憑依
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憑依(ひょうい)とは、文化人類学におけるアニミズムとシャーマニズムという2つの観念からなる宗教や民間信仰においての、霊魂や神などの、物体への一時的または、半永久的な移動をさす。
神留(かんづま)・神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。近い言葉として降臨(こうりん)がある。
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[編集] 概要
[編集] 文化人類学としての説明
世界各地の民族の伝統的な精神文化の中に広く認められる、「森羅万象に命や霊魂や神が宿る」というアニミズムの観念の上に、神(悪魔などを含めた超常的存在)や霊魂が、「生命から生命へ」また、「生命から物質へ」、「物質に宿ったものが生命へ」など、一時的にまたは半永久的に移動することをいい、シャーマニズムといわれる宗教的な祈祷や呪術の儀式によって、神が宿るとされるが、日本の神奈備(かんなび)や御神木、または九十九神や妖怪のように、自然発生的に自然や動植物や器物などに、神や霊魂が憑依する考えもあり、必ずしも憑依の器としての人や、憑依を促すための人が行う儀式を必要としない。
憑依するものは、霊魂や神や命などその概念や表現も多岐にわたる。生きている人や死者に対し、悪魔や悪霊や鬼などから、あるいは神道や民間信仰における狐や猫や狸や蛇などの九十九神などがある。
[編集] 科学的考察
憑依は、あくまでも宗教や民間信仰という文化の中に留まるものであり、霊魂や神の存在は科学的に実証されておらず、生命科学や生物学においては、霊魂以前に、ウイルスの概念から、ただの物質と生命の境界も曖昧であることが解ってきて、命の定義すら定まっていない。そして、命や霊魂の根拠の一つとなる意識は存在するが、その意識や自我が、いわゆる霊魂であるのか、脳内の電子信号のある一定のプロセスや、経験から積み重ねられた脳内の、自然発生的なプログラムなどであるかは、はっきりしていない。
精神学や生理学から実証はされていないが、ある種の精神的高揚(トランス状態)ともいわれる変性意識状態に伴って現れる現象ともされる。ある人の日常的な人格とは異なる、別の意識もしくは人格が現れて、あたかも別人であるかのように振舞うため、何か霊的なものに肉体を支配されていると解釈されることもあるが、如何わしい商売(如何様師)として祈祷師や霊媒師や占い師などと称する者が、詐欺行為ともされる謀(はかりごと)の中の一環としての芝居や演技の場合もある。
[編集] 語彙・語句
あくまでも大和言葉として太古の昔から派生してきたので、古神道の見地からの説明である。
- 神留(かんづま) - 神が鎮座するという意味で、太古からある自然崇拝としての神の憑依であり、宿る対象は主に山河や火山や滝や森や大岩であるため半永久的に降りるといえる。降臨といった方が近いともいえる。
- 神宿り - 全てに対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
- 神降ろし - 憑依というよりは、神を宿すための儀式をさす場合が多い。「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。
- 神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
- 憑き物 - 人や動物や器物(道具)に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が、宿った時や、悪霊といわれる怨霊や生霊が、これらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。
[編集] 神道・古神道
神降ろしについて明確に記された日本最古の文献は古事記であり、天岩戸伝説にあるアメノウズメの記述がそれにあたるとされている。
[編集] 神留・山河と森林と気象
古神道は縄文時代以前からあり、神道の源流でもあり、森羅万象に神が宿るとして八百万の神ともいわれる。その発祥において、神奈備といわれる森林を抱いた山に、神が鎮座すると考えていた。それらは神籬や磐座といわれるものに細分化され、現在の神社にそのまま残る、鎮守の森や神木や霊石のことでもあり、榊の御幣(神籬)や玉垣にその名残が見られる。これらは玉垣を除き、すべて神の宿るものでもある。また、山や森林や巨石だけでなく、滝や湖沼など河の特徴的な部分とも取れる場所も同様である。
また、農耕や狩りや漁りを行う上で、気象は重要であり、雨(狐の嫁入り)や雷(稲妻と呼び豊作の象徴)や火や日(太陽)を神が宿るものと考え崇拝した。太陽は山岳信仰と結びつき、日本人の朝に対する美徳の価値観から、日の出信仰へと変わって行き、この国の象徴となり、日ノ本の国や日の丸という国旗になった。
