摂津有馬氏
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有馬氏(ありまし、赤松氏流)は日本の氏族。 氏祖は赤松則村(円心)の孫で赤松則祐の五男・有馬義祐。摂津国有馬郡の地頭に補せられ、その地に移り住んだため有馬氏を称した。他流の有馬氏とは区別して摂津有馬氏、赤松有馬氏とも呼ばれる。
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[編集] 摂津有馬郡主家
摂津国有馬郡を所領とする有馬氏嫡流は天正3年(1575年)の有馬国秀の自害によって断絶した。
[編集] 福知山藩・久留米藩 藩主家
庶流にあたる有馬重則は播磨国美嚢郡に進出し、同族の別所氏やその縁戚の淡河氏と対立した。その子の則頼は豊臣秀吉に従い、後に御伽衆に列した。則頼の子豊氏は豊臣秀次の家老渡瀬繁詮に仕えていたが、文禄4年(1595年)に繁詮が秀次事件により改易されるとその領地である遠江国横須賀3万石を引き継いで治めた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の旧領摂津国有馬郡三田藩2万石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。慶長7年(1602年)に則頼が没すると豊氏はその遺領を含め8万石に加増された。その後、大坂の陣においても徳川方として活躍したため、元和6年(1620年)にはさらに加増移封され筑後国久留米藩21万石の藩主となった。家格は大広間詰で、国持大名の扱いを受けた。
明治4年(1871年)、廃藩置県により11代目藩主頼咸の代で久留米藩は廃藩。その子の13代当主有馬頼万のときに伯爵の爵位を授爵し華族に列せられた。14代当主有馬頼寧は大正・昭和期の政治家。農政・教育に携わり戦前は農林大臣、大政翼賛会事務局長などを歴任。戦後には日本中央競馬会第2代理事長としてファン投票による出走馬の選定という当時前代未聞の画期的な選抜方法を考案し、有馬記念にその名を残している。頼寧の三男で15代当主の有馬頼義は第31回直木賞作家である。頼義の子で当代の有馬頼央は有馬家ゆかりの神社水天宮の神職及び奨学団体の理事長を務めている[1][2]。臨済宗相国寺派管長の有馬頼底は分家の出身。
[編集] 筑後松崎支藩主家
久留米藩2代藩主忠頼は当初跡継ぎに恵まれなかったため、出石藩主小出吉重の子で外甥にあたる有馬豊祐を養子とした。しかし、後に頼利、頼元が生まれ、豊祐には支藩として松崎藩1万石を分封された。 だが豊祐は縁戚である窪田藩主土方氏のお家騒動の仲裁を怠った責を問われて土方雄隆(正室が小出吉重の娘、豊祐にとっては姉婿)に連座。改易された。嫡子小出英致(初名:有馬豊胤)は小出氏の養子となり、松崎支藩主家はわずか一代で断絶した。
[編集] 伊勢西条藩・五井藩・吹上藩 藩主家
江戸時代初期、久留米藩初代藩主有馬豊氏の子で分家の有馬頼次は徳川忠長に仕えた。しかし忠長が改易されると、頼次の跡を継いだ外孫の有馬吉政以降は代々紀州徳川家に仕えることとなった。有馬氏倫の時に将軍となった徳川吉宗に側衆として仕え、後に伊勢、上総、下野国内に領地を授かり、享保12年(1727年)には伊勢西条藩1万石の譜代大名に昇格した。天保13年(1842年)、5代藩主有馬氏恕のときに上総国へ陣屋を移して五井藩を立藩。続いて氏倫から9代目(五井藩5代目)の藩主有馬氏郁の時には下野国に移り吹上藩となっている。
廃藩置県により10代目(吹上藩2代目)藩主有馬氏弘の代で廃藩。久留米藩主有馬頼咸の子有馬頼之が養嗣子となり、子爵の爵位を授爵して華族に列せられた。頼之の子の有馬聰頼は昭和18年(1943年)に爵位を返上している。
[編集] 系図
凡例 太線は実子、細線は養子。 赤松則祐 ┏━━━━━╋━━━━━━┓ 有馬義祐 赤松義則 別所持則 ┃ (赤松氏) (別所氏) 持家 ┃ 元家 ┃ 則秀 ┃ 澄則 ┏━━━┫ 則景 村則 ┃ ┃ 重則 村秀 ┃ ┃ 則頼 国秀 ┃ 豊氏 ┣━━━━━━━━━━━┓ 忠頼 頼次 ┣━━━┳──────┐ | 頼利 頼元 豊祐 吉政 ┃ | 頼旨 義景 | ┃ 則維 氏倫 ┃ | 頼徸 氏久 ┃ ┝━━━┓ 頼貴 氏恒 氏房 ┃ | 頼徳 氏恕 ┣━━━┓ | 頼永 頼咸 氏保 ┃ | 頼万 久保 ┃ ┃ 頼寧 氏貞 ┃ ┃ 頼義 氏郁 ┃ | 頼央 氏弘 | 頼之 ┃ 聰頼
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
最終更新 2009年9月28日 (月) 15:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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