斎藤隆 (野球)

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斎藤 隆
Takashi Saito
アトランタ・ブレーブス
レッドソックス時代の斎藤隆
基本情報
国籍 日本
出身地 宮城県仙台市
生年月日 1970年2月14日(39歳)
身長
体重
6' 2" =約188cm
215 lb =約97.5kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1992年4月7日
MLB / 2006年4月9日
年俸 3,200,000ドル(2010年)
経歴(括弧内は在籍年)

斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、アトランタ・ブレーブスに所属する投手宮城県仙台市出身。愛称は「Sammy」(サミー)。

正確な苗字の表記は「斎藤」だが、本人は自身のブログで「斉藤」と書くことも多く、特にこだわりはないようである。

目次

[編集] 経歴

[編集] NPB時代

東北高校時代は一塁手であったが、東北福祉大学2年時に投手に転向。1991年ドラフト1位で横浜ベイスターズの前身・横浜大洋ホエールズに入団。推定契約金1億円、年俸は900万円であった。

大洋・横浜時代のチームメイト・佐々木主浩東北高校東北福祉大学・横浜での先輩にあたり(ちなみに斎藤の実兄は佐々木の同級生だったため佐々木とは中学の頃から知り合いだった)、部屋も相部屋だったという。また現在も横浜ベイスターズで活躍する三浦大輔とは同期入団である。

ルーキーイヤーの1992年にプロ初登板を果たすと翌年からは先発ローテーションに入り、1994年にはオールスターゲームに初出場。 1996年にプロ入り初の2桁勝利を記録し。奪三振206で最多奪三振のタイトル獲得した。

1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨を発見したため除去手術を行い、シーズンを棒に振る。 1998年4月5日に復帰し、4月29日には583日ぶりの勝利を味わう。この年13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。セ・リーグカムバック賞を受賞し、日本シリーズでは優秀選手に選ばれた。

2001年佐々木主浩フリーエージェント(FA)でシアトル・マリナーズに移籍したため、当時の森祇晶監督の「俺はお前と心中する」という言葉でストッパーに転向。この年7勝1敗27セーブ、防御率1.67の成績を挙げる。この時の経験が後の先発、そしてメジャーでの生活に活きたと本人が述べている[要出典]

2002年のオフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局横浜ベイスターズと3年で総額7億3,000万円の契約を結んで残留した。その後先発に復帰するも度重なる故障などで本来の投球ができず、3年間でわずか11勝にとどまった。

[編集] 36歳でのメジャーリーグ挑戦

2005年のオフ、斎藤は「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となる。だが36歳になる高齢であることやNPBでの不振が続いていたことから斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからず、所属先が決まらないまま2006年を迎えた。1月末、ロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約で春季キャンプ受け入れを表明。斎藤は直ちに渡米し2月7日に契約、16日にキャンプインした。レギュラー待遇で調整が主であった日本でのキャンプと違い、アメリカではマイナー契約の一新人であり、キャンプで登板予定が入っていてもメジャー契約の選手の都合で機会を奪われることもあった。

オープン戦で力を発揮できなかった斎藤は開幕メジャー入りを果たすことはできず、チームの開幕戦はスタンドで観戦したという。しかしシーズン開幕直後、ドジャースのクローザーを務めていたエリック・ガニエ故障者リスト入りし、入れ替わりで4月7日にメジャーに昇格。9日にメジャー初登板、18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾り、チームメイトのサンディー・アロマー・ジュニアから「ウェルカム・トゥ・ザ・ビッグリーグ!」と声をかけられ祝福されたという。当初はセットアッパーとして起用されていたが、登板8試合目まで無失点、4月の登板12試合を13回7安打1失点15奪三振で切り抜ける堂々のピッチングを見せ徐々にチームの信頼を勝ち取ると、6月にはガニエの再度の故障を受けてクローザーに指名される。その後も確実にチームを勝利に結びつけ続け、ドジャースの新守護神として定着した。

9月22日にドジャースの新人球団記録に並ぶ21セーブ目、9月30日には対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でシーズン24セーブ目を挙げる。この年はチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、リリーフ投手の中では両リーグ最多となる107三振を奪う好成績を挙げ、ドジャースのプレーオフ進出に大きく貢献した。後にピッツバーグ・パイレーツと契約する桑田真澄は、この斎藤のメジャーでの成功が、自身にメジャー挑戦を決断させたと語っている[要出典]ニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズでは2試合に登板し2回2/3を無得点に抑えたものの、リードした場面での登板機会はなくチームは3連敗を喫しプレーオフから姿を消した。オフに1年100万ドル(約1億1500万円)、出来高30万ドルで契約を更新。

ロアイザ、プロクター、ブロクストン、バイムルら他のドジャース投手陣と(2008年)

