年候補生となる。留年は1回まで可能で、最高4年間で卒業することになる。例年、1学年で4~5人程度が留年する。
目次 |
[編集] 概要
- 創立
- 公式には1898年 (1858年、1868年、1890年、1899年とする解釈も存在)
- 部長 (校長職に該当)
- 大貫 義容(2008年10月1日 -)
- 主事
- 宮内 完二 (2008年10月1日 -)
[編集] 名称
普通部という名称は1890年 (明治23年)、慶應義塾に大学部を設置する際、従来の課程を普通部と命名したことに由来する。
戦後の学制改革の際、普通部は新制の中学校と高等学校とに分かれたが、その際に普通部の名称はそのまま新制中学校へ受け継がれた。「『普通部』という名称は新制高等学校の普通科と紛らわしい」という理由で、当時の文部省からの認可が遅れたという逸話が残っている。
[編集] 沿革
- 1858年 (安政5年) 福沢諭吉が江戸築地鉄砲洲 (現在の東京都中央区明石町) に蘭学塾を開く。
- 1868年(慶應4年) 芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転し、慶應義塾と改称する。
- 1871年(明治4年) 三田に移転。
- 1874年(明治7年) 私立外国語学校となる。
- 1877年(明治10年) 私立中学校となる。
- 1880年(明治13年) 各種学校となる。
- 1890年(明治23年) 慶應義塾に大学部(現在の慶應義塾大学)が新設され、従来の課程は普通部と称されるようになった。
- 1898年(明治31年) 慶應義塾の一貫教育の制度が確立され、普通部は「普通学科」と改称される。
- 1899年(明治32年) ふたたび「普通部」と改称される。
- 1906年(明治39年) 専門学校入学資格の指定許可を受ける。
- 1916年(大正5年) 第2回全国中等学校優勝野球大会(夏)で優勝。
- 1943年(昭和18年) 修業年限を5年から4年に短縮。
- 1945年(昭和20年) 5月24日 東京大空襲により校舎を失う。以後、新校舎が建造されるまでの間天現寺の慶應義塾幼稚舎の校舎を一部間借りすることとなる。
- 1947年(昭和22年) 新制中学校となる。
- 1948年(昭和23年) 旧制の普通部最後の卒業式。4・5年生は旧制の慶應義塾大学予科へ、3年生は新制の慶應義塾第一高等学校(後の慶應義塾高等学校)に進学。
- 1951年(昭和26年) 日吉校舎への移転が始まる。
- 1952年(昭和27年) 日吉校舎への移転を完了する。
- 1998年(平成10年) 創立100年を迎える。
- 2001年(平成13年) 本館竣工。これに伴い、1年生のみ20人(現在24人)の少人数学級となる。
[編集] 授業
選択授業 (2、3年のみ) や理科に独自のカリキュラム (毎週出る理科実験レポートやフィールドノート等) が組まれているのが特徴。 特に、ほぼ毎週提出が義務付けられているA(物理)・B(生物)・C(物理・生物・化学)実験という3つの実験レポート作成は、日本の一般的な理科教育に比べ、驚異的に早い時期から参考資料を元に実験結果を考察するという本格的な書類作成を行わせている。
[編集] 周辺環境・学校設備
横浜市港北区日吉本町にあるが、慶應義塾大学の日吉キャンパスや慶應義塾高等学校とは東急東横線日吉駅をはさんで反対側にある。日吉駅と本校を結ぶ道は「普通部通り」と名付けられている。
新校舎(本館)と旧校舎を中心に、特別教室棟や、体育館、小体育館、中庭、グラウンド、第二グラウンド、テニスコート(クレー3面・人工芝1面)、弓道場などの施設を持つ。
[編集] 制服
黒の詰襟学生服。夏季はワイシャツとズボン(黒とグレーの2色)。オプションとして セーター、ベストがある。制帽の着用は自由である。
旧制時代、中学校では珍しく半ズボンを制服として定めていた時期があるが、1・2年生だけがその対象だった。現在は長ズボンである。
[編集] 主な出身者
- 伊沢多喜男 - 元東京市長、元警視総監
