文禄・慶長の役
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| 文禄・慶長の役 | |
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![]() 文禄の役・釜山城攻略/『釜山鎮殉節図』(1709年初筆を1760年に模写) |
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| 戦争: | |
| 年月日:1592年4月 - 1598年12月 | |
| 場所:朝鮮半島 | |
| 結果:豊臣秀吉死去により日本軍が帰国し終結(詳細は本文参照) | |
| 交戦勢力 | |
| 日本 | 明 李氏朝鮮 |
| 指揮官 | |
| 豊臣秀吉 他下記参照 |
下記参照 |
| 戦力 | |
| (諸説あり) | (諸説あり) |
| 損害 | |
| (諸説あり) | (諸説あり) |
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮:万暦26年)にかけて、日本と明との間で行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。
目次 |
[編集] 名称について
豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、この戦役が日本が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであることから唐入り・唐御陣、あるいは高麗陣・朝鮮陣などの呼称が用いられていた。幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐、征韓などと呼ばれるようになったが、1910年(明治43年)の日韓併合以後は朝鮮人が日本国民とされたことから朝鮮征伐の表現は避けられ、代わって第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という呼称が定着した(他にも朝鮮出兵や朝鮮役・征韓の役という呼び方もある)。近年では、朝鮮半島が戦場となったため、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ研究者[1]を中心に朝鮮侵略と呼ぶ場合もあり教科書記述にもその影響が見られる。しかし豊臣秀吉はあくまで明を征服することを目指しており、朝鮮そのものの征服が目的ではなく、あくまで明への出兵の途上での戦役であった。
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。北朝鮮・韓国では当時の干支を取って文禄の役を壬辰倭乱(じんしんわらん、임진왜란、イムジンウェラン、戦役総称として使う場合もあり)、慶長の役を丁酉倭乱(ていゆうわらん、정유왜란、チョンユウェラン)または丁酉再乱(ていゆうさいらん、정유재란、チョンユヂェラン)と呼んでおり(北朝鮮では壬辰祖国戦争(じんしんそこくせんそう、임진조국전쟁、イムジンチョグクチョンジェン)と呼ばれる場合もある)、中国では万暦朝鮮戦争(ばんれきちょうせんせんそう、万历朝鲜战争)もしくは朝鮮壬辰衛国戦争(ちょうせんじんしんえいこくせんそう、朝鲜壬辰卫国战争)と呼ばれる。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は元号的には天正20年の出来事である。
[編集] 背景
[編集] 秀吉の戦争準備
1590年代までに、豊臣秀吉は日本を統一し、短期間の平和をもたらした。秀吉が明を侵略する事を計画した理由は、かつて仕えた織田信長の遺志を継いだとも、武士や足軽の人数が過剰になっており将来の内乱や反乱を誘発する可能性を憂慮したためとも、国内の統一戦争の延長として考えていたとも言われている。急成長を遂げて来た豊臣家は、発展することにより家臣の家禄を増やし忠誠心を維持しており、その発展が止まる事は豊臣家の天下の存続に係わる問題であった。
1590年に小田原城の北条氏を降伏させ、日本は再び統一された。そして秀吉は次の戦争の準備を開始した。1591年3月から、九州の大名に命じて名護屋城(現在の唐津市)の建設を始めた。これは侵攻軍の動員の中心基地となるものである。
秀吉は、日本を統一するよりもずっと前から、大陸侵攻計画を練っており、広範な準備を行っている。1578年ごろ、秀吉は信長の部将として、毛利輝元と中国地方の覇権を争っていた。このとき、輝元に信長の明侵攻計画を知らせている。1592年には、秀吉はフィリピンに書状を送り、入貢を求めた。このとき、既に朝鮮と琉球は日本に入貢していると述べている。
軍事的な準備に関しては、既に1586年から、2000隻の船の建造を始めている。1587年には朝鮮軍の強さを測るため、秀吉は26隻からなる襲撃部隊を朝鮮南岸に派遣し、朝鮮軍は問題にならないと結論づけている。
外交面では、秀吉は日本を統一するずっと前から明とは友好関係を築こうとしており、交易ルートを荒らしていた倭寇の取締りを援助したりもした。
[編集] 軍事力
当時の朝鮮と明に対する主な軍事的脅威は、女真と倭寇であった。女真は北の国境地帯で襲撃を繰り返し、倭寇は海岸近くの村や貿易船を襲撃して掠奪していた。
倭寇に対抗するため、朝鮮は水軍を養成し、対馬を攻撃した(応永の外寇)。また、女真に対しては、図們江に沿って防衛線を構築した。この間、朝鮮では比較的平和が保たれていたため、朝鮮軍は要塞と軍船に偏重した編成となっていた。高麗王朝の間に火薬が導入され、朝鮮では火砲が開発されており、これが海戦では大きな威力を発揮した。
一方、日本は長い内戦状態(戦国時代)にあったため、軍隊はポルトガルから持ち込まれたマスケット銃(火縄銃)で武装するようになっていた。このような兵器戦略の違いが、陸戦における日本優位、海戦における朝鮮優位につながった。15世紀中頃から日本は内戦状態にあったので、豊臣秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の職業軍人が居た。これは当時のアジアで最大の軍隊であった。
室町時代~戦国時代の日本は混乱していたため、朝鮮側は日本を大きな軍事的脅威とは見做していなかった。秀吉が日本を統一し、1588年の刀狩、海上賊船禁止令により倭寇は終息に向かったが、朝鮮側は秀吉の侵攻も倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えていなかった。
朝鮮の軍事状況について言えば、朝鮮の学者官僚であった柳成龍は「(朝鮮の将軍が)百人いても誰も兵の訓練方法を知らない」と述べている。将軍は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進出来るかどうかが決まっていた。朝鮮の軍隊は組織が緩んでおり、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、そのほとんどは城壁などの建設工事に従事していた。
[編集] 朝鮮の防衛政策の問題点
朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が急拵えの部隊を引き連れて来るのを待たねばならなかった。更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
朝鮮王朝はいくつかの改革を行ったが、その改革も問題が多かった。例えば、1589年に設置された軍事訓練所は非常に若すぎるか、非常に老いた兵ばかりを採用し(壮年男子は農耕やその他の経済活動に従事していたため)、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層が多少加わっているのみであった。
一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものであった。城壁は貧弱なものであり、(日本や西洋の城塞に見られるような)塔や十字砲火の配置はあまり用いられておらず、城壁の高さも通常は低いものであった。