2007年シーズンもクローザーの役割を担い、開幕から順調にセーブを積み重ねる。6月26日のダイヤモンドバックス戦で日本人メジャー最高球速となる99mph(約159km/h)をマーク。これは日本人選手の計測した球速としては伊良部秀輝五十嵐亮太山口和男を抜いて歴代最速となる。また本人によれば日本での自己最速は153km/hである。また同日に記録したセーブによりメジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功を収め、初セーブ機会からの救援成功率で44/48のガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。

前半戦だけで23セーブを挙げるなど変わらぬ安定感が評価され、7月11日に行われたオールスターゲームに監督推薦で初出場。最速155km/hを計時し1イニングを三者凡退に抑えた。8月にも抜群の安定感を示し、月間MVPは候補に留まったものの、日本人投手初の快挙となる月間最優秀救援賞を受賞した。

シーズンも佳境となった9月19日、松井稼頭央(現:ヒューストン・アストロズ)の所属するコロラド・ロッキーズとのダブルヘッダー第二戦で1点リードの9回裏に登板。熾烈を極めるワイルドカード争いの中で迎えたこの一戦で、まさかの逆転サヨナラ2ランを浴びシーズン初黒星を喫する。結果的にロッキーズはこの勝利から奇跡的な快進撃を続け、サンディエゴ・パドレスとのワンデープレーオフを制してワイルドカードを獲得。一方のドジャースは急激に調子を落とし、ワイルドカード争いから脱落することとなってしまった。しかし斎藤はこの年ナ・リーグ3位の39セーブ、リーグのリリーフ投手の中で最も低い防御率1.40とWHIP0.72を記録(メジャー全体ではJ.J.プッツの防御率1.38、WHIP0.70に次ぐ2位)するなど抜群の成績を残し、シーズンを通じて絶対的な存在感を示した。

また毎年オフに発表されるアメリカのスポーツ統計専門会社イライアス・スポーツ・ビューローによる現役メジャー格付けランキングにおいて、斎藤はナ・リーグの救援投手部門トップの評価を受けた。日本人メジャーリーガーでは初のランク1位である。このランキングはFA補償の公式資料として認知されており、投手の場合は登板数、防御率など、あらゆる成績から独自の計算式で得点化している。補償に関しては過去2年分の成績が対象となる。2年間で63セーブはリーグ7番目(最多はサンディエゴ・パドレストレバー・ホフマンによる88セーブ)だったが、斎藤の2年間の投球内容が抜群に良く、被打率1割6分6厘、防御率1.77、加えて与四球の少なさ(2006年23、2007年はわずか13)が評価された。2008年年2月13日に更新したドジャースとの1年契約は約200万ドル(約2億1600万円)、出来高20万ドルにまで跳ね上がっている。

高齢でマイナー契約からの入団ながら、実力でメジャー屈指のクローザーにまで上り詰めた斎藤に対するグレイディ・リトル監督の信頼は非常に厚かった。リトル監督は2007年オフに退団するが、2008年から監督に就任したジョー・トーリも斎藤のピッチングを高く評価しており、38歳となったこの年もドジャース不動のクローザーとして活躍した。

ドジャース時代(2007)

2008年12月13日、契約がまとまらず、ドジャースから来季の契約を更新しないと発表され、FAになった。2009年1月10日ボストン・レッドソックスと2010年の球団オプションを含む年俸150万ドル、出来高600万ドルの1年契約を結んだ[1][2][3]。レッドソックスにはクローザーのジョナサン・パペルボンが所属しているため、マニー・デルカーメン岡島秀樹らと共にセットアッパーとしての起用が見込まれている[1]。契約では「8回とパペルボンの休養日の抑え」と伝えられたと報じられている[4]

2009年6月11日に日米通算100勝目を挙げ、日米通算100勝100セーブを達成した。翌日も勝利投手となり、日本人メジャーリーガー初の2試合連続勝利投手になった[5]。2010年の契約オプションは球団側が持っていたが、2010年の年俸となる「2009年の年俸+出来高」が600万ドルという、セットアッパーとしては異例の高額に及んでしまったため、ボストンはオプションを行使せずにウェイバーに掲示された[6]。2009年12月4日、アトランタ・ブレーブスと1年契約320万ドル+出来高230万ドルを結んだ。

[編集] 選手としての特徴

斎藤がメジャーで成功を収めることができた要因として、持ち球のひとつである右打者の外角へ鋭く逃げるスライダーが、メジャーリーグの外に広いストライクゾーンに適合していたことが挙げられる。加えて左打者へのバックドア(外のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるスライダー)も大きな武器になり、日本ではボールと判定されていたコースでストライクを取れるため、左右関係なく優位に対戦を進めることができた。

