支那
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支那(シナ)は、中国または「中国の一部」をさして用いられる、王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。
本来、差別用語ではなく、何ら差別的な意味合いを含むものでもない。しかし、自らを中華と称する中華民国が支那と呼ばれることを嫌うことを幾度も伝えてきたため、日本は1930年の閣議決定で「支那国ではなく中華民国と書くこと」を決め、更に第二次世界大戦後1946年の「支那の呼称を避けることに関する件」という外務省次官通達により公的文書での「支那」の呼称使用が事実上禁止された。
今日でも、中国人から見て東夷である日本より支那と呼ばれることを嫌う感情を持っていることは明らか[1]であり、「支那」を使用することは中国や中華に対する嫌悪の表現であると誤解されることが多い。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 用法
中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。また清の末期(19世紀末 - 1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷を超えた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある [2]。
日本では、伝統的に黄河流域の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。学術分野では、伝統的には「漢」の文字を用いて「漢学」「漢文」等の呼称が用いられてきたが、明治中葉より、漢人の国家やその文化に対して「支那」が用いられるようになった。ただし「漢人」「漢民族」の定義は不確定であり学術的に確定しいているわけではない。
辛亥革命によって成立した共和国が「中華民国」を国号として採用したのに対し、日本政府は「『中華』には自尊自大の気がある」としてこの国号を嫌い、中国政府と締結する条約の文面など、正式呼称を用いることが不可欠な場合を除き、この共和国に対する呼称を「支那共和国」と称することを定めた。以上の結果、日本における「支那」という呼称は、以下の2つの概念に対する呼称として使用されることになった。
2.の「中華民国」という国家に対する呼称としては、すでに第二次世界大戦中、汪精衛政権への配慮から「支那共和国」に代えて「中華民国」を用いるべきとされ、さらに1946年、改めて外務省より「中華民国」を用いるよう通達が出された。
一方、中国では、辛亥革命以前の共和主義運動の中では、漢人民族主義や、清朝の領土のうち漢人の土地の部分のみを領土とする国家を追求する主張もみられたが、1911年以降、実際に共和政権が樹立されるにあたっては、モンゴル、チベット、東トルキスタン、満州などを含む、清朝の遺領をそのまま枠組みとする領域が領土として主張され、また「中国」という多民族国家がこの領域を単位として古来から一貫して存在してきたという歴史認識が採用されることになった。その結果、この「中国」の一部分である漢民族の土地だけに対し、ことさら「王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称」を別途つけることは行われなかった。すなわち、中国においては上記1.2.のうち、1.の用法で用いられる「支那」と置換可能な呼称も概念も作られることなく現在に至っている。
[編集] 言葉の由来と歴史
支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。
チーナとは中原初の統一王朝秦(拼音: Qín, 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされるが、諸説ある。
日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない[要出典]。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。特に明治期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての中国大陸の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えることが行われた(例:「漢文学」→「支那文学」)。
