新東宝映画
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| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 略称 | 新東宝 |
| 本社所在地 | 〒151-0053 東京都渋谷区代々木3丁目28-6 |
| 電話番号 | 03-5350-2141 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | 映画の製作配給 |
| 代表者 | 後藤功一 代表取締役会長 |
| 外部リンク | shin-toho.com |
新東宝映画株式会社(しんとうほうえいが-)は、日本の映画会社である。
目次 |
[編集] 略歴・概要
[編集] 前史
1961年(昭和36年)5月を最後に製作を停止した新東宝株式会社が同年8月31日に倒産、同年内に配給部門を大宝株式会社、製作部門をNAC(ニッポン・アートフィルム・カンパニー)に切り離し、旧・新東宝は清算に入った。やがて大宝は業務停止、NACはテレビ映画の受注製作を開始した。旧・新東宝は、1964年(昭和39年)に国際放映と名称を変更し、NACを吸収合併した[1]。「新東宝撮影所」は日本大学にほとんど売却したが、残った敷地が国際放映スタジオとなり、テレビ映画を製作した。「新東宝第二撮影所」はすでに大蔵貢の富士映画に譲渡されていた。
旧・新東宝には、配給網が存在し、製作停止によって作品の供給がストップしてしまったが、これをよしとしない同社の旧・関西支社の有志が自主配給・興行を始めた。これが現在の新東宝映画株式会社の前身、新東宝興業株式会社である。同社は、1963年(昭和38年)には、旧・新東宝の監督である中川信夫・小森白・高橋典を監督に『日本残酷物語』を製作・配給しているが[2]、同年の製作は同作のみで、あとは洋画の配給を行なった。当初は、いわゆる洋ピンではないお色気ものの外国映画が主体であった。
新東宝に関係していた監督や脚本家を用いて、のちにピンク映画と総称されるようになる短編の成人映画を続々と製作していく。当初は旧新東宝系の上映館を中心に配給していた。
[編集] ピンク映画
1964年(昭和39年)、新東宝興業株式会社は、現在の社名に名称を変更し、自主製作を本格的にスタートさせている。そのいずれもが現在の「ピンク映画」であった。製作にあたって、松竹の系列会社中映の中映プロダクション、浅野辰雄監督の浅野プロダクション、戦前・戦後の東宝社員監督・プロデューサーであった本木荘二郎のシネユニモンド等と提携して製作を行ない、自社で配給を行なった。本来が、撮影所や製作部門をもたないところからのスタートであったから、インディペンデント系の製作会社との提携は必須であった。
1960年代以降、矢本照男の国映、西原儀一監督の葵映画、あるいは日本シネマといった製作会社が製作した作品を配給した。現在も国映作品が新東宝映画で配給されるのはこのチェーン網の名残である。現行のオープニング映像とファンファーレ(鳴る作品と鳴らない作品がある)は、葵映画代表の西原儀一が製作・演出したものである。
同時期、大蔵貢も富士映画を改組した大蔵映画で、大蔵映画撮影所(現在のオークラランド)を拠点に同傾向の映画を製作・配給し、配給網「OPチェーン」の構築を推進した。ほかにも恵通チェーン(のちのミリオンフィルム)等の新興勢力、「洋ピン」ブーム、東映や大映などのメジャー系がポルノ映画や準ポルノ映画を次々に製作・配給し始め、新東宝映画はこれらと競合することとなった。
1968年(昭和43年)には、大手企業の東映が成人映画(東映ポルノ)の製作・配給を開始、1971年(昭和46年)には、日活が日活ロマンポルノの製作・配給を開始し、新東宝映画に出演していた女優やスタッフがヘッドハンティングされた。
大手が成人映画を製作停止した1980年代以降、同社は、数少ないピンク映画の配給会社のひとつとなった。
[編集] 関連事項
[編集] 註
- ^ 国際放映 有価証券報告書 2009-01-31期、有報リーダー、uforeader.com, 2009年9月12日閲覧。
- ^ 日本残酷物語、日本映画データベース。
[編集] 外部リンク
- Shintôhô Pictures, Shintoho Company, Shintoho Film Distribution Committee - Internet Movie Database (英語)
- ※ いずれも別資本・別会社の新東宝との混同あり
最終更新 2009年10月8日 (木) 15:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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