また、日本のマウンドに比べてメジャーリーグのマウンドは粘土質で固く、日本人投手が適応できない原因ともされている。しかし、斎藤の場合はそれが軸足の固定に役立ち、腕の振り抜きが速くなったという。その結果、日本時代に比べて10km/hほど球速が増加し、さらにスライダーの変化も大きくなったという。また、マイナー契約だったために常に解雇の恐怖と背中合わせであり、ベストな投球方法を見つけるためにフォームを試合中においても改造していたことを成功の要因としてインタビューで挙げている[7]

横浜時代にリリーフの経験があり連投でも球威を保つことができたことや、持ち前の明るい性格によりチームへの順応が早かったことなども作用したと思われる。また個人トレーナーをつけたことやメジャーの硬質なマウンドやボールの質に適応できたこと、投球フォームを改造したことなどが功を奏し、ストレートの球速が横浜時代の全盛期と比べても飛躍的に増した。トレーニングや日米の空気の湿度の違いのおかげか、故障のあった右ひじの不安が解消されたのも大きいようだ。

2009年のレッドソックスに移籍に際して、ア・リーグ東地区では自信のあるボールしか通用しないと考えて、失投の確率のあるフォークボールを封印して、ストレート、スライダー、カーブだけを投げている[4]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1992 大洋
横浜
6 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 76 16.0 18 2 10 0 0 21 2 0 16 15 8.44 1.75
1993 29 23 2 0 0 8 10 0 -- .444 627 149.0 127 15 61 1 6 125 7 0 66 63 3.81 1.26
1994 28 27 7 3 1 9 12 0 -- .429 769 181.0 175 5 69 4 8 169 2 0 70 63 3.13 1.35
1995 26 26 2 0 0 8 9 0 -- .471 682 162.0 166 13 45 1 6 132 1 0 79 71 3.94 1.30
1996 28 27 11 2 0 10 10 0 -- .500 801 196.2 157 31 63 1 11 206 4 1 80 72 3.29 1.12
1998 34 18 1 0 0 13 5 1 -- .722 572 143.2 131 9 23 1 2 101 2 0 49 47 2.94 1.07
1999 26 26 5 2 2 14 3 0 -- .824 754 184.2 178 32 31 0 6 125 1 1 83 81 3.95 1.13
2000 19 19 1 1 0 6 10 0 -- .375 493 115.2 123 17 36 1 3 97 1 0 74 71 5.52 1.37
2001 50 0 0 0 0 7 1 27 -- .875 251 64.2 51 6 14 3 0 60 0 0 12 12 1.67 1.01
2002 39 0 0 0 0 1 2 20 -- .333 197 47.2 37 5 15 3 4 46 0 0 17 13 2.45 1.09
2003 17 17 1 0 0 6 7 0 -- .462 439 103.1 103 16 22 1 9 72 1 0 59 48 4.18 1.21
2004 16 7 0 0 0 2 5 0 -- .286 211 44.1 64 12 13 0 2 37 1 1 41 38 7.71 1.74
2005 21 16 0 0 0 3 4 0 1 .429 457 106.0 111 12 29 1 7 93 2 0 50 45 3.82 1.33
2006 LAD 72 0 0 0 0 6 2 24 7 .750 303 78.1 48 3 23 3 2 107 2 0 19 18 2.07 0.91
2007 63 0 0 0 0 2 1 39 1 .667 234 64.1 33 5 13 0 3 78 0 0 10 10 1.40 0.72
2008 45 0 0 0 0 4 4 18 0 .500 197 47.0 40 1 16 3 2 60 1 0 14 13 2.49 1.19
NPB:13年 339 208 30 8 3 87 80 48 1 .521 6329 1514.2 1441 175 431 17 64 1284 24 3 696 639 3.80 1.24
MLB:3年 180 0 0 0 0 12 7 81 8 .632 734 189.2 121 9 52 6 7 245 3 0 43 41 1.95 0.91
通算:16年 519 208 30 8 3 99 87 129 9 .532 7063 1704.1 1562 184 483 23 71 1529 27 3 739 680 3.59 1.20
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグトップ
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

[編集] 背番号

  • 11 (1992年 - 2005年)
  • 44 (2006年 - 2008年)
  • 24 (2009年)

[編集] タイトル・表彰

NPB
MLB
  • 救援最多奪三振:1回(2006年)
  • 月間最優秀救援:1回(2007年8月)
  • オールスター出場:1回(2007年)
  • 新人セーブ数球団歴代1位(24セーブ、ロサンゼルス・ドジャース、2006年9月28日)
  • 初セーブ機会からの救援成功率メジャー歴代1位(現地2007年6月26日)

