憲宗 (朝鮮王)
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憲宗(ホンジョン、けんそう、道光7年7月18日(1827年9月8日) - 道光29年6月6日(1849年7月25日))は、李氏朝鮮の第24代国王(在位:1834年 - 1849年)。諱は奐。字は文応(ムヌン、문응)。号は元軒(ウォンホン、원헌)。諡は荘粛[1]体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王。わずか7歳で即位し、病弱だったため、22歳で崩御した。純祖の孫で、孝明世子の息子。母は趙万永の娘神貞王后。妃は孝顕王后(金祖根の娘)、明憲王后(洪在竜の娘)。
純祖の妃である純元王后が摂政となっていたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏(憲宗の母神貞王后の実家)の勢力争いがあった。
[編集] 生涯
孝明世子(後に翼宗に追尊)と神貞王后趙氏の息子として生まれ、王世孫に冊封された。1830年に孝明世子が世を去り、1834年に純祖が崩御すると、8歳(数え年)の年で即位した。年が幼いことから大王大妃の純元王后が7年間垂簾聴政をしたが、15歳になった年に親政を開始した。
憲宗が国を治めた時期は、朝鮮社会を支えてきた身分秩序と封建制度の崩壊があちこちで現われ始めた時だった。また水害と伝染病のため、生活が徐々に困難になり家を捨ててさすらう流民が急激に増加した。
このように社会の不安から国王を裏切って軍を起こした謀反事件が2度にわたり発生した。1836年には忠清道にいた南膺中が、正祖の弟である恩彦君の孫を国王に推戴しようとし、1844年には閔晋鏞が再び恩彦君の孫を国王に推戴しようと画策したが、すべて失敗に終わった。2度の謀反事件ともすべて、何の政治的勢力もない中人と没落した両班が起こしたことで、この時期には誰もが王権に挑戦することができるほど国王が軽んじられていた。
1845年にはイギリス軍艦サマラン号(Samarang)が朝鮮政府の許諾なしに済州島と西海岸を測量して帰る事件があり、1846年にはフランス提督セシルがカトリック弾圧(後述)を口実に、軍艦3隻を率いて国王に国書を携えに行く事件が発生した。そして1848年には外国船が慶尚道・全羅道・黄海道などへ頻繁に出没し、民衆が大いに動揺した。まさにこの時から朝鮮は西欧列強から通商と門戸開放要求にあうようになったが、朝鮮は国際情勢に暗かったせいで何の対策も立てず、各家の権力闘争に明け暮れた。
憲宗時代には大規模なカトリック弾圧があり、これを己亥迫害と呼ぶ。当時朝鮮におけるカトリックは1831年カトリック朝鮮大教区(現在カトリック・ソウル大教区)が承認されるほど大きく成長したが、1839年の己亥迫害でモーバン(Maubant)神父らのパリ外方伝教会所属カトリック宣教師と劉進吉・丁夏祥らの一般信者たちがセナムトで一挙に処刑され、1845年には韓国教会史最初の韓国人カトリック司祭である金大建神父が殉教する事件があった。
9年間の親政期間、安東金氏と豊壌趙氏の権力争いに巻き込まれた憲宗は、国内はもちろん、朝鮮周辺の状況が急激に変わっているという事実が分からず、朝鮮に近づく列強勢力に対する対応策も準備することができないまま、1849年6月、23歳(数え年)で崩御した。
[編集] 脚注
- ^ 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち 朝鮮日報 2007/09/16
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最終更新 2009年5月9日 (土) 10:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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