日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む[要出典]。戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあった[要出典]。この語への反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。
[編集] 学術界における使用例
日本の歴史学会では明治時代から、「支那」は東アジア地区の、黄河、長江流域を主たる国土を実効的に支配する部族、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な地域名称、国号として使用された。東京大学や京都大学に設けられた支那史専攻は、この地域国家の歴史を研究対象とする専攻である。
日本の東洋史学界では、北アジアの遊牧民やチベット、中央アジア、西アジアは「塞外」というカテゴリーに括られ、支那史とは別範疇に属していた。
清朝を打倒して成立した中華民国は、「シナ」だけでなく、その周辺のモンゴル、チベット、東トルキスタン等もその領土として主張したため、厳密に言えば、支那(シナ)と中国は、領域も住人も、その範囲には著しい相違がある。中国では、シナとその周辺の諸地域、諸民族が古くから一体の「中国」を形成してきた、という歴史認識を採用したため、シナの部分だけを指す、王朝や政権の変遷を超えた、通時的な国号を別途に設けることはしなかった。
故に日本の東洋史学界では、第二次世界大戦以後、中華民国に対して理屈は抜きにして「支那」という呼称を使うべきでないという外務省通達が出た後も、長らく「支那」(シナ)という呼称を使い続ける人もいた。東京大学の榎木一雄は、その晩年に至るまで、一貫して自身の用語としては「支那」の用語を用い続けた。1992年に朝日新聞社から刊行された地域からの世界史シリーズの第6冊、『内陸アジア』では、モンゴル史の専門家中見立夫が、上述の漢人国家と中国概念のズレについて考察したのち、
近代世界におけるモンゴル民族やチベット民族の歩みを跡づけると、「中国」という概念の問題が浮かび上がる。これらの民族には、少なくとも清朝崩壊の段階では、漢人が居住する地域といった意味での「中国」という言葉はあった。誤解を恐れずに書くならば、「シナ」(この場合、おおむねモンゴルやチベットは含まれない)という地域概念はあった。しかし、漢人たちが抱くような、多民族の共同体、歴史的な存在としての「中国」という概念は欠如していた。
という文脈で「シナ」という語を使用している(「モンゴルとチベット」, p.156)。
また、言語学では、「シナ・チベット語族」などの用語が一般的に使われている。また、中国という呼称は、「シナとその周辺の諸地域からなる多民族国家の呼称」であって、漢民族だけの固有の土地、言語等に冠することはできない、英語の「チャイナ」、ドイツ語の「ヒーナ」、ラテン語の「シナエ」、ポルトガル語の「シナ」等に対応する日本語の呼称は「支那(シナ)」であるという立場から、いわゆる中国語に対して支那語、シナ語と呼称する研究者もみられる[4]。
このように、学術界における「支那(シナ)」の使用は、第一に、概念と用語に厳密であろうという学術的態度と、第二に、シナの部分だけを指す王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な固有名詞の呼称が存在しないこと等に起因するものであり、使用者たちの政治的立場と関連性はみられない[5]。
[編集] 呼称への賛否
[編集] 支那とチャイナ
支那はChina(チャイナ)と同じく単なる外国から中国を呼ぶときの呼称であって、江戸時代初期から1946年の外務省次官の通達まで日常的に使われてきており、中華民国との戦争当時に限って使われた呼称ではない。
中国自体、日本にこの呼称を使用されることを忌避している。日本では、連合国軍占領下の(中華民国含む)1946年の外務省の次官の通達により、放送・出版物においては中国のことを支那とは呼ばないようにしている。ただし、この通達の適用範囲は「正式文書における国家としての「中華民国」への呼称」に限られており、中華人民共和国がその継承国家であるにせよ適応するのは問題があるし、国家名以外の歴史用語・地理用語、さらに公的文書以外の使用について適用させるのは拡大解釈であるとして通達の効力を疑う意見がある。また、通達文の中に「理屈は抜きにして」という、論理的な説得力が無いことを自ら認めるような表現があることも知られている。