戦時の政策としては、住民全員が近隣の城へ避難する事とし、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなされた。しかしながら、多くの住民にとって城は遠すぎる場所にあったため、この政策は大きな影響を持たなかった。
[編集] 兵力
豊臣秀吉は、侵攻軍と予備軍の宿営地として新たに建設した名護屋城(現在の唐津市にある)に軍隊を集結させた。文禄の役の際に動員されたのは、9軍団に分かれた総勢158,000人で、その内の2軍団21,500人は予備[2]として、それぞれ対馬と壱岐に駐屯した。慶長の役では141,500人[3]が動員された。ただし、これらは諸大名に賦課された軍役の動員定数であって動員実数はその八割程度とする見方がある。[4]なお、日本軍の動員数には人夫や水夫などの非戦闘員が含まれており、非戦闘員が全数の四割以上を占めていた[5]ため、両軍の兵力を比較する際には留意が必要である。
一方、朝鮮はその王朝自身が高麗の一部将であった李成桂の謀反による簒奪であったという出自から、地方軍閥の発生やその反乱を恐れて僅かな常備軍しか持たず、非常時には平民(農民)の大量徴兵以外になす術がなかった。文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は172,400人の正規軍を展開し、22,400人の非正規軍がこれを支援した。[6]
1582年の初めには、著名な朝鮮の学者李珥は全国の兵力を100,000人に増員するよう朝廷に進言した。これは奴婢や特権階級の第二夫人以下に生まれた子息の徴兵も含む内容であった。しかしながら、李珥は西人派であったため、当時の政権を握っていた東人派(柳成龍がその領袖である)はこの提案を却下した。1588年には南部沿岸の20の島を武装する提案が地方長官から出され、また1590年には釜山の港湾を要塞化する提案も出されたが、同じように却下された。
日本の侵攻がますます現実味を帯びてきて、この問題について柳成龍が立場を変えた後も、政治的な権力争いのための論争が行われるばかりで、実際の軍備拡張は何も行われなかった。日本軍の侵攻が始まった1592年に至っても朝鮮は兵力不足のままであった。
明軍は、文禄の役においては、祖承訓率いる5,000人、李如松率いる43,000人が参戦し、さらに碧蹄館の戦い後に劉綎率いる5.000人が増援として新たに到着した。慶長の役では諸説あるが、最大動員となった慶長3年(1598年)9月の蔚山・泗川・順天の三方面同時反攻の際の兵力を、『宣祖実録』では水軍を合わせ92,100人とし、参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』では同じく64,300人としている。また朝鮮の史料『燃黎室記述』では両役を通しての明の動員数を221,500余人とする。
[編集] 武器
1543年に種子島にポルトガルの商人が来航した時に持ち込まれた火縄銃は、その後直ぐに国産化され日本国内で広く使われるようになっていた。明にも朝鮮にもポルトガルの火縄銃に似た火器があったが、旧式のもので実用性が低く、これらの火器は廃れていた。明、朝鮮における火器の使用は主に中・大口径の大砲に分類されるものが中心となっていた。
宗義智が1589年に使節として朝鮮を訪れた際に進物として火縄銃を贈ったが、朝鮮国王はそれを軍器寺(武器製造官署)に下げ渡したのみで[7]、李朝は開戦前にこの新兵器の潜在力を見抜くことが出来なかった。
日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃を主力に弓と組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足であったが、弾丸重量二匁半(約9.4グラム)の安価で大量生産の出来る比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ七割をこの二匁半筒が占めた。
朝鮮の歩兵は刀、槍、弓矢などの個人武器を一つ或いは複数装備していた。主力武器は弓であったが、日本の半弓に相当する竹あるいは鯨髭製の短弓[8]で、その最大射程は120メートル程度であり[9][10]、日本の弓の300メートル余[11]よりも短かった。しかも、兵士が弓を効果的に使いこなせるようになるためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。
明の歩兵は、広大な帝国内における様々な環境下での戦闘を経験しているため、様々な武器を使用した。たとえば弓(主に弩)、剣(騎兵用の剣もあった)、槍、大砲、火縄銃、煙幕弾、手投げ弾などである。
戦争の初期、日本軍は500メートル以上の最大射程を持ち[12]、弓矢よりも貫通力のある銃の集中使用によって優位に立った。本来の日本の火縄銃の用法は、西洋における戦列歩兵による弾幕射撃とは異なり狙撃型のものであり、射撃開始距離も1町(約109メートル)程度であったとされるが、朝鮮においてはより遠距離からの射撃戦が行われる傾向にあり、遠距離射撃による精度の低下を補うために、一斉の集中射撃も行われた。しかし、戦争の末期になると朝鮮と明も鹵獲した日本製火縄銃やそれを模造したものを採用して使用数を増やし対抗した。
明は歩兵の他に対女真用に整備された騎兵部隊(馬軍)を大規模に戦闘に投入したが、兵種の特長を活かした戦果はあまり得られなかった。朝鮮の地形は山が多く、騎兵の突撃に適した平地があまりない上、日本の火縄銃の長射程に対して騎兵部隊は不利であったためである。また、朝鮮には数万の軍馬を養うのに必要な草地も乏しく、更に、たびたび馬疫が発生して多くの馬匹がたおれた。
朝鮮の騎兵も対女真用に北辺に配備されており、乱戦用に殻竿と槍(日本刀より長い)を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。朝鮮の騎兵部隊の主な戦闘としては、開戦当初の忠州の戦いがあるが、ここで数に勝る日本の歩兵により一掃された。
日本の部隊にも騎兵は含まれており、多くの騎兵は槍を装備していたが、馬上で扱えるように小さく設計された銃を装備している場合もあった。日本では戦国時代に銃の集団射撃に対する騎兵の脆弱性を経験していたため、騎兵の使用は減りつつあった。
[編集] 水軍
緒戦から崩壊状態になった陸上部隊と異なり、朝鮮の水軍は戦役前半から日本軍に対抗し得た。倭寇への備えから平時からある程度の戦備が整えられ、兵員の訓練も行われていたこと、そして旧式ながら火砲を多く装備していたことをその理由として挙げることが出来る。朝鮮水軍は高麗時代から対倭寇を目的に整備され、李氏朝鮮時代にはかなり発達していた。日本からの侵攻の頃には、朝鮮水軍は板屋船(戦船)という日本の安宅船に相当する大型船を用いており、これが戦闘においても朝鮮水軍の主力であった。有名ではあるが実体がよく分かっていない亀船も、この板屋船を改造したものとする見方が最近の主流のようである。他に補助艦船として中型の挟船、小型の鮑作船がある。他方、日本水軍は安宅船は一部の上級指揮官の乗船などに限られ、中型の関船や小型の小早が戦闘の主力であった。
開戦初期、日本軍は海戦を想定しておらず、軍船には基本的に大砲を装備していなかった。その後、日本船も大砲を載せたものの、日本の軽量な船の設計では、多くの砲を載せたり、大きい砲を載せる事は困難だったため、火力を補うため大口径の火縄銃形式である大鉄砲が多く用いられた。
戦闘に際しては、朝鮮水軍は火器や弓を使っての遠戦指向であり、日本水軍は接舷切り込みによる白兵戦指向という違いがあったが、朝鮮の火砲は射程が数十メートルから百数十メートルと短く[13]、韓国ドラマにあるように朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から一方的に日本船を撃破できたわけではない。朝鮮水軍が兵数で圧倒的に有利であった閑山島海戦においても交戦距離は数十歩[14]と、100メートルに満たない距離で戦われている。また、朝鮮の火砲は、鉄弾、石弾を複数込めて散弾の形で使うこともあったが、基本的には火箭(火矢)を撃って敵船を焼き討ちすることを主眼としたものであった。それとは逆に、日本軍は敵船に切り込んで可能であれば敵船を鹵獲しようとする傾向があった、当時の海戦としては敵船の鹵獲の方が洋の東西を問わず常道であった。
