斎宮

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斎宮 1/10模型(三重県明和町)

斎宮さいぐうさいくうまたはいつきのみやいわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指すようになった。伊勢斎王、伊勢斎宮とも称する。

目次

[編集] 斎宮の起こり

斎宮跡(斎王の森史跡公園)
(北緯34度32分28.3452秒東経136度37分0.6096秒(世界測地系))

日本書紀』崇神紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を倭の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行した後に伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記しており、これが斎王の忌みこもる宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べており、以後斎王は天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として、長く伊勢神宮に奉仕することとなった。(ただし古代においては、斎王は必ずしも歴代天皇すべての御世に置かれたわけではなく、任期などもそれほど明確ではない)

その後用明天皇朝を最後に斎王の伊勢派遣は一度途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立される。一説には天武天皇壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女を捧げたといわれ、万葉歌人として名高い大来皇女がその初代斎王となった。これ以後、主に天皇の代替わりごとに新しい斎王が選ばれて都から伊勢へと旅立ち、平安京遷都の後も長く続くこととなる。

なお、『扶桑略記』には天武天皇の時に初めて大来皇女を斎宮を置いたという旨の記事があること、前任の酢香手姫との間に約50年もの空白期間があること、稚足姫・荳角皇女・磐隈皇女・菟道皇女・酢香手姫皇女が伊勢に来ていないことの三点から、酢香手姫以前の斎宮は後世の虚構とする説がある。

[編集] 斎宮の卜定から退下まで

[編集] 卜定

先代の斎宮が退下すると、未婚の内親王または女王の中から候補者を選び出し、亀卜(亀の甲を火で焙りひびで判断する卜占)により吉凶を占って新たな斎宮を定める。新斎宮が決定すると、邸に勅使が訪れて斎宮卜定(ぼくじょう)を告げ、伊勢神宮にも奉幣使が遣わされて、斎宮はただちに潔斎に入る。

[編集] 初斎院

宮城内の便所(仮の場所)がト定で定められて、大内裏の殿舎が斎宮の潔斎所となる。これを初斎院(しょさいいん)と呼び、場所はその時により異なるが、雅楽寮宮内省主殿寮、左右近衛府などが記録に残っている。斎宮は初斎院で1年間斎戒生活を送ることが定められているが、場合によってはもっと短期のことも多い。

[編集] 野宮

初斎院での潔斎の後、翌年8月上旬に入るのが野宮(ののみや)である。野宮は京外の清浄な地(平安時代以降は主に嵯峨野)を卜定し、斎宮のために一時的に造営される殿舎で、斎宮一代で取り壊されるならわしだった(野宮神社などがこの跡地と言われるが、現在では嵯峨野のどのあたりに野宮が存在したのか正確な位置は判っていない)。斎宮は初斎院に引き続き、この野宮で斎戒生活を送りながら翌年9月まで伊勢下向に備えた。なお、野宮は黒木(皮のついたままの木材)で造られ、このため黒木の鳥居が野宮の象徴とされた。『源氏物語』では六条御息所と前東宮の娘(後の秋好中宮)が「」帖で斎宮となったため、六条御息所がそれに同道することになり『賢木巻』で光源氏と別れの舞台となるのもこの野宮であり、後にの題材にもなっている。

[編集] 群行

詳細は「群行」を参照

初斎院・野宮を経て3年目の9月、野宮を出てを行った後、宮中群行の儀に臨み、伊勢へ出発する。

[編集] 斎宮寮と祭祀

伊勢での斎宮の生活の地は、伊勢神宮から約20キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)であった。普段はここで寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に三度、6月の月次祭、9月の神嘗祭、12月の月次祭の「三節祭」に限って神宮へ赴き神事に奉仕した。斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕え、137ヘクタールあまりの敷地に碁盤目状の区画が並ぶ大規模なものであったことが、遺跡の発掘から明らかになっている。特に、緑(青?)釉陶器の出土は特徴的であり、この色に何か意味があった可能性も考えられる。なお、斎宮跡は1970年の発掘調査でその存在が確かめられ、1979年に国の史跡に指定されて、現在も発掘が続いている。

三節祭(9月の神嘗祭、6月・12月の月次祭)

斎王は内宮は16・17日、外宮は15・16日に行われる三節祭の二日目に参加し、太玉串を宮司から受取り、瑞垣御門の前の西側に立てる。

祈年祭(2月)

農耕の開始を告げる祭事として、多気、度会の神郡内の神社に、幣帛を分配。

新嘗祭(11月)

収穫を祝う祭事。

[編集] 退下

斎宮が任を終えることを、8世紀から10世紀頃までは退出と称したが、その後は退下(たいげ)または下座と言った。斎宮の退下は通常天皇の崩御・譲位の際と定められるが、それ以外にも斎宮の父母や近親の死去による忌喪、潔斎中の密通などの不祥事、また斎宮本人の薨去による退下もあった。初斎院や野宮で潔斎中に退下・薨去した斎宮も少なくないので、歴代の斎宮すべてが群行を果たしたわけではなく、また群行の後伊勢での在任中に薨去した斎宮はそのまま現地に葬られたらしい(伊勢で薨去した斎宮は平安時代の隆子女王惇子内親王の二人で、いずれも斎宮跡近くに墓所と伝えられる御陵が残っている)。また退下の後も前斎宮はすぐに都へ戻ることはなく、そのまま数ヶ月の間伊勢で待機し準備が整った後に、奉迎使に伴われて帰京した。