[編集] 神社神道・社と巫
古神道の発祥した太古から神殿があり、遺跡などでその跡が発掘されている。神殿では、祈祷としての神降ろしを行い神託としての啓示をしていたといわれ、卑弥呼も巫女であったと伝えられる。この神殿による祈祷と神奈備や神籬や磐座の土地が結びついて神社と「社」が建立されて、神社神道になっていった。このときに自然崇拝をやめ日本神話の神々である人格神を賽神とし、その宿る場所を社とした。
その社で太古の卑弥呼と同じように、神事としての祈祷や奉納の舞が行われ、これは神和ぎ(かんなぎ)という神を鎮める能力を持つ、巫(かんなぎ)と呼ばれる神職が、神楽(舞やお囃子や唄)にて御霊代(みたましろ・依り代)になり、神降ろしを行い神託を得ている。
[編集] 皇室神道・三種の神器
皇室神道においては、神が宿るものは、鏡・剣・勾玉であり、日本神話の神々の子孫として、その時代から受け継がれたとされる三種の神器が、存在するといわれる。
大相撲の本来は、皇室に奉納される神事であり、横綱はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。
[編集] 憑依・祖霊信仰と里山
古神道の根幹の一つに祖霊信仰があり、縄文時代にはすでに行われていたとされる。死生観から霊の存在を認め、祖先の慰霊に努めたが、祖霊だけでなく様々な霊の状態が考えられ。それらも神霊として神と同じようなものとした。そのためその霊が、神と同じように人にも宿ると考えた。また里山に代表されるように、自然と共生してきた日本人にとって、動植物は身近であり、里山で見られる小動物にも神が宿ると考えた。また命をなくしたものの遺骸などにも命が宿ると考え、食料として命を落としたものや、戦いで命を落とした者の塚を立て、その塚に宿った神霊を祀った。
[編集] その他
ユダヤ教から派生したキリスト教もイスラム教も旧約聖書と崇める神(ゴッド・ヤファウェイなど呼称は様々だが同一である)そして、中心となる者がそれぞれ、モーゼやイエスやムハンマドであるだけで、それぞれが、神の神託としての預言や予見や福音などの啓示を受けるものであり、見方を変えればそれぞれが神が宿ったものともいえる。そのことを示している事例では、キリスト教世界では、聖書は自動筆記オートマティスムによって神の言葉が記述されたものとされている。またコーランも同じように、神との交信により記されたとされる。
[編集] 哲学
プラトンはその著作『パイドロス』の中で「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。
[編集] 社会におけるあり方
[編集] 祓い
昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。西洋のエクソシストは憑依現象に対する浄化やお祓いともいえる。
また、非科学的な迷信によって突発的な自己誘発性催眠状態(憑き物現象)を引き起こす元となる、好ましくない自己暗示などを与える可能性があるので不用意に行うべきではない、と警告する人もいる。
[編集] 憑依と差別・蔑視・病
憑依は宗教における文化的行為の範囲を超えないため、憑依される本人が、宗教上の儀式であることを認めない場合や、虚偽や虚言でないときは、科学や医学の観点から論ずると差別や蔑視が生まれ時として精神的な病気とされてしまう。
精神医学から病とされた憑依
医学においては森田正馬(森田療法で有名)が命名研究した祈祷性精神病や、複数人に同様症状がおきる感応精神病(フォリアドゥ フランス語 folie a deux)など精神疾患の一種と解釈される場合もある。
精神医学から保護するべきだとされた憑依
沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、"治療される対象として病院に隔離・監禁すべき"とする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた[1]、ともされる。沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続している[2]、ともされる。
[編集] 出典
- ^ 塩月亮子、2006「憑依を肯定する社会:沖縄の精神医療史とシャーマニズム」(宗教研究、<特集>第六十四回学術大会紀要)
- ^ 塩月亮子 同上
[編集] 関連項目
神霊の憑依
神
神以外の憑依
医学的見地
[編集] 関連書
- 池上良正『死者の救済史 -供養と憑依の宗教学-』角川書店, 2003年 ISBN 4047033545
- 花渕馨也『精霊の子供: コモロ諸島における憑依の民族誌』春風社、2005 ISBN 4861100313