なお、海戦の様相に関しては、朝鮮の船は竜骨を持ち日本船を体当たりで撃破したという記述も各種書籍等に根強く見られるが、これは朝鮮役研究の基本書とも言える陸軍参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』の誤った記述に端を発するものであり、実際には船体の構造自体は日朝共に大きく変わるところはない。どちらも起到式のマストを持つが漕走を主とし、沿岸部での使用を前提とした平底船であり竜骨も体当たり戦用の衝角も持たない。ただし、朝鮮は良好な船材に恵まれず、堅くて節が多く加工しづらい上に長尺・幅広の材が取り難いという、本来は船材としては不適な松材を角材や厚板状で主用していたため、船材の強度自体は、軽い杉や檜の幅広の板材を外板に使用していた[15]日本船に勝るということは言える。しかし、ただでさえ日本船より重いのに加えて重量物である火砲を多く搭載しており、さらに艪数も大船でも十数挺(ただしトルク重視の四人漕ぎの大艪)に過ぎず、一人漕ぎまたは二人漕ぎの小艪ではあるが数十挺から大安宅では百挺以上の艪を備えていた日本船とは運動性に大きな差があった。漆川梁海戦では、朝鮮水軍は洋上機動する日本水軍に翻弄され散り散りになったところを殲滅されている。
慶長の役においては明水軍も参戦している。文献から沙船・蒼船・号船といった名称が知られるが他にも船種は多く、その実体については不明な点が多い。日本側の史料[16]に固定帆柱の航洋型ジャンク船ではないかと思われる明船の記述があるが、軍船としては不適と評されている。他に虎船という竜骨を持つ快速小型船が浅海部用に使用されたようである。
なお、日本の水軍を強化するために、豊臣秀吉がポルトガルのガレオン船を二隻雇って戦争に参加させようとしたとする逸話は、1586年にイエズス会準管区長ガスパル・コエリヨを大阪城で謁見した際の打診であり、九州征伐の頃のことであって、文禄の役開戦後の朝鮮水軍の活動を受けてのものではない。
[編集] 経緯
[編集] 戦役前の状況
明の征服を企図していた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)九州征伐に際し、臣従した対馬の領主・宗氏を通じて「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を命じた。元来、朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は対応に苦慮し、李氏朝鮮に対しこの要求を直接伝えず、日本統一を祝賀する通信使の派遣を要求して穏便に済まそうとしたが、明の冊封国であった李氏朝鮮に征明嚮導の意思はなく、秀吉は明への遠征のため先ず朝鮮の制圧を決め、文禄元年(1592年)4月(和暦。漢数字表記の月は以下同じ)、16万人の大軍を送ることとなる。
李氏朝鮮王朝では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。
なお、秀吉は開戦後も李氏朝鮮が降参するならこれを許し、明遠征への先導役を果たさせる考えを捨てていなかった。先鋒と交渉役を務めた小西行長や宗義智の日本軍一番隊は、しばしば秀吉が考える「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」に言い換えた上で李氏朝鮮に求めに応じるよう交渉を呼びかけている。
なお、日本軍は上陸後も武力制圧のみだけではなく、交渉による服属も試み、戦の場合においても攻城戦の開始前と落城寸前の場面で降伏勧告を行い、自軍被害も低減できる無血開城の交渉を行っている。ただし、明・朝鮮の指揮官は日本の支配を拒否し、徹底抗戦を選択する場合が多かった。
[編集] 文禄の役
[編集] 初期の戦い
4月12日、釜山に上陸した日本軍は翌13日より攻撃を開始した。侵攻に対応が遅れた朝鮮軍は連戦連敗や無血撤退・逃散を重ねた。釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申砬戦死)などで日本軍は勝利を重ねた。一番隊(小西行長、他)、二番隊(加藤清正、他)、三番隊(黒田長政、他)を先鋒に三路に分かれて急進した。
[編集] 漢城占領
加藤清正率いる二番隊が忠州へ到着し、三番隊も近くまで来ていた[17]。加藤清正は、小西行長が当初の計画通りに釜山で待機しておらず、進撃して全ての手柄を持っていった事に対して怒りを表していた。そこで鍋島直茂は和解案として、軍を二手に分けてそれぞれが別の道から漢城(朝鮮の首都。現在のソウル)を目指す事として、漢城に早く着けそうな方の道を加藤清正の二番隊が取る事を提案した[17]。こうして一番隊と二番隊は5月8日に出発し、漢城まで競争する事となった。加藤清正は漢江を渡る短い道を選び、小西行長はそれよりも上流へ向かって水量の少ない場所を渡る事とした[17]。 結局、船がないために二番隊が漢江で足止めされている間に、5月10日に小西行長の方が先に漢城に到着した[17]。一番隊が漢城に到着してみると、城門は堅く閉じられていたものの守備隊はいなかった。その先日に宣祖王は平壌へ逃れるために出発していたのである[18]。
日本軍は城壁にあった小さな水門を壊して入り、内側から城門を開いた[18]。加藤清正の二番隊は翌日になって漢城に到着し(一番隊と同じ道を通って来た)、さらにその翌日には三番隊、四番隊が到着した[18]。その一方で、五番隊、六番隊、七番隊、八番隊が釜山へ上陸し、九番隊は予備として壱岐に駐留を続けた[18]。
漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた[18]。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却した[19]。王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した[19]。全ての村々で、王の一行は住民たちと出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった[19]。
「宣祖実録(せんそじつろく、ソンジョシルロク)宣祖二十五年壬辰五月條」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 これは、宣祖実録の「人心怨叛,與倭同心耳」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?」)で伺い知ることができる[20]。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある[21]。
朝鮮側は、漢城の少し北を流れる臨津江を次なる防衛線とするため、臨津江南岸の一帯を焼き払って、日本軍が渡河の資材を得られないようにした。そして金命元将軍は川沿いに12,000人の兵を5箇所に分けて配置した.[19]。
[編集] 日本軍の北進
[編集] 八道国割
容易に李氏朝鮮の首都である漢城が陥落し、その後臨津江の戦いを経て開城も陥落すると、日本の諸将は5月に漢城にて軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた(平安道へ一番隊小西行長他、咸鏡道へ二番隊加藤清正他、黄海道へ三番隊黒田長政他、江原道へ四番隊毛利吉成他、忠清道へ五番隊福島正則他、全羅道へ六番隊小早川隆景他、慶尚道へ七番隊毛利輝元他、京畿道へ八番隊宇喜多秀家他)。
[編集] 平壌占領
小西行長が率いる一番隊が北進し、黄海道の平山、 瑞興、鳳山、黄州を占領し、さらに平安道に入って中和を占領した[22]。中和にて黒田長政率いる三番隊が一番隊と合流し、大同江の北岸にある平壌へ進軍した[22]。30,000人の日本軍に対して、李鎰や金命元らの率いる10,000人の朝鮮軍が平壌を守備していた。朝鮮軍の防戦準備によって、日本軍が使える船は全くなかった[23]。
日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請した。
1592年7月22日の夜、朝鮮軍は密かに川を渡り日本軍宿営地を奇襲する事に成功した[22]。しかしながら、他の日本軍部隊が駆け付けて朝鮮軍の背後から攻撃し、更に河を渡りつつあった朝鮮側の援軍を撃破した[24]。ここで、残っていた朝鮮軍部隊は平壌へ退却したが、日本軍は朝鮮軍の追撃を停止して、朝鮮軍がどのように川を渡って帰るかを観察した[24]。