「欧米がChinaと使っているのだから、日本もシナと言っていいはず」という主張に対し、言葉は文脈によってその意味を全く違えるのであって、日本語における支那と欧米の言語におけるChinaは全く意味が異なるという意見もある。ただし逆に言えば日本語の文脈上で支那を尊敬すべき呼称として使用されている例[要出典]もある。
[編集] 戦争当時
戦争当時の中国人の蔑称は「チャンコロ」や「ニーヤン」であり、「支那人」ではない。
ただし、支那という言葉は、日清戦争や日中戦争時、日本が中国を占領下に置いていた時代に盛んに使われた呼称であり、中国政府や中国人を非難・侮蔑するときにたびたびセットで使われたため(「膺懲支那」「逃げるはシナ兵、山まで蹴っ飛ばせ」)、このことにより差別的な概念が生まれたとする意見もある。ただし、この事例は戦争当事国の間の一例である。当時、支那においても日本及び日本人に対する、非常識、差別的そして侮辱的な言動、報道や実際の略奪的・暴力的行動も多数あった。
「日中戦争以前からシナは使われており、言葉自体は差別的でなく、無色中立である」という主張に対し、一方では「言葉は時代とともに変化していくものであり、かつては中立であったものも、時代が変われば差別的になりうる」という反論もある。たとえば、座頭、つんぼ、めくら、キチガイなど。しかし「支那」という言葉が、「時代が変わってどのように差別的なったのか?」「めくら、キチガイなどの身体的な差別用語と同列に語るようなものではない」という再反論もある。
[編集] 中国
中国の「中」は自国の自尊の称である。古くは中原(ちゅうげん)とも呼ばれた。『日本書紀』の中で、日本自身のことを「中国(なかつくに)」と呼称しているのはそれゆえである。自国を尊称で呼ぶのはおこがましいと考える人もいるが、自分たちの土地・民族を尊称で呼ぶのは世界中共通したもの(大日本帝国、大韓民国、イラン、スラヴなど)である。もっとも、現代の日本人は中国を単に「中華人民共和国」の略称としてしか意識していない場合がほとんどであり、尊称であることを知らない人も多い。なお台湾に存在する中華民国も「中国」という通称も用いているが、中国といえば「中華人民共和国」を意味するのが1972年以降形成された今日の日本の通例である。
[編集] 日本での事例
現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。また、「支那事変(日華事変・日中戦争)」などの歴史用語や学術用語、「支那そば(ラーメン・中華そば)」「支那竹(メンマ)」などの歴史的な言葉は、これを差別語と理解する人々からは括弧内のように言い換えられている[6]。
あえて「支那」と表記する場合には、「中国」や「中華」に対する嫌悪の情と受け取られる場合が多い[要出典]。
「東シナ海(中国や韓国の地図ではそれぞれ「東海」「東中国海」と表記)」のように漢字を使用しない表現は、日本国内では言い換えを必要としない[6]。
大宝律令を編纂して新国家体制を整えた701年前後に日本が「悪字である倭という名称を嫌って日本へ改称した」という記録が唐の歴史書にある。日本では奈良時代中期より、倭を同音好字の「和」と置き換えるようになった。現代において、中国が日本を公式に「倭」と呼ぶことはないが、日本や日本人に対して侮蔑的な意味を込めて「倭」を用いることがある。
詳細は「倭」を参照
1913年(大正2年)6月、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称すると閣議決定した。
1930年(昭和5年)10月31日「支那国号ノ呼称ニ関スル件」という閣議決定[7][8]では、「これまでは外交文書で「中華民国」と書く必要のあるものを除いて通常文書では「清国」のことを「支那」と記載してきたが、当初から中華民国側は支那という呼称を好ましくないとしていたし、特に最近は中華民国の官僚や民衆が不満を表明することが多くなっているので、その理由の如何はさておいて、中華民国政府からの正式な申し入れはないけれども、今後は「支那国」ではなく「中華民国」と書くことにする。」と決めた。
1937年(昭和12年)9月2日「事変呼称ニ関スル件」という閣議決定[9]では、「今回の事変を支那事変と呼称する。」と決めた。
1946年(昭和21年)6月13日「支那の呼称を避けることに関する件」という外務次官通達によって「中華民国の呼称に関する件」という外務省総務局長通達を公告した。それによると、終戦後に中華民国の代表者から公式非公式に「支那」の字の使用をやめてほしいとの要求があったので、今後は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わないようにしたいとしている。