- 安西祐一郎 - 慶應義塾塾長 / 昭和37年卒業
- 御子柴克彦 - 医師、医学者、東京大学医科学研究所教授、元大阪大学教授
- 阿川尚之 - 慶應義塾大学総合政策学部長、東京大学先端科学技術研究センター特任教授 / 父は弘之、佐和子は妹
- 石坂浩二 - 俳優、画家 / 昭和32年卒業
- 藤城清治 - 画家、影絵
- 石原伸晃 - 元行政改革担当大臣、元国土交通大臣、元観光立国担当大臣/ 昭和48年卒業 (C組)
- 朝吹三吉 - フランス文学者
- 石原良純 - 俳優、気象予報士 / 昭和52年卒業
- 伊藤雄之助 - 俳優(中退)
- 上田昭夫 - 慶應義塾ラグビー部総監督
- 藤山一郎 - 歌手 国民栄誉賞
- 岡本太郎 - 芸術家 / 昭和4年卒業
- 岸井成格 - 毎日新聞東京本社編集委員、日本ニュース時事能力検定協会理事長 / 昭和35年卒業
- 小泉信三 - 元慶應義塾塾長 / 明治38年卒業
- 腰本寿 - 野球殿堂入り、東京六大学野球・慶應義塾大学野球部監督
- 小林亜星 - 作曲家 / 昭和23年卒業(A組)
- 小林陽太郎 - 富士ゼロックス会長 / 昭和24年卒業
- 椎名武雄 - 日本アイ・ビー・エム最高顧問 (元日本アイ・ビー・エム会長) / 昭和21年修了
- 千住明 - 作曲家 / 昭和51年卒業(D組)
- 千住博 - 現代日本画家 / 昭和48年卒業(B組)
- 高木文雄 - 大蔵事務次官 / 卒業後は旧制浦和高校へ
- 武見太郎 - 日本医師会会長、世界医師会会長
- 武見敬三 - 参議院議員、武見太郎の子
- 玉塚元一 - ロッテリアCEO、ファーストリテイリング社長・COO
- 冨田勝 - 慶應義塾大学環境情報学部長・教授 / 昭和48年卒業 (E組)
- 服部禮次郎 - 和光取締役会長、セイコー名誉会長 / 昭和12年(E組)
- 林屋辰三郎 - 歴史学者 / 入学翌年京都一中へ
- ヒサクニヒコ - 漫画家(恐竜画) / 昭和34年(C組)
- 福澤武 - (三菱地所/ 会長)
- 福澤克雄 - (TBSテレビ/ 映画監督/ 演出家 / テレビディレクター )
- 福原義春 - 資生堂会長、みずほフィナンシャルグループ取締役 / 昭和23年卒業
- 藤﨑一郎 - 駐アメリカ特命全権大使、元外務審議官
- 藤山愛一郎 - 元外務大臣、実業家
- 槇文彦 - 建築家
- 牧野直隆 - 野球殿堂入り、高野連会長
- 松任谷正隆 - 音楽プロデューサー、歌手松任谷由実の夫 / 昭和42年卒業(C組)
- 三宅大輔 - 慶應義塾大学野球部初代監督
- 新田恭一-元プロ野球監督
- 山本愛一郎-元プロ野球選手
- 武藤絲治 - カネボウ社長、武藤山治の子 / 大正12年中退
- 柳満珠雄 - 三井銀行頭取
- 桜内義雄 - 衆議院議長
- 梁瀬次郎 - ヤナセ2代目社長、梁瀬長太郎の子
- 武田長兵衛 - 武田薬品工業2代目社長
- 小菅丹治 - 伊勢丹社長
- 岡崎真一 - 同和火災2代目社長
- 正力亨 - 前読売巨人軍代表
- 山下太郎 - アラビア石油創立者
- 久保田万太郎 - 作家 / 府立三中から転校
- 坪田一男 - 慶應義塾大学医学部教授、眼科医
- 中尾哲郎 - (テレビ東京プロデューサー)
- 中山貴雄 - (テレビ朝日アナウンサー)
- 都倉賢 - (Jリーガー、川崎フロンターレ・FW)
- 梅田晴夫 - (劇作家、小説家、随筆家)
- 梅田望夫 - (経営コンサルタント)
- 櫻井翔 - 歌手、タレント
- 原武史 - 政治思想史学者、明治学院大学教授
[編集] アクセス
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月25日 (水) 19:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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