翌日、昨晩に朝鮮軍が退却する様子を観察した結果に基いて、日本軍は川の浅瀬を使って整然と部隊を対岸へ進め始めた。この状況を受けて、その夜に朝鮮軍は平壌を放棄した[25]。
7月24日、一番隊と三番隊は既に放棄されていた平壌へ入った[25]。
[編集] 江原道での戦い
毛利吉成が率いる四番隊は7月に漢城を出発して東へ向かい、朝鮮半島東岸の城を安辺から三陟まで占領した[25]。その後、四番隊は内陸へ向かい、旌善、寧越、平昌を占領し、江原道の都であった原州に駐留した[25]。ここで毛利吉成は民政を行い、日本に準じた身分制度を導入し、更に国土調査を行った[25]。四番隊の大将の一人である島津義弘は梅北一揆のために遅れて江原道へ到着した。島津勢が春川を占領して江原道での作戦は終了した[26]。
[編集] 咸鏡道と満州での戦い
加藤清正は二番隊20,000人以上を率いて、十日の行軍で朝鮮半島を横断し、安辺に到着し、そこから東海岸に沿って北へ進撃を開始した[26]。この間に占領した城の一つが咸興である。ここで二番隊の一部は防衛と民政に当たる事となった[27]。
二番隊の一部10,000人[23]は更に北進を続け、8月23日にはイ・ヨンが率いる咸興道の北軍及び南軍と、城津(現在の金策)にて戦った[27]。朝鮮の騎兵部隊が城津の平地では優位に立ち、日本軍を穀物倉庫へ追い込んだ[27]。そこで日本軍は米俵を用いて障壁を作り、騎兵の突撃を火縄銃で撃退した[27]。朝鮮軍が翌朝に再度の攻撃を掛けようと計画している間に、加藤清正は伏兵を潜ませて朝鮮軍を待ち受け、二番隊は沼地に面する部分を除いて完全に朝鮮軍を包囲した[27]。こうして包囲を脱出しようとした者は罠にはまって殺された[27]。
逃げた朝鮮軍の兵士が他の守備隊に敗報を伝えたため、他の守備隊は日本軍を恐れるようになった。その事も手伝って日本軍は容易に吉州、明川、鏡城を占領した[27]。それから二番隊は富寧を通って、朝鮮の二人の王子が避難しているという内陸部の会寧へ向かった[27]。1592年8月30日、二番隊は会寧に入り、そこで加藤清正は、既に地元住民らによって捕らえられていた二人の王子と咸鏡道観察使柳永立を受け取った[27]。その少し後、朝鮮軍の兵士の一団が無名の朝鮮の将軍の首を差し出し、更に韓克誠将軍も縄で縛って差し出した[27]。
そして加藤清正は、「オランカイ」(朝鮮人は女真族の事を「野蛮人」という意味をこめて「オランケ(兀良哈)」と呼んでいた。これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ)の戦力を試すために、豆満江を渡って満州に入り、近在の女真族の城を攻撃してみる事にした[28]。それまで女真は度々国境を越えて朝鮮を襲撃していたため、咸鏡道の朝鮮人3,000人もこれに(加藤清正の軍勢8,000人に)加わった[28]。まもなく連合軍は城を陥落させ、国境付近に宿営した。朝鮮人が帰国した後、日本軍は女真からの報復攻撃に悩まされた[28]。依然優位には立っていたものの、加藤清正は大きな損害を被ることを避けるために撤退した[28]。
この女真侵攻を受けて、女真族の長ヌルハチは明と朝鮮に支援を申し出た。しかしながら、両国ともこの申し出を断った。特に朝鮮は北方の「野蛮人」の助けを借りるのは不名誉な事だと考えたと言われている。
二番隊は東へ向かい、鍾城、穏城、慶源、慶興を占領し、最後に豆満江の河口のソスポに達した[28]。こうした転戦の後、日本軍は咸鏡道の内政に努め、一部地域に朝鮮人の自治を認めた[29]
こうして日本軍は北西部の平安道の平壌より北方と、全羅道を除く朝鮮全土を制圧した。
[編集] 水軍の戦い
日本軍に大きく後れを取った李氏朝鮮であったが、釜山を基点として支配領域を広げていた日本軍後方部隊のうち、海岸移動を行っていた船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍が4月と5月の二回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない日本船団は被害を受けた(玉浦の戦い、泗川の戦い (1592年))。
海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。
こうして編成された水軍は脇坂安治の抜け駆けが主な原因となり閑山島海戦にて敗北、続いて援護のために進出した加藤嘉明と九鬼嘉隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃に耐えかねて後退すると、日本軍は海戦の不利を悟って、積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更した。これは長年の倭寇対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であったことによる。しかし当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は戦果があがらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった。
[編集] 朝鮮の義兵
戦争初期から、朝鮮人は「義兵」と呼ばれる民兵を組織して日本の侵攻に対抗した。これらの武装集団は朝鮮各地にて挙兵し、戦闘・ゲリラ戦・攻城戦や、戦時に必要になる輸送や建設作業に参加した[30]。
朝鮮の民兵には主に三つの種類があった:一つ目は、戦闘で将軍を失った朝鮮軍正規軍の敗残兵である。二つ目は、愛国的な両班とその同調者で構成される「義兵」。そして三つ目は、僧兵である[30]。
文禄の役の間、朝鮮半島の中では全羅道だけが侵攻を免れた地域として残されていた[30]。李舜臣による海上での警備活動が成功したことに加えて、義勇兵の活動も日本軍を圧迫したため、日本軍は全羅道を避けて他の優先順位の高い目標へ向かった[30] 。
義兵と朝鮮政府・官軍との関係は、挙兵の時期や地域、率いる義兵将の階層や思想により様々であるが、戦役初期においては概ね両者は対立していた。例えば、最も早い時期の挙兵である慶尚道の郭再祐率いる義兵は反乱軍とみなされ、朝鮮官軍との間で戦闘が起こっている。また、朝鮮民衆の辛苦は、日本軍の侵略や明軍へのさまざまな奉仕による負担だけではなく、朝鮮政府から課される築城などの土木工事、武器・兵糧の運搬などの労役、貢納義務の履行などに基づくものであった[31]ことから、官軍へ徴兵されることを厭い、義兵に身を投じる民衆が多く、さらに官軍からも多数の官兵が流入した。やがて義兵の有用性が認められるようになると、義兵を官軍に引きこむため朝鮮政府は義兵将らに対して高い官職を授ける措置をとり、義兵が官軍の補助的役割をするようになったが、その一方で朝鮮政府は義兵を巡察使等の指揮下において厳しい統制が加えられ、義兵独自の行動は禁じられた。さらに、文禄の役後の和平交渉の間に反乱軍が漢城を襲おうとしたこともあり、為政者たちは義兵が実戦経験を有し武装した政権にとって危険な存在である事をあらためて認識し、義兵に対する統制をより一層強めるようになり、末期には義兵達は官軍に組み入れられ独立した部隊としては機能しなくなっていた。
また、義兵を束ねる諸将が総じて両班層(貴族階級)出身であるのに対して、配下にいた兵士の大部分が身分解放の要求をもつ農民や、奴婢あるいは李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などの被圧迫階級であったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると義兵たちは再び過酷な収奪を受ける農奴的身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。対日戦の過程で官職を授けられた義兵将も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった。[32]
[編集] 郭再祐の洛東江における戦い