[編集] エピソード

  • 実家は仙台市で工務店を営んでおり、実兄も勤務中。プロゴルファーの宮里藍らが卒業した東北高校の新校舎建設も手掛けた。
  • 非常におおらかな性格で横浜スタジアムが休みのときに練習しに横浜スタジアムに向かってしまったり、バッティングの際に着用する肘当てやレガースを着けたままマウンドに向かってしまうことがあった。長年付き合ってきた佐々木曰く「隆はそういうことを指摘してしまうとダメになるタイプ。伸び伸びやらせてやるのが一番」とのこと。
  • 2006年9月18日のサンディエゴ・パドレス戦、チームのプレーオフ進出に向けて絶対に落とせなかった試合だったが、斎藤は9回表に1点ビハインドの状況からマウンドに上がるも制球が定まらず打ち込まれ、差を4点に広げられてしまう。斎藤は横浜時代から自分が打たれて負けた試合に強く責任を感じてしまう性格だそうで、ベンチに戻りガックリ下を向いていた。しかしチームメイトが「上を向け」「おまえがいたからここまで来られたんだ」「俺達が点を取ってやるから見てろ」と斎藤を励ましたという。そして9回裏、奮起したドジャース打線が反撃を開始、4番のジェフ・ケントから4者連続でソロ本塁打を打ち同点に追いつく[8]。この後10回表に再び1点を勝ち越されるもその裏、斎藤を一番に励ましていたというノマー・ガルシアパーラが逆転サヨナラ2ランをレフトに放ち、ドジャースは劇的な勝利を収めた[8]。同点に追いついたとき、斎藤はチームメイトの励ましに感動して涙したという[9]
  • 2007年6月頃、負けが込んでいたチームの悪い雰囲気をぬぐい去るため、試合後にロサンゼルスの店で侍の衣装を購入し、次の試合前に侍の格好でロッカールームを歩き回ってチームメイトたちを笑わせた(次の日の試合前にも侍姿で登場した。普段は滅多に笑わないジェフ・ケントも好評だったという)。また本人のブログによると、対戦相手のニューヨーク・メッツの選手にも大ウケされ、和ませてしまったらしい[10]
  • カラオケを趣味としており、横浜時代はチームメイトから「本人よりうまい」と言われたらしい。渡米後のマイナー時も、気持ちが落ち込んでいた時にチームメイトに誘われてロスの日本人向けクラブでビートルズナンバーを歌ったところチームメイトどころか店内の従業員や客からも大喝采を浴び、試合でのメンタルをポジティブに傾けるきっかけとなったという。
  • 次長課長河本準一とは、まだ次長課長が駆け出しの頃にDJを務めていたラジオ番組に出演したことがきっかけで、以後メジャーリーガーとなった現在でも河本を「ジュン」と慕うほどの交友関係を持つ。
  • 球団ホームページのプロフィールに載っている出身大学名はデビュー以来「Tottoku Fukushi(とっとくふくし)」のまま、08年に入っても長らく訂正されていなかった。また打席も「Right(右)」と表記されていた(実際は左打ち)。[1]
  • 2007年シーズンから本拠地ドジャースタジアムでマウンドに上がる際にかけられる曲は当初一世風靡セピアの『前略、道の上より』であった。本人が不評と感じたため数試合で変更したが、三振を奪った際には「素意や!」の掛け声の一部分が流れてスタジアムを盛り上げる。その後テーマ曲はロック歌手ジョージ・ソログッドの『バッド・トゥー・ザ・ボーン』が使用されていたが、2009年5月7日の登板より『前略、道の上より』に戻した。

[編集] 関連項目

[編集] 参考資料

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  1. ^ "Busy Red Sox add reliever Saito Ex-LA closer joins Penny, Smoltz, Baldelli as Boston signees". mlb.com. 2009年1月11日 閲覧。
  2. ^ "Red Sox sign free agent righthanded pitcher Takashi Saito to one-year contract with option for 2010". Redsox.com. 2009年1月11日 閲覧。
  3. ^ "Smoltz says he's determined, focused". ESPN.com. 2009年1月14日 閲覧。
  4. ^ "斎藤勲章「日米100勝&100セーブ!」". スポニチ. 2009年6月13日 閲覧。
  5. ^ NHK-BS1 MLBハイライトより引用
  6. ^ http://www.baseballdailydigest.com/2009/11/11/pacific-perspectives-postseason-watch-list/
  7. ^ 2009年5月3日放送 テレビ朝日系 GET SPORTSより
  8. ^ "September 18, 2006 San Diego Padres at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score" (英語). Baseball-Reference.com. 2008-03-16 閲覧。
  9. ^ シーズンオフのジャンクSPORTS出演時にも「最も嬉しかった出来事」としてこのエピソードを挙げている
  10. ^ http://sports.yoshimoto.co.jp/t_saito/2007/06/post_a700.html

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年12月8日 (火) 12:32 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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