成富茂安

成富茂安の最新ニュースをまとめて検索!

成富茂安(なりどみ しげやす、永禄3年(1560年)- 寛永11年(1634年))は龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。成富兵庫茂安。

目次

[編集] 経歴

龍造寺家の家臣、成富甲斐守信種の次男として永禄3年に現在の佐賀市鍋島町増田に生まれる。幼名は千代法師丸、新九郎。幼いころは手のつけられない暴れ者だったが、父親の素行が改まらぬ時は殺す覚悟での説得に改心し、以後勉学に励むようになる。

15歳で龍造寺隆信大友氏の大軍を相手にした戦に加わって勇敢さを認められ、小姓として取り立てられたほか、隆信から十右衛門の名を与えられて賞された。隆信の死後は鍋島直茂に仕え、直茂の一字を与えられて兵庫助茂安と改めた。島津攻めから朝鮮の役関ヶ原の戦い大坂の陣のいずれにも従軍し、大きな功を挙げている。

豊臣家の時代となり、その部下の加藤清正と出会ってからは、彼の手がけた名古屋城熊本城の築城を助けたほか、江戸の町づくりにも参加した。この経験を、「沈み城」の別名を持つ佐賀城の設計に繋げたほか、水害の防止や新田開発、筑後川の堤防工事や潅漑事業、上水道の建設など、様々な内政に生かしている(「筑後川#開拓と藩政下の治水」の項参照)。彼の手がけた事績は細かい物も入れると100を超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているものもある。

功名を追わず、民の声をまず聞く姿勢は、佐賀鍋島藩の武士道の教書でもある「葉隠」に紹介されており、影響を与えた。

1634年、死去。その内政手腕は明治時代になって明治天皇に大いに賞されることとなり、従四位を追贈されることとなった。また、佐賀藩が明治時代まで続く基礎を作り上げた功労者とも言えるであろう。

墓所は佐賀市田代の本行寺。また、みやき町の白石神社には水の神として祭られている。

[編集] 影響

茂安の設計の特色はそれぞれの工事を単独に行うのではなく、中小河川やクリーク江湖などを巧妙に結び付け、平野全体で治水、利水、排水を処理するというシステムにある。このことからどこか一部で不具合が起こると佐賀平野全体の水利に影響が出るため、この地では水利に手を掛けることは一種のタブーとなった。このため、江戸期を通じて佐賀藩では水争いや百姓一揆による暴動がほとんど起こらなかった。

佐賀市兵庫町(旧佐賀郡兵庫村)は彼が成富兵庫茂安と呼ばれたことにちなんでおり、また、かつて佐賀県三養基郡内には北茂安村・南茂安村(いずれも現在の三養基郡みやき町の一部)が存在したことがあるが、これらも彼の名にちなんだものである。

[編集] エピソード

蛤岳から筑前方面に流れていた水を肥前側へ通す「蛤水道」を作ったため、水不足に陥った福岡で水道の破壊が計画された。実行には警備の目を欺くため「お万」という子持ちの女性が選ばれたが、あまりの警備の厳しさから果たすことができなかった。その際には、お万は泣き声で見つかることを恐れ連れていた乳飲み子を滝壺に捨て、自らも池に身を投じた。子を捨てた滝を「稚児落としの滝」、お万が身を投じた池を「お万ヶ池」と呼び、今もその名が残っている。その後、蛤水道の水路さらえには、お万の霊が必ず雨を降らせたり曇らせたりし、作業を妨げるという言い伝えがある。なお、茂安はその後「野越し」というオーバーフローを作り、筑前側にも水が流れるように改良した。

肥後の領主になった加藤清正は当時二千石の侍大将だった茂安を一万石で召抱えようとしたが、茂安は「たとえ肥後一ヶ国を賜るとも応じがたく候」と応え断った。清正はその忠義に感涙したといわれる。

[編集] 主な事績

最終更新 2009年6月21日 (日) 21:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【成富茂安】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!