郭再祐は朝鮮の民兵活動を率いた人物として有名で、日本の侵攻に対して、最初に抵抗勢力を作ったのは彼であるという事は広く受け入れられている[33]。彼は慶尚道を流れる南江にある宜寧という町の地主であった。朝鮮の正規軍がその町を放棄した[30]事と、日本軍による攻撃は差し迫っていると思われた事から、郭再祐は町の住民50人を組織した。しかしながら、日本軍の三番隊は昌原からまっすぐソンジュに向かった[33]。郭再祐は、すでに放棄されていた政府の倉庫から、彼の部隊の補給物資を得たが、これを受けて慶尚道の長官キム・スは郭再祐を謀叛人とみなし、解散を命じた[33]。
将軍が他の地主にも支援を求めており、王に直接の訴えを送っているような時であったが、その長官は、すでに日本軍との間でかなりの混乱が始まっているにも関わらず、郭再祐を討つための軍隊を派遣してきた[33]。
しかしながら、首都から役人が到着して慶尚道で兵を集め始めたとき、この役人が郭再祐の近くに住んでいて郭再祐の事を実際に知っていたので、この役人が郭再祐を長官から救った[33]。
郭再祐は洛東江と南江にある高い葦原の中でゲリラ戦を展開した[33]。陸上ではこうした戦術が行われ、海上では李舜臣の水軍が守っていたため、日本軍は全羅道には容易に入れなかった[33]。
[編集] 宜寧の戦いとチョンジンの戦い
小早川隆景率いる六番隊が、全羅道制圧の任に当たる事となり[33]、六番隊は既に出来上がっていた日本軍の移動ルート(つまり、上述の三番隊が通過した道)を通ってソンジュへ行軍し、忠清道の錦山に達した。小早川隆景は、ここを守備して全羅道での作戦の出撃基地とすることにした[33]。
安国寺恵瓊は、かつて僧侶であったが、毛利輝元と豊臣秀吉の間の和睦交渉の際の功績を認められて大名となり、全羅道制圧の任に当たる六番隊の一部を率いていた。 安国寺恵瓊の部隊は昌原にて宜寧へ行軍を開始し、南江へ到着した[33]。安国寺恵瓊の斥候は、後続の部隊が川を渡れるように川の浅瀬に目印の杭を立てたが、夜に入って朝鮮の民兵はその杭を川の深い場所へ移動させた[33]。日本軍が渡河を始めると、待ち伏せしていた郭再祐の民兵が日本軍に大きな損害を与えた[33]。最終的に、安国寺恵瓊の部隊は、危険な場所を避けて日本軍が城を警備している地域を通って全羅道へ入る事にして、北へ向かう事とした[33]。ケニョンにて、安国寺恵瓊は目的地を高敞に変更し、小早川隆景の支援を受ける事となった[33]。しかしながら、金ミョンおよび彼の指揮するゲリラが安国寺恵瓊を待ち伏せ攻撃して、山の隠れた場所から火矢を浴びせることに成功し、これで全羅道への侵攻作戦は中止された[33]。
[編集] 全羅道連合と龍仁の戦い
日本軍が漢城(現在のソウル)へ進撃している間、全羅道の長官李洸は、彼の指揮下の軍隊を首都へ派遣して日本軍を食い止めようとした[34]。しかし首都が既に陥落したとの報に接して、軍を退却させた[34]。しかしながら、いくつかの志願兵の集団を集めたことにより軍隊は50,000人に上っていたため、李洸と民兵の指導者たちは目標を漢城奪還と定め、漢城から42km南方の水原に軍を進めた[34][35]。 6月4日、前衛1,900人が近郊の龍仁の城を奪取しようとしたが、脇坂安治指揮下の守備隊600人は、日本軍の援軍が到着した6月5日まで朝鮮軍との交戦を避けた[34][36] 日本軍は全羅道連合軍に反撃して撃退に成功し、朝鮮軍は武器を捨てて退却した[34]。
[編集] 第一次錦山の戦い
郭再祐が慶尚道で義兵を集めた頃、全羅道では高敬命が6,000人の義兵を組織した[34]。その後、高敬命は忠清道の他の義兵との連合を目指したが、忠清道との境界を越えるとき、六番隊の小早川隆景が全州(全羅道の都)を攻撃するために錦山の山城から部隊を送った事を聞いた。そのため高敬命は全羅道へ戻った[34]。高敬命はクヮク・ヨン将軍の部隊に加わって、錦山へ部隊を率いて向かった[34]。7月10日、義兵はその二日前の7月8日に梨峙の戦いで敗退して退却中の日本軍と錦山にて戦った[37]
[編集] 明・朝鮮軍の反攻
朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。1592年7月、援軍として来た祖承訓率いる遼東の明軍5,000人が最前線の平壌を急襲したが、小西行長らがこれを撃退した。この明軍の参戦を受けて、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなった。他方、明朝廷は祖承訓の敗北という事態に新たに中央軍の増援を決定し、小西行長との講和交渉の過程で結ばれた50日の休戦協定の間に戦備を整えることになる。
南部では釜山西方の制圧を画策して、晋州城の攻略を図る(1592年9月、細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)が、苦戦したうえ攻城に失敗した。ちなみに、この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入したが権慄の反撃によって進撃を阻まれ、直後に南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ転出したため、全羅道の制圧は進まなかった。
翌文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍4万3,000人余が平壌に進攻し奪還。しかし日本軍は漢城郊外の碧蹄館の戦いに勝利する。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。
占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲う事もあった。漢城に集結して和平交渉を始めていた日本軍だが、本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の2人の王子(臨海君・順和君)の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。
こうして兵力と補給に余裕が出てきたことにより朝鮮南部の支配を既定事実とするため、朝鮮南部へ布陣した諸将を動員して第二次晋州城合戦で晋州城を攻略(当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画であった)、更に全羅道を窺うも明軍の進出によって戦線は膠着し、長い休戦期に入った。
[編集] 休戦期の和平交渉
この時期、豊臣秀吉は明が降伏したという報告を受け、反対に明の朝廷では日本が降伏したという報告を受けていた。これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や、朝鮮南部の割譲など、到底明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。一方、明の朝廷も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとっては到底受け入れられるものではなかった。
結局、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5年(1596年)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。
[編集] 慶長の役
[編集] 日本軍の攻勢
和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始される。作戦目標は諸将に発せられた2月21日付朱印状によると、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、作戦目標の達成後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(主として九州の大名)を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められた。
九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人を超える軍勢は逐次対馬海峡を渡り釜山周辺に布陣する。
李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任には元均が任命された。
朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに7月に出撃を行った。しかし攻撃は失敗し、帰路に巨済島沖の漆川梁で停泊していた。この情報を得た日本軍は水陸から攻撃する作戦を立て、7月16日海上からは藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明等の水軍が攻撃し、陸上からも島津義弘・小西行長等が攻撃した。この漆川梁海戦は日本軍の大勝となり朝鮮水軍の幹部指揮官、元均、李億祺、崔湖を戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えた。
海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原城で守りを固めたが、日本の右軍は8月16日黄石山城を、左軍及び上陸した水軍諸隊は8月12日から南原城を攻撃(南原城の戦い)、たちまち二城を陥落させ全州城に迫ると、ここを守る明軍は逃走し、8月19日無血占領する。南原と全州の陥落により明・朝鮮軍の全羅道方面における組織的防衛力は瓦解した。
日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下しての抗戦を決意し、9月7日に先遣隊の明将・解生と黒田長政の部隊が忠清道と京畿道の道境付近の稷山で遭遇戦となり、毛利秀元が急駆救援して明軍を水原に後退させた[38](稷山の戦い)。
一方海上では、朝鮮水軍の残存艦隊を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が率いて全羅右水営に拠っていた。李舜臣は、南原城から南下した後、再び乗船して西進していた日本水軍を、9月17日鳴梁海峡で迎え撃ち、これに痛打を与えると速やかに退却した。この鳴梁海戦の翌日、日本水軍は朝鮮水軍の去った全羅右水営を占領する。さらに、日本の陸軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は拠点を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し、日本水軍は全羅道西岸まで進出した。
稷山に日本軍が進出すると、明・朝鮮軍は漢江を主防衛線として守りを固めたが、漢城ではパニックとなり市民が逃亡を開始する事態に陥っていた。この時、朝鮮では漢城を維持できる常態になく、朝臣たちはわれ先に都を出て避難することを献策した[39]。
日本軍では、全羅道・忠清道を成敗するという作戦目標を達成し、さらに京畿道まで進出すると、それ以上の進撃を停止して、慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に新たな城郭群を築いて久留の計を目指した。城郭群が完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。
[編集] 蔚山戦役
築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍5万6,900人が襲撃し、攻城戦を開始するが、急遽入城した加藤清正を初め日本軍の堅い防御の前に大きな損害を被り苦戦を強いられた。そのため明・朝鮮連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。年が明けた翌慶長3年(1598年)1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられていた。しかし、1月3日毛利秀元等が率いる援軍が到着し、翌4日水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損害を与えて勝利した(蔚山城の戦い)。戦いの後、宇喜多秀家など13人は、立地上突出している蔚山・順天・梁山の三城を援軍の困難さを理由として放棄する案を豊臣秀吉に上申しているが、これに小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂等は反対し、秀吉はこの案を却下し上申者を叱責した。日本軍の各城郭では、城の増強工事、火器の増強、兵糧の備蓄が進められ強固な防衛体制が整えられていった。各城郭の防衛体制が整うと、九州衆が城の守備のため朝鮮に残留し、四国衆・中国衆と小早川秀秋は、予定通り順次帰国して翌年以降の再派遣に備えた。
[編集] 三路の戦い
秀吉は翌慶長4年(1599年)に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していたが、秀吉が8月18日に死去すると戦役を続ける意義は失われた。そのため五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。
9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路に分かち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
泗川の戦いでは島津軍が明軍の火薬の暴発事故による混乱に乗じて一斉に突撃し、明・朝鮮連合軍に大打撃を与え潰走させた。
順天を守っていたのは小西行長であったが、日本軍最左翼に位置するため、新たに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍も古今島まで退却した(順天城の戦い)。以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。
この三城同時攻撃では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達していた。また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという(『宣祖実録十月十二日条』[40])。
[編集] 戦争の終結
蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、既に秀吉は8月に死去しており戦争を継続する意義は失われていた。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。
10月下旬、帰国命令を受領した小西行長は、明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付け、人質を受領して撤退の準備に取り掛かっていた。ところが、古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、日本軍撤退の動きを知ると、11月10日再び順天城の前洋に表れ海上封鎖を実施して海路撤退の妨害を行った。そこで小西行長は、明水軍の陳リンと交渉や買収で無血撤退の約束を取り付け、人質も受領するが、これに朝鮮水軍の李舜臣が猛抗議するとともに日本軍打倒を主張したため、実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続した。
小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘、立花宗茂、高橋直次、寺沢広高、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。
この露梁海戦で島津水軍は苦戦したが、明・朝鮮も明水軍の副将、鄧子龍や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣を含む複数の幹部が戦死した。また、明・朝鮮水軍の出撃で順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は海戦海域を避けて海路脱出に成功している。
一方、東部方面の諸将は、これより先の11月15日ごろから各持城を徹し順調に釜山に向かっている。
11月23日加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が釜山を発し、25日小西行長、島津義弘等が釜山を発す。こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した。
