新島八重

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新島八重
新島八重(右)とエバンゼリン・ブース(左/当時救世軍中将・米国司令官、ウィリアム・ブースの娘で、のち救世軍第4代大将)。右後方に同志社出身の山室軍平(救世軍中将・日本司令官)がいる(大正15年(1926年10月29日撮影)

新島 八重(にいじま やえ、弘化2年11月3日1845年12月1日) - 昭和7年(1932年6月14日)は幕末から昭和初期の日本女性で、同志社創立者の新島襄の妻として有名な人物である。旧姓は「山本」。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては「新島八重子」と書かれる場合もある。

会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

戊辰戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川﨑尚之助と結婚したが会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。

兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い明治8年(1875年)には女紅場を退職して準備を始め、翌明治9年(1876年1月3日に結婚。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。

明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。

日清戦争日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を授与される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。

[編集] 新島八重を演じた人物

[編集] 参考文献

  • 『近代の数寄者 続・茶人伝』(淡交社 淡交別冊愛蔵版 No.23)

最終更新 2009年9月2日 (水) 07:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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