なお、帰京の道程は二通りあり、天皇譲位の時は群行の往路と同じ鈴鹿峠・近江路を辿るが、その他の凶事(天皇崩御、近親者の喪など)の場合には伊賀・大和路(一志、川口、阿保、相楽)を経て帰還するのが通例であった。どちらの行程も最後は船で淀川を下り、難波津で禊を行った後河陽宮を経て入京した。

また、古代の斎宮については、酢香手姫皇女だけが、任を終えて葛城に移ったと記されている。任を終えた他の斎宮は、何処に移動したのか記されていない。単なる記載漏れと考えるか、当然帰るべき所(例:天皇の宮の周囲)が決められていたので、省略されたと推測するか、それとも、酢香手姫皇女の移転先である葛城の記載が、他の斎宮の移転先をも代表して書かれていると見るかである。

[編集] 帰京後の斎宮

この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。

役目を終えて京に戻った前斎宮のその後の人生については、少数の例外を除いてあまり知られていない。律令では本来内親王の婚姻相手は皇族に限られるため、奈良時代までは退下後の前斎宮が嫁いだのは天皇もしくは皇族のみであり、平安時代以降も内親王で臣下に降嫁したのは雅子内親王藤原師輔室)ただ一人であった(ただし女王ではもう一人、藤原教通室となった嫥子女王がいる)。また藤原道雅と密通した当子内親王は父三条天皇の怒りに触れて仲を裂かれており、結婚自体は禁忌ではなかったらしいが、多くの前斎宮は生涯独身でひっそりと暮らしていたものと思われる。

なお、天皇と結婚した前斎宮は、井上内親王光仁天皇皇后、後廃位)、酒人内親王桓武天皇妃)、朝原内親王平城天皇妃)、徽子女王村上天皇女御)の4人で、特に井上・酒人・朝原の3人は母娘3代にわたり斎宮となった稀な例でもあった。(南北朝時代懽子内親王光厳天皇退位後に入内)

その後院政期に入ると、未婚のままで天皇の准母として非妻后の皇后(尊称皇后)、さらに女院となる内親王が現れる。この初例は白河天皇の愛娘媞子内親王(郁芳門院)であり、彼女は斎宮経験者であった。以後これに倣い、斎宮または斎院から准母立后し女院となる内親王が南北朝時代まで続いた。

[編集] 斎宮の終焉

平安末期になると、源平合戦の混乱で斎宮は一時途絶する。その後復活したものの、承久の乱を境にもう一つの斎王であった賀茂斎院が廃絶、伊勢斎宮も鎌倉時代後半には卜定さえ途絶えがちとなり、特に持明院統の歴代天皇は斎宮をおかなかった。そして南北朝時代の幕開けとなる戦乱により、時の斎宮祥子内親王後醍醐天皇皇女)が群行しないまま野宮を退去、これを最後に斎宮は歴史から姿を消した。

[編集] 斎宮の忌み詞

忌み言葉」も参照

神に仕える斎宮は穢れを避けまた仏教も禁忌とするため、それらに関連する言葉も禁じられた。 延喜式の5巻(斎宮)5条(忌詞)に次のとおり記されている。 内七言は仏教用語、外七言は穢れの言葉である。

凡忌詞、内七言、仏称中子、経称染紙、塔称阿良良伎、寺称瓦葺、僧称髪長、尼称女髪長、斎称片膳。 外七言、死称奈保留、病称夜須美、哭称塩垂、血称阿世、打称撫、宍称菌、墓称壌。 又別忌詞、堂称香燃、優婆塞称角筈。

(訳) 忌み詞は、「内七言」として、「仏」を「なかご(中子)」、「経」を「そめがみ(染紙)」、「塔」を「あららぎ」、「寺」を「かはらぶき(瓦葺)」、「僧」を「かみなが(髪長)」、「尼」を「めかみなが(女髪長)」、「(とき; 仏僧の食事の意)」を「かたじき(片膳)」と呼ぶ。 「外七言」として、「死ぬ」ことを「なほる(治る)」、「病」を「やすみ」、「泣く」ことを「しほたる(塩垂れる)」、「血」を「あせ(汗)」、「打つ」ことを「なづ(撫でる)」、「肉」を「くさひら(菌)」、「墓」を「つちくれ(壌)」と呼ぶ。 ほかにも、「堂」を「こりたき(香燃)」、「優婆塞(うばそく; 仏教で在家信者のこと)」を「つのはず(角筈)」と呼ぶ。

[編集] 歴代伊勢斎宮

[編集] 古代の斎宮

[編集] 斎宮制度成立以降の斎宮

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月29日 (土) 20:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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