この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ豊臣秀吉が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する[41]。
[編集] 戦役後の和平
和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められる。断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。征夷大将軍徳川家康と朝鮮側の使節との会見が実現したのは日本軍撤兵から6年後の慶長9年(1604年)、江戸幕府に対する朝鮮通信使が派遣されて正式の和平が果たされたのは慶長12年(1607年)であった。明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって中国を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった。
[編集] 影響
休戦を挟んで6年に及んだ戦争は、朝鮮・日本・明の三国に重大な影響を及ぼした。
[編集] 朝鮮半島への影響
戦場となった朝鮮半島では日本軍、朝鮮軍、明軍の戦闘や駐留の他、統治不全によって治安が悪化した為、不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起、及び朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛正や処刑などが行われ、混乱は戦災を更に悲惨なものとした。
李氏朝鮮は階級差別と搾取によって農民が春窮と呼ばれる毎年春に飢える状況が常態となっているほど生産性の低い統治を行っており、国土開発を怠っていた。また、流通経済が発達しなかったため銀などの貨幣による売買が成立せず自給自足が基本の朝鮮民とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。
戦争が開始され、日本軍・明軍・朝鮮軍による現地調達による食料消費と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民が流民を生み、飢えた民衆は敵味方より略奪することで飢えを凌ごうとした。また、明軍と李氏朝鮮との交渉により鴨緑江より朝鮮側の兵糧供給は李氏朝鮮側の調達及び輸送と取り決められたため、自軍と政府の維持も含めて李氏朝鮮は民衆から過酷な食料調達を行ったため、明軍の略奪と合わせて日本軍が一歩も足を踏み入れていない平安道も荒廃して開戦当初の人口を養いきれずに人口が激減した。
民衆は無秩序に食料を求めて朝鮮・明軍・日本軍を襲い、食料調達が不足した日本軍・明軍・朝鮮軍は朝鮮民衆から現地徴発を行った。明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。戦役の後期から戦後の安全保障のための明軍の朝鮮駐屯による略奪なども横行し、後に朝鮮の民衆の中には日本を一番の侵略者としながらも、明軍に対しても第二の侵略者として評する人間も出てきた。
また戦時下での混乱により諸勢力による宮殿・王陵、官庁、文化財の破壊や略奪が行われた。特に身分差別に苦しんだ朝鮮民衆は緒戦の混乱に乗じて官庁や被差別身分を示す書類を焼き払った例が朝鮮側資料により知られている。また日本軍は治安を乱しゲリラ攻撃を仕掛ける義勇軍の抵抗に手を焼いたため、治安確保のために住民の虐殺や村の焼き討ちなどを行うことも多かった。戦功の証明として行われたはなそぎによってその後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られている。しかしこれらは不穏民衆を一揆と認識して討伐した慶長の役が始まった後の話であり、当初は朝鮮は戦後には支配下に繰り入れられるべき領土であり、日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体であるが、これまで戦争全般を通じた蛮行であるがごとく語られてきた。また戦後に咸鏡道に建てられた日本軍撃退記念碑の北関大捷碑には加坡の戦闘で斬殺した日本兵から左耳825個を切り取って朝鮮王へ送った記録が残っている他、日本兵の首に賞金を掛けたため都市部で朝鮮軍・明軍による偽首狩りの犠牲となった朝鮮領民の首無し死体が続出するなど荒廃した状況が伝えられる。
戦役以後、総じて朝鮮人の間では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。また日本人捕虜(降倭)の多くは、鉄輪をはめられ逃げ出すことも出来ない状態にされたうえで、その身分を賎民とされた。
一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まった。これは後の明清交代期に於いて、清朝と明との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。
また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。南蛮貿易により日本にもたらされた唐辛子は、文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。
[編集] 日本国内情勢への影響
[編集] 出兵前後に生じた影響
留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。
一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。派兵を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。
五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、1603年に征夷大将軍に任ぜられた。こうして太平の江戸時代が始まる。
また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられた朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった[42]。
[編集] 開国後の大陸進出への影響
江戸時代末期・明治時代の開国により大陸情勢への関係が不可避なものとなると、当時の武将達が三韓征伐を想起したように、秀吉の朝鮮出兵もクローズ・アップされるようになり、大陸への進出は豊臣秀吉公の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。朝鮮併合がなった際、初代総督寺内正毅は『小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ(秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか)』と歌を詠み、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、『太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる日の丸(太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を)』と歌い、共に太閤の成し得なかった朝鮮の編入が成功したことを喜んだ。
[編集] 明への影響
朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏のボバイ、播州(四川省)の楊応龍の二人の辺境地方の地元民族首長反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。
これらの軍事支出と皇帝万暦帝の奢侈は明の財政を悪化させ、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。
[編集] 文禄・慶長の役 関連人物
[編集] 日本側
文禄の役 戦闘序列
- 一番隊
- 小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄(宇久純玄)