[編集] 中国人自身による事例
明治期に中国との国交が樹立された際、中国は清朝(満州族)の統治下にあり、明治日本はこの国を清国と称し、その国民を清国人と呼んだ。19世紀の再末期より、共和主義運動が広まるにつれ、中国人共和主義者たちの間で、清国、清国人という呼称は「満清の臣下」を意味するという理解から、清にかわる、いまだ存在しない自分たちの共和国の呼称についての模索が開始された。
そのような時、王朝や政権の変遷を超えた、国号としても使用可能な固有名詞の呼称のひとつとして古典の中から「支那」という呼称が見いだされ、一時期広く使用された。中國當時的留學生,尤其是反對清朝統治的革命家們,也以支那標志出身國。1902年,章太炎等在日本東京發起《支那亡國二百四十二年紀念會》。1904年,宋教仁在東京創辦了名叫《二十世紀之支那》的雜志。另如孫中山的革命夥伴,日本人梅屋莊吉,在辛亥革命成功後在日本發起成立“支那共和國公認期成同盟會”(此一歷史在廣州黃埔軍校的孫中山紀念館內有記載,該期成同盟會的匾額亦可見於該地),敦促日本政府承認中華民國,此時的支那也顯然沒有侮辱之意。
たとえばもっとも早期から反清蜂起を繰り返してきた共和主義革命家孫文の前半生を紹介した宮崎滔天の『三十三年之夢』に孫文がよせた前書きでは、中国の呼称として、いくつかの名称と並んで支那の呼称が使用されている。
戦前は魯迅などの日本へ来る中国人留学生たちは、日本語の「支那」という呼称を拒絶しなかったが、日本ではそのように表現するのが常態化していたからである。
[編集] その他
- Microsoft Windowsに使用されているMS-IMEや、ATOKなど一部の日本語入力システム(ことえり2は除く)では、出荷時に「支那」という単語が辞書登録されておらず、各自登録をしないと「しな」を「支那」に漢字変換出来ない。これについて、何らかの抗議があった、あるいは国際問題に巻き込まれるのを危惧した、などの噂がある。最近の携帯電話やパソコンの漢字変換辞書等では、最初から辞書登録がされているため、一部で行われているだけのようである。
- この他、戦後、中国からの輸入品の中にも支那を記した物が多い。これらは日本で記した物ではなく中国に於いて記され出荷された物で、シナチクなどが有名である。
- 一部の旅行会社や中核派等の政治勢力ではインドシナを「インドチャイナ」と呼ぶなど、読み替えを進めている。[要出典]
[編集] 関連項目
- 東シナ海
- 南シナ海
- シナ・チベット語族
- 支那学 - かつてはこのような学術分野があった(シノロジー;de:Sinologie / pt:Sinologia / en:Sinology / eo:Ĉinologo / fi:Sinologia / zh:漢學)。現在は、中国学と称されるのが一般的である。
- シナントロプス・ペキネンシス - 北京原人 - 古人類学の呼称変更により、この学名は死語と化した
- シノワズリー
- ラーメン - かつて広く「支那そば」と呼ばれ、現在でも支那そば屋というチェーンや、「支那そば」を商号に用いるラーメン店がある。
- 支那人
- メンマ - 食材のひとつでシナチクとも呼ばれる。
- 中華思想
- 支那事変
[編集] 出典・参照
- ^ Yahoo!ニュース中国版2008-08-01。重慶で紫那火鍋という店名を間違って支那火鍋と横断幕に掲げた店に非難が集中したというニュース。日本語訳・中国語
- ^ 孫文が宮崎滔天『三十三年之夢』に寄せた序文
- ^ 東京帝国大学では、東洋史専攻をさらに支那・塞外・西域・朝鮮に細分化していた。
- ^ 社会言語学者・モンゴル学者の田中克彦は「シナ語」を使用
- ^ 東洋史学における例、言語学における事例を参照。
- ^ い ろ 差別語・放送禁止用語一覧民族・国際差別関連
- ^ 国立国会図書館議会官庁資料室 1930年(昭和5年)10月31日閣議決定「支那国号ノ呼称ニ関スル件」
- ^ 外務省「第二次外相時代-幣原外交終焉の時」
- ^ 国立国会図書館議会官庁資料室 1937年(昭和12年)9月2日閣議決定「事変呼称ニ関スル件」
[編集] 外部リンク
- 周程『“支那”与“sina”―亦谈新浪网域名的是与非』(『支那とsina―新浪のドメイン名の是非を論じる』、人民日報1999年5月7日掲載評論)(個人日本語訳)
- 「シナ」という言葉が差別的とは?
- 鈴木秀明編集「日中勘違い:「支那」という言葉について考える(1)(2)(3)(4)」2009年3月19日~4月9日。
- 外務省外交史料Q&A[1]「戦前に、中国の呼称を「支那」から「中華民国」に変更した経緯を示す記録はありますか。」