- 二番隊
- 加藤清正、鍋島直茂、相良頼房
- 三番隊
- 黒田長政、大友吉統
- 四番隊
- 毛利吉成(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊
- 五番隊
- 福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之、来島通総
- 六番隊
- 小早川隆景、小早川秀包(毛利秀包)、立花統虎(立花宗茂)、高橋統増(立花直次)、筑紫広門、安国寺恵瓊
- 七番隊
- 毛利輝元
- 八番隊
- 宇喜多秀家
- 九番隊
- 豊臣秀勝、長岡忠興(細川忠興)
- 船手衆(水軍)
- 九鬼嘉隆 志摩鳥羽
- 堀内氏善 紀伊新宮
- 杉若伝三郎 紀伊田辺
- 桑山重勝 紀伊和歌山
- 桑山小伝次 紀伊和歌山
- 藤堂高虎 紀伊粉河
- 脇坂安治 淡路洲本
- 菅野正影 淡路岩屋
- 加藤嘉明 淡路志知
- 来島通之 伊予来島
- 来島通総 伊予来島
- その他(戦いに参加した人物)
- 石田三成、大谷吉継、増田長盛、長谷川秀一、木村重茲、加藤光泰、前野長康、浅野幸長、吉川広家、片桐且元、糟屋武則、毛谷村六助、大石智久、熊谷直盛
- その他(戦いには参加しなかったが朝鮮に渡った人物)
- 伊達政宗、上杉景勝
[編集] 朝鮮側
- 王族
- 宣祖、光海君、臨海君、順和君
- 主要武将・官僚
- 柳成龍、権慄、申砬、李舜臣、元均、李億祺、崔湖、金時敏、郭再祐
- その他
- 姜沆、鄭希得、ジュリアおたあ、大添・小添、沙也可(金忠善)
- 金誠一、鄭撥、宋象賢、金命元、惟政、休静、金応瑞
- 李桓福、李陽元、李英男、桂月香、論介、李参平、鄭起龍
- 高敬命、趙憲、崔慶会、尹斗寿、尹根寿、李恒福、李德馨
- 陳武晟、韓濩、許浚、黄慎
[編集] 明側
[編集] 八道国割
[編集] 主な戦い
- 1592年(文禄元年)
- 1593年(文禄2年)
- 1597年(慶長2年)
- 1598年(慶長3年)
[編集] 脚注
- ^ 北島万次『豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略』(1990)/校倉書房
- ^ いずれも漢城占領後に渡朝した。
- ^ 『慶長二年陣立書』に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。(『文禄・慶長の役』/中野等 192頁)
- ^ 『文禄・慶長の役』/中野等 137頁
- ^ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人(43%)が人夫・水夫である。(『歴史群像シリーズ35 文禄・慶長の役』/学研 74頁)
- ^ 『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店(2000) 192頁
- ^ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版14頁
- ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
- ^ 朝鮮の同時代史料である懲毖録には「弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」(東洋文庫版283頁)とある。(当時の朝鮮の歩は約118cm) また同書に、尚州での両軍の戦闘においては朝鮮の弓は実射程が100mに満たず(「矢は数十歩で墜ちて」東洋文庫版60頁)日本軍に届かず、開平地の戦闘では火縄銃にアウトレンジされ一方的に損害を被った事が記されている。
- ^ ”朝鮮の弓はアジアでは最も優れている部類のもので、最大射程は約450メートル”との主張も見られるが、英国のギャルウェイ卿によるテスト結果から世界最強の弓とされる19世紀のトルコ弓(角弓)であっても実戦用の矢を使用した場合の最大射程は約400mであり、また米カリフォルニア大学のサクストン・ポープ教授による同大人類学博物館所蔵の世界各地の弓の実射テストによる結果でも、トルコ弓の飛距離が257mおよび250mであったのに対し、朝鮮弓そのものではないものの同系統の東アジアの角弓である中国弓(清朝)が91.4m、モンゴル弓(タタール族)が82.3mおよび102.4mと同じ角弓であってもトルコ弓に著しく劣る。(なお、同実験における和弓は142.6m)
- ^ 遠矢用の軽い矢を用いれば最大射程は4町(約436m)を超える。(『図説・日本武器集成』/学研 68頁)
- ^ 有効射程は口径や装薬量により異なるが概ね200m程度とされる。
- ^ 天字銃筒 射程距離96m、地字銃筒 同64m、玄字銃筒 同160m 『壬辰戦乱史』/李烱錫
- ^ 『懲毖録』東洋文庫版 140頁
- ^ 和船は一種のセミモノコック構造であり、船の大小に関わらず舷側は根棚・中棚・上棚と呼ばれる三枚の強度部材をかねる外板で構成される。
- ^ 『宇都宮高麗帰陣物語』
- ^ い ろ は に Turnbull, Stephen. 2002, p. 63-4.
- ^ い ろ は に ほ Turnbull, Stephen. 2002, p. 65-6.
- ^ い ろ は に Turnbull, Stephen. 2002, p. 67-8.
- ^ 『宣祖實録』二十五年(1592)五月壬戌
- ^ 『宣祖修正實録』二十五年(1592)四月晦日
- ^ い ろ は Turnbull, Stephen. 2002, p. 72-3.
- ^ い ろ Turnbull, Stephen. 2002, p. 240.
- ^ い ろ Turnbull, Stephen. 2002, p. 73-4.
- ^ い ろ は に ほ Turnbull, Stephen. 2002, p. 74-5.
- ^ い ろ Turnbull, Stephen. 2002, p. 75-6.
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ Turnbull, Stephen. 2002, p. 77-8.
- ^ い ろ は に ほ Turnbull, Stephen. 2002, p. 79-80.
- ^ Turnbull, Stephen. 2002, p. 81-82.
- ^ い ろ は に ほ Turnbull, Stephen. 2002, p. 1-8-9.
- ^ 『壬辰倭乱と朝鮮民衆の戦い』/矢沢康祐
- ^ 『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』金奉鉉/彩流社
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ る を わ か よ Turnbull, Stephen. 2002, p. 110-5.
- ^ い ろ は に ほ へ と ち Turnbull, Stephen. 2002, pp. 116-123.
- ^ "Suwon". Encyclopedia Britannica. 2007-09-01 閲覧。
- ^ "????". Britannica Encyclopedia. Daum. 2007-09-01 閲覧。
- ^ “???? (?? ??) [梨峙戰鬪]”. Daum ????(Britannica). Daum.net.
- ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
- ^ 『懲毖録』柳成龍
- ^ 資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録十月十二日条』
- ^ 自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』
- ^ 『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月16日 (月